天皇機関説問題
国家主義が高まるにつれ、国内の思想・言論に対する弾圧も激しくなり、マルクス主義や自由主義・民本主義などの思想や学問も厳しい取り締まりを受けるようになっていきました。1933年(昭和8年)には自由主義的刑法学説を唱えていた京都帝国大学教授の滝川幸辰が滝川事件で大学を追われ、1935年(昭和10年)には東京帝国大学教授美濃部達吉の
天皇機関説が攻撃され政治的に問題となりました。
天皇機関説とは、ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づき、美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立しました。これは、統治権の主体を法人としての国家と規定し、国家元首の天皇はその最高機関であり大日本帝国憲法の条規に従い統治権を行使するというものでした。1935年(昭和10年)、軍人出身の菊池武夫議員が貴族院でこれを非難し、軍部や国家主義グループが天皇主権説の立場から統治権の主体は天皇にあるとし、天皇機関説を日本の国体に背く不敬の学説であると攻撃したのでした。彼らが天皇機関説問題をおこした本当の目的は、当時の岡田内閣と穏健派の現状維持勢力を打倒することであり、岡田内閣はやむなく2度の
国体明徴声明を出し、美濃部達吉は貴族院議員を辞任し、その著書は発禁処分となりました。こうして明治憲法の立憲主義は否定され、自由主義的思想も反国体的思想とみなされるようになりました。
二・二六事件
1930年代半ば、軍部の中で陸軍の政治的発言力が大きくなるにつれ、陸軍内部で
皇道派と
統制派という2つの派閥的対立が激しくなっていきました。皇道派とは、陸軍幹部の荒木貞夫・真崎甚三郎を中心とする一派で、元老・重臣・政党・財閥など現状維持勢力を排撃し、天皇中心の革新論を唱えました。北一輝の思想に影響を受けた急進的な青年将校が次第に皇道派に結集していきました。一方統制派は、陸軍全体の統制を強化し、現状維持勢力をも利用し、組織的動員により高度国防国家を目指す派閥で、林銑十郎・永田鉄山を中心に中堅の実務幕僚の支持を集めていました。
荒木貞夫が陸軍大臣(犬養内閣・斎藤内閣)となった際には、皇道派の動きが活発になりましたが、荒木が病気を理由に辞任し、林銑十郎が陸軍大臣(斎藤内閣・岡田内閣)を継ぐと、統制派は永田鉄山を軍務局長に起用し皇道派をおさえようとし、真崎甚三郎も教育総監を罷免されました。こうした統制派に対する皇道派の反発は激しくなり、1935年(昭和10年)8月、皇道派将校相沢三郎が統制派軍務局長の永田鉄山を陸軍省内で白昼惨殺した相沢事件がおこりました。
こうした中、1936年(昭和11年)2月26日未明、遂に皇道派の青年将校らが1400名余りの兵士を率いてクーデターを実行し、首相・蔵相・内大臣・教育総監・侍従長などの官邸・私邸・警視庁などを襲撃し、
蔵相高橋是清・内大臣斎藤実・教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、
鈴木貫太郎侍従長に重症を負わせ、永田町を占拠しました。この
二・二六事件は、正規軍の大規模な反乱であり、陸軍当局は対処にとまどいました。これに対し海軍は戦艦を派遣し徹底鎮圧を主張し、昭和天皇自身も信頼する老臣を虐殺されたため反乱軍の鎮圧を望みました。多くの兵は帰順し、青年将校たちは自殺や降伏し、事件は終息しました。その後首謀者たちは戒厳令下で行われた非公開の軍法会議で死刑となり、思想家北一輝・西田税も処刑されました。この二・二六事件をきっかけに陸軍当局は統制回復を図り、岡田内閣のあとを継いだ広田弘毅内閣に迫り
軍部大臣現役武官制を復活させました。この後広田内閣は広義国防国家の建設を綱領とし軍事予算を増額し、中国と南方に日本を中心とするブロック圏確立を国策としました。