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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

エンリケとは わかりやすい世界史用語2254

著者名: ピアソラ
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エンリケとは

エンリケは、ポルトガル王国の王子であり、大航海時代の初期における中心人物の一人です。 彼は自らが航海に出ることはほとんどありませんでしたが、探検航海のパトロンとして、ポルトガルのアフリカ西岸への進出と大西洋の島々の植民地化を推進し、その後のポルトガル海上帝国発展の基礎を築きました。

出自と幼少期

エンリケは1394年3月4日、ポルトガルのポルトで、アヴィス王朝の創始者であるジョアン1世と、イングランド王エドワード3世の孫娘にあたるフィリッパ・オブ・ランカスターの三男として生まれました。 彼は、後に「輝かしい世代」と称されることになる王子たちの一人であり、兄には後に王位を継ぐドゥアルテ、そして優れた知性と旅の経験で知られるペドロがいました。 母親のフィリッパは敬虔なキリスト教徒であり、宮廷に高い道徳的規範をもたらしたことで知られています。 彼女は子供たちの教育に熱心で、エンリケは兄たちと共に、両親の監督のもとで質の高い教育を受けました。 この教育を通じて、エンリケは騎士道物語や占星術文学に強い関心を持つようになり、軍事作戦への参加と、可能であれば自らの王国を勝ち取りたいという野心を抱くようになりました。



セウタ攻略とアフリカへの関心の芽生え

エンリケのキャリアの出発点となったのは、1415年の北アフリカのイスラム教徒の港湾都市セウタの攻略でした。 当時21歳だったエンリケは、父ジョアン1世と兄たちと共にこの軍事作戦に参加しました。 セウタは、ポルトガル沿岸を襲撃し、住民を奴隷として売りさばくバルバリア海賊の拠点となっていました。 エンリケの伝記作家であるゴメス・エアネス・デ・ズララによれば、エンリケと兄たちは、模擬戦闘であるトーナメントではなく、本物の戦闘で騎士としての名誉を得たいと父王を説得したとされています。 ジョアン1世はこれに同意し、周到な準備の末、セウタを急襲し、攻略に成功しました。 この勝利においてエンリケは際立った活躍を見せ、セウタの王の代理官に任命されました。
セウタでの経験は、エンリケに大きな影響を与えました。 彼はそこで、サハラ砂漠を越えてやってくる隊商貿易がもたらす富と機会について学び、アフリカ大陸そのものに強い魅了を覚えました。 特に、アフリカのどこかに存在すると信じられていた伝説のキリスト教徒の王、プレスター・ジョンの王国への関心を深め、ポルトガルの貿易拡大への野心を燃やすことになります。 彼はアフリカに住むイスラム教徒について学び、彼らを征服してキリスト教を広めたいという願望を抱くようになりました。 また、アフリカの豊富な資源をポルトガルの利益のために活用したいとも考えました。

探検事業の開始とパトロンとしての役割

セウタ攻略後、エンリケはアフリカ西岸の探検に本格的に乗り出します。 彼は自らが航海者や航海士であったわけではありませんが、多くの探検航海を後援したことから「航海王子」という名で知られるようになりました。 彼の主な目的は、アフリカ西岸の航海知識を深め、アジアへの海上ルートを発見すること、ポルトガルの貿易機会を増やすこと、探検の資金源となる金を発見すること、キリスト教を世界に広め、イスラム教徒を打ち負かすことなど、多岐にわたっていました。 当時、地中海や古代からの東方への交易路はオスマン帝国やヴェネツィア商人に支配されており、モンゴル帝国の崩壊によって陸路の安全性も低下していました。 エンリケは、イスラム教徒の支配地域を迂回し、海路で直接西アフリカと交易することを目指したのです。
探検事業を推進するため、エンリケは様々な財源を確保しました。1420年5月25日、彼はテンプル騎士団の後継組織であるキリスト騎士団の総長に任命されました。 この地位は終生続き、騎士団から得られる莫大な収入は、彼の野心的な計画、特に探検航海の重要な資金源となりました。 また、兄のドゥアルテが1433年に王位に就くと、エンリケは探検で発見した地域内での交易から得られる全ての利益と、ボハドル岬を越える探検を認可する独占権を与えられました。 さらに、アルガルヴェ地方におけるマグロ漁の独占権も保有していました。
エンリケは、ポルトガル南端のサグレスに宮廷を構え、そこに航海術の学校を設立したという伝説が広く知られています。 この学校には、ヨーロッパ中から地図製作者、天文学者、数学者、航海士といった専門家が集められ、新しい船、地図、航海計器の開発が行われたと言われてきました。 しかし、近年の研究では、この「サグレスの学校」の実在を裏付ける直接的な証拠はなく、後世のポルトガルの歴史家によって創り出された伝説である可能性が高いと指摘されています。 とはいえ、エンリケがサグレス近郊のラゴス港を探検の拠点とし、彼の宮廷が様々な分野の専門家を引きつけ、知識交換の中心地となっていたことは事実です。 彼はキリスト教徒だけでなくユダヤ人の専門家も登用し、アラブの情報源を活用することも厭いませんでした。

