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17_80 両世界大戦期の日本と世界 / 国内情勢・第二次世界大戦・太平洋戦争

【太平洋戦争の原因とはじまり、日米交渉の決裂、真珠湾攻撃と緒戦の勝利】 受験日本史まとめ 77

著者名: Cogito
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1941年(昭和16年)8月、アメリカ大統領ローズヴェルトと、イギリス首相チャーチルが大西洋上で会談し、大西洋憲章を発表し、枢軸国の侵略戦争の非難とこの戦争の意義をファシズムに対する民主主義防衛戦争であると宣言しました。この結果、日本とアメリカ・イギリス両国の関係は悪化していきました。

1941年(昭和16年)9月6日、天皇臨席の御前会議において、日米交渉が10月上旬までにまとまらなかった場合、アメリカ・イギリス両国と開戦を決意するという方針の帝国国策遂行要領が決定しました。はじめ対米戦開戦に消極的だった海軍も、このころには陸軍の強硬論に同調するようになっていきました。対米交渉における日本側の要求は、アメリカ・イギリスの日中戦争への不介入、アメリカ、イギリスは極東において日本の国防の脅威となる行動にでないこと、アメリカ・イギリスは日本の物資獲得に協力することなどでしたが、アメリカ側は、日本軍の中国大陸・仏印からの撤退、日独伊三国同盟の事実上の空文化を要求し、交渉は決裂に向かいました。

1941年(昭和16年)10月半ば、近衛首相は対米開戦をいまだにためらい、中国からの撤兵を譲歩してでも日米交渉を継続するべきだと主張しましたが、陸軍大臣の東条英機は中国撤兵に強く反対し、日米交渉打ち切りを訴え、遂に第3次近衛内閣は総辞職しました。

この後、木戸幸一内大臣らの重臣会議の推薦を受けて、東条英機が首相に任命され、陸軍大臣を兼任しました。

組閣に際して、9月6日の決定の再検討を求めた天皇の意向を伝えられた東条英機は、再検討を進めました。この結果、東条英機内閣のもとで、11月1~2日に政府・軍部の最高首脳を集めた大本営・政府連絡会議が開かれ、開戦準備と日米交渉を並行して進め、12月1日までに交渉が妥結しなければ対米英開戦することが決められました(正式決定は11月5日の御前会議)。

日本側のこうした状況に対し、アメリカは11月26日に国務長官コーデル=ハルが日本側にハル=ノートという覚書を提示しました。ハル=ノートには、日本軍の中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の空文化、国民政府(重慶政府)以外の政権の否認などがアメリカ側の要求として書かれていました。これは満州事変以来の日本の対外政策を全面的に否定しており、これまでのアメリカの対日提案のなかでもっとも強硬なものでした。

ハル=ノートの内容は日本側に到底容認できるものではなく、政府はこれを最後通牒とみなし、12月1日の御前会議でアメリカ・イギリスとの開戦を決定しました。

日米開戦

1941年(昭和16年)12月8日、日本陸軍はイギリス領マレー半島(一部はタイ領)に上陸し、日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスに宣戦布告しました。こうして太平洋戦争がはじまり、3日後にドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告し、中国の国民政府も日独伊に宣戦布告し、翌年1月にタイが日本側にたち米英に宣戦布告しました。こうして第二次世界大戦はヨーロッパのみならずアジア・太平洋地域を戦場とする大戦争に発展しました。

開戦直前、東郷茂徳外相は対米交渉打ち切りの通告を12月5日午後にワシントンの日本大使館あてに発電する予定でした。しかし、開戦意図を直前まで秘匿することを強く主張した日本海軍側の要求により、発電は12月7日午前4時に変更され、アメリカ側への通告は12月8日午前3時(真珠湾攻撃の30分前)と決定されました。ところが、日米開戦を知らされていなかったワシントンの日本大使館では、暗号文書の解読や浄書に手間取り、通告が真珠湾攻撃開始から1時間ほど遅れる結果となりました。アメリカはこれをだまし討ちの奇襲攻撃として日本への憤激を高め、”REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな)”という合言葉で挙国一致となり、対日戦争に突入しました。真珠湾攻撃は戦術的に成果をあげましたが、アメリカの国論を統一させ、アメリカ国民の士気を高める結果となりました。

緒戦の勝利

日本軍は開戦直後の真珠湾攻撃でハワイのアメリカ太平洋艦隊の主力を、マレー半島沖でイギリス東洋艦隊の主力を撃滅し、1941年(昭和16年)12月中に、グアム・香港、1942年(昭和17年)1月にフィリピンのマニラ、2月にマレー半島・シンガポール、3月にオランダ領東インド(蘭印,現在のインドネシア)、4~5月にビルマ(現在のミャンマー)・フィリピン全島などを相次いで占領し、開戦以来半年あまりで、東南アジアのほぼ全域を制圧しました。こうして日本は、「支那事変」を含めてこの戦争を「大東亜戦争」というようになり、欧米勢力の植民地支配からアジアの諸民族を解放し、アジア人による共存共栄を目指す「大東亜共栄圏」という戦争目的を掲げました。

1943年(昭和18年)11月には、日本の勢力下の中国南京政府(汪兆銘政権)・満州国・タイ・ビルマ・フィリピン・自由インド仮政府の代表者を東京に集め大東亜会議を開き、大東亜共同宣言を発表し、欧米の植民地支配からの脱却を目指し、各国に戦争協力を求めました。しかし、これら諸国では、欧米諸国に代わる日本の支配に対して次第に民族的抵抗が激しくなりました。

一方、もともと抗日の機運が強かった中国で、日本軍は抗日ゲリラの拠点とされた村々を焼き払い、住民を殺害する三光作戦を展開していたため、中国の抗日運動は更に活発になり、抗日根拠地(解放区)が拡大していきました。また、満州では、陸軍医石井四郎率いる関東軍防疫給水部(七三一部隊)が細菌戦研究のため、多数の捕虜や囚人への人体実験を行い、戦後に戦争犯罪として大きな問題となりました。
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『詳説日本史』 山川出版社
『日本史用語集』 山川出版社

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