世界情勢の急激な変化
1930年代後半、
ナチス=ドイツの対外侵略の危機が高まり、イギリス・フランスがこれに反発するようになりました。1938年(昭和13年)3月、ヒトラー率いるドイツは、隣国
オーストリアを併合し、更にドイツ系住民が多かった
ズデーテン地方の割譲を
チェコスロヴァキアに要求しました。この問題を処理するため、1938年9月に
ミュンヘン会議が開かれ、イギリスの
チェンバレン、フランスの
ダラディエ、ドイツの
ヒトラー、イタリアの
ムッソリーニが参加しました。このときイギリス・フランスが譲歩し、これ以上の領土要求を求めないことを条件に、ドイツの要求が認められました。
イギリス・フランスとの対立が深まる中、ドイツは1938年に中国から軍事顧問団を引き揚げ、「
満州国」を承認し、日本との連携を強化し、日独伊防共協定を対イギリス・フランスにも適用する軍事同盟に発展させるため日本に働きかけました。
当時、日本は日中戦争の最中であり、同時に1938年(昭和13年)に
張鼓峰事件、1939年(昭和14年)に
ノモンハン事件とソ連との国境で武力衝突をおこしました。ノモンハン事件では、日本の関東軍がソ連軍に大敗北し、陸軍当局に衝撃を与えました。
世界情勢が大きく変わりつつある中、日本陸軍はドイツ・イタリアへの接近をはかり、軍事同盟締結を目指し動き始めました。しかし、日本海軍や外務省は、アメリカやイギリスなどとの戦争の危険性が高まるとし反対しました。
こうした問題をめぐり、当時の
平沼騏一郎内閣は閣内対立がおこり、1939年(昭和14年)8月にドイツが突如ソ連と
独ソ不可侵条約を締結し、外交の方向性を見失ったため総辞職しました。独ソ不可侵条約の秘密協定では、ドイツとソ連はポーランドをはじめとする東欧における両国の勢力範囲を取り決めていました。
第二次世界大戦のはじまり
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツは突如ポーランドに侵攻し、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスが2日後にドイツに宣戦布告し、
第二次世界大戦がはじまりました。ドイツに対するイギリス・フランスの宥和政策は失敗し、第一次世界大戦の戦火を経験したヨーロッパで、再び大戦争が始まったのです。半月後、ソ連も東方からポーランドに侵攻し、独ソ両国がポーランドを分割しました。またソ連は同年末から翌年にかけて、フィンランドの一部を占領し、バルト3国を併合しました。
第二次世界大戦勃発の際、
阿部信行内閣のもとで日本は大戦不介入を声明し、そのあと成立した
米内光政海軍大将を首相とする内閣は、ドイツ・イタリアとの軍事同盟に消極的姿勢を取り、大戦不介入方針を取り続け、アメリカ・イギリスとの関係改善を目指しました。しかし、1940年(昭和15年)4月ころから、ドイツがヨーロッパの西部戦線において電撃作戦を成功させ、イギリス・フランス連合軍を撃破し、この勝利を見たイタリアも枢軸陣営として参戦しました。同年6月、ドイツ軍はパリを占領し、フランスはドイツに降伏しました。
ヨーロッパの戦争でドイツ軍の優勢が続くと、日本国内でもドイツの勝利を礼賛する空気が高まり、陸軍を中心とした勢力はドイツを軍事同盟を結び、南方の資源を獲得する南進論を主張しました。こうした国内世論により、親英米的内閣だった米内光政内閣が陸軍の圧力によって1940年(昭和15年)7月に倒れ、
第2次近衛文麿内閣が成立しました。第2次近衛内閣は外務大臣に親ドイツ派の
松岡洋右、陸軍大臣に
東条英機(1884~1948)を起用し、これまでの大戦不介入方針を大転換し、ドイツ・イタリアとの連携強化、南方諸地域への積極的進出を打ち出しました。こうして、1940年(昭和15年)9月に
日独伊三国同盟が締結されました。この三国同盟では、日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアの指導的地位を、ドイツ・イタリアは東アジア・東南アジアにおける日本の指導的地位を相互に認め、3国のいずれかが他国の攻撃にあった場合、互いに政治的・軍事的に援助を行うとしたもので、アメリカに対抗するための攻守同盟となりました。
同時期、日本は東アジアと東南アジアを勢力圏とする「
大東亜共栄圏」の確立をめざし、南方進出を開始しました。オランダ領東インド(蘭印)に資源獲得を目指す一方で、中国国民政府に英・米・仏が援助していた
援蒋ルートの遮断を目的とし、ドイツ占領下のフランスの
ヴィシー政権と交渉し、飛行場使用や軍の派遣を認めさせ、同年9月に
北部仏印進駐をはじめました。