技術革新:カラベル船と航海術

エンリケの指導の下で、ポルトガルの航海技術は飛躍的な進歩を遂げました。その中でも最も重要な発明が、カラベル船の開発です。 当時の地中海で使われていた貨物船は、重くて動きが遅く、大西洋の荒波を乗り越えるには不向きでした。 エンリケは、より遠くまで、より速く航海できる、軽量で新しい船の開発を命じました。 こうして生まれたカラベル船は、喫水が浅く、高い機動性を誇りました。 最大の特徴は、ラティーンセイル(大三角帆)を採用した点です。 この帆は、古代末期からキリスト教世界の地中海で普及していたもので、風をはらんで進むだけでなく、風上に向かっても航行(逆風帆走)することを可能にしました。 これにより、船は偏西風に大きく依存することなく、より自由な航海ができるようになったのです。 初期のカラベル船は80トン未満と小型でしたが、後には100トンから150トンに大型化されました。
また、エンリケ時代のポルトガル人航海士たちは、北大西洋の「ヴォルタ・ド・マール」(海の転回)と呼ばれる航海術を発見し、完成させました。 これは、赤道付近では東から吹く貿易風を利用して南下し、帰路は沖合に出て中緯度帯の西風(偏西風)を捉えてポルトガルに戻るという、信頼性の高い風のパターンを利用した航海法です。 この航海術の確立は、アフリカ沿岸からの安全な帰還を可能にし、探検活動を大きく前進させました。

探検の進展と主要な発見

エンリケが後援した探検は、数々の地理的発見をもたらしました。
マデイラ諸島とアゾレス諸島: 1418年頃、エンリケの船団はマデイラ諸島に到達し、ポルト・サントに植民地を設立しました。 1419年にはポルトガル王室が公式に領有を宣言し、エンリケがその統治権を与えられました。 彼はこの島々にサトウキビ栽培を導入し、後の植民地、特にブラジルで模倣されることになるプランテーションシステムを構築しました。 その後、1427年頃にはアゾレス諸島が発見され、ここもポルトガルの植民地となりました。
ボハドル岬の突破: 当時のヨーロッパの船乗りにとって、アフリカ西岸のボハドル岬は越えることのできない「恐怖の岬」と見なされていました。 強い海流と逆風のため、一度この岬を越えたら二度と戻れないという迷信が広く信じられていたのです。 エンリケは12年間にわたり、何度も探検隊を派遣してこの難関に挑ませました。 そして1434年、ついに彼の船長の一人であるジル・エアネスが、岬を迂回して無事に帰還することに成功しました。 この成功は、船乗りたちの心理的な障壁を取り除き、その後のアフリカ探検を加速させる画期的な出来事となりました。
西アフリカ沿岸の南下: ボハドル岬突破後、ポルトガルの探検は急速に南へと進みました。1441年、ヌーノ・トリスタンとアンタン・ゴンサルヴェスの探検隊がブランコ岬に到達しました。 1445年にはディニス・ディアスがセネガル川の河口に達し、その翌年にはヌーノ・トリスタンがガンビア川を発見しました。 エンリケが亡くなる1460年までに、ポルトガルの探検家や商人は現在のシエラレオネ周辺まで到達していました。

