協調外交の行き詰まり
田中内閣の総辞職後、立憲民政党の
浜口雄幸内閣が成立し、再び幣原喜重郎を外相に起用し協調外交方針を打ち出しました。1930年(昭和5年)、イギリスの提唱により
ロンドン軍縮会議が開かれ、英・米・日・仏・伊の5カ国が参加し、日本は若槻礼次郎元首相と財部彪海相を全権として派遣しました。
同年4月に米・英・日のあいだで
ロンドン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦建造禁止の5年間延長や米・英・日の補助艦保有比率を10:10:7とし、大型巡洋艦を10:10:6とすることなどが決められました。かねてから対米7割の保有量を目指していた海軍内部では、政府が海軍の反対をおさえて条約に調印したため、加藤寛治軍令部長ら艦隊派から
統帥権干犯として非難され、軍縮反対の動きがおこり、野党の立憲政友会や国家主義団体らがこれに同調しました。浜口首相はこうした反対論を押し切って天皇による条約批准に成功しますが、同年11月に国家主義団体の青年により狙撃され重症を負い、翌年4月に浜口内閣は総辞職し、8月に浜口雄幸は死去しました。
ここで問題となった
統帥権とは、軍隊の作戦や用兵権のことで、天皇大権に定められていました(憲法第11条)。これは陸海軍の統帥機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の補佐によって発動され、政府も介入できない慣行になっていました。これを統帥権の独立といいます。しかし、兵力量の決定は天皇の編成大権(第12条)であり、内閣の国務大臣による輔弼事項となっており、内閣による軍縮条約への締結は問題ありませんでした。しかし、海軍の強硬派など軍縮条約反対派はこの統帥権を拡大解釈し、浜口内閣を非難しました。この後、軍部は「統帥権の独立」を理由に軍事問題への政府介入を拒否し、政府の統制を離れて勝手に軍事行動を起こすようになっていきます。
こうした中、満蒙問題などで対中国外交は課題が山積していましたが、1930年(昭和5年)に中国と日中関税協定を結び、中国に関税自主権を認めました。しかし、外相幣原喜重郎が進めた協調外交は、しだいに行き詰まっていきました。