奴隷貿易の開始

エンリケの探検事業は、大西洋奴隷貿易の始まりという暗い側面も持っています。 当初、探検の主な目的は金や香辛料の交易でしたが、次第に人間の捕獲が重要な要素となっていきました。 1441年、アンタン・ゴンサルヴェスの探検隊がアフリカ西岸から数人のアフリカ人を捕らえてポルトガルに連れ帰りました。 これが、ポルトガルによるアフリカ人奴隷貿易の始まりとされています。 捕虜の一人であった首長は、自らの解放と引き換えに、より多くの人々を奴隷として提供することを約束しました。 数年のうちに、ポルトガルは奴隷貿易に深く関与するようになり、1448年には、増大する奴隷貿易を管理するために、エンリケはラゴスに税関施設の建設を命じました。 エンリケの探検は、西アフリカの人々を奴隷化し、ポルトガルへ連行する道を開いたのです。

タンジール遠征の失敗と晩年

エンリケの軍事的な野心は、常に成功したわけではありませんでした。1437年、彼は弟のフェルナンドと共に、国王ドゥアルテの消極的な同意を得て、モロッコのタンジールへの遠征を敢行しました。 しかし、この攻撃は惨hantaru失敗に終わり、ポルトガル軍は包囲され、弟フェルナンドが人質としてイスラム教徒側に引き渡されるという屈辱的な結果を招きました。 フェルナンドは解放されることなく、囚われの身のまま亡くなりました。 この失敗はエンリケの評判に大きな傷をつけました。
その後もエンリケは探検事業への情熱を失うことはありませんでした。彼は発見された土地からの交易利益やキリスト騎士団からの収入を使い、探検航海を後援し続けました。 彼は生涯結婚せず、子供もいませんでした。 禁欲的で敬虔な生活を送ったと伝えられていますが、一方で騎士道的な華やかさや祝宴を好む一面もあったようです。
エンリケは1460年11月13日、アルガルヴェ地方のヴィラ・ド・インファンテで亡くなりました。

遺産と評価


光の側面:大航海時代の開拓者

エンリケは、ヨーロッパ諸国がアフリカ、アジア、アメリカ大陸へと進出していく「大航海時代」の創始者の一人と広く見なされています。 彼の後援によって、ポルトガルは航海技術を飛躍的に発展させ、アフリカ西岸に関する地理的知識を蓄積しました。 カラベル船の開発や「ヴォルタ・ド・マール」航海術の確立は、その後の長期にわたる遠洋航海の基礎を築きました。 彼が始めた探検事業は、バルトロメウ・ディアスによる喜望峰の発見(1488年)や、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓(1497-99年)へと直接つながっていきます。 これらの功績により、ポルトガルは15世紀から16世紀にかけて海上帝国として繁栄の頂点を極めることになります。 彼の探検への情熱と投資は、後の世代の探検家たちに大きな影響を与え、世界の歴史の流れを大きく変えました。

影の側面:奴隷貿易の創始者

一方で、エンリケは「大西洋奴隷貿易の創始者」という不名誉な評価も受けています。 彼の探検がアフリカ人奴隷の組織的な捕獲と売買への道を開いたことは紛れもない事実です。 当初は金の獲得が主目的でしたが、それが困難であることが判明すると、より恐ろしい資源、すなわち奴隷へと目が向けられました。 彼が築いたポルトガル海上帝国は、搾取、ジェノサイド、そして奴隷制という暴力的な側面を内包していました。 エンリケの植民地化への努力が、その後何世紀にもわたる残虐行為と暴力の引き金となったという事実は、しばしば忘れられがちです。

評価の変遷

エンリケの評価は、時代と共に変化してきました。かつては、科学的探求心とキリスト教布教の熱意に燃えた、近代の先駆者として英雄的に描かれることがほとんどでした。 ズララのような同時代の伝記作家は、彼の功績を熱狂的に称賛しました。 しかし、近年の研究では、彼の動機が純粋な科学的・宗教的情熱だけでなく、商業的利益や軍事的野心といった、より現実的なものであったことが明らかにされています。 また、サグレスの航海学校の伝説のように、彼の功績の一部が誇張されてきたことも指摘されています。 さらに、植民地主義と奴隷貿易に対する批判的な視点が強まるにつれて、彼の負の遺産もまた、その評価において重要な位置を占めるようになっています。

エンリケ航海王子は、大航海時代の扉を開き、ポルトガルの黄金時代を築いた偉大なパトロンであったと同時に、その活動が大西洋奴隷貿易という人類史上の大きな悲劇の一因となった、極めて複雑で多面的な歴史上の人物であると言えます。彼の遺産は、科学の進歩と探検の精神を称賛する一方で、植民地主義と人種差別の暗い歴史を直視する必要性を私たちに突きつけています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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