信教の自由
明治初期の神道による国民教化は成果を上げることはできませんでしたが、国家統制のもとで神社神道確立の方向に向いました。政府の公認を受けたものが
教派神道で、明治には13派が公認されましたが、中でも幕末に創始された
天理教・金光教が庶民の間に広まりました。
一方仏教も廃仏毀釈運動が収まるにつれ勢力を回復し、井上円了は国粋主義の立場から仏教の再興を訴え、島地黙雷は神道の国教化に反対し信教の自由を説き、仏教の復興をはかる仏教思想家が現れました。
キリスト教は、幕末からオランダのフルベッキ、アメリカの
ヘボンやジェーンズ、ロシアのニコライら宣教師が布教活動を行っていましたが、1873年(明治6年)に禁制が解かれ、欧米文化の流入とともに、主として日本の知識階級の人々に受け入れられるようになっていきました。幕末にはカトリックに代わり
プロテスタント諸派が日本に布教活動を行い、教会や学校(ミッション=スクール)を各地に設立しました。日本人のキリスト教信者の中からも、
新島襄・内村鑑三・植村正久・海老名弾正など優れたキリスト教思想家・教育者が現れました。また、キリスト教の人道主義の立場から、
社会福祉や
廃娼運動も行われるようになりました。
こうして、信教の自由を認めるべきという要求が国民の間で強まり、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の第28条で明文化されました。しかし、キリスト教は庶民の間にそれほど広まらず、内村鑑三不敬事件をきっかけに国家主義の立場や仏教界から攻撃をうけるようになりました。
教育の普及と統制
明治政府は、近代化政策として国民教育を重要視し、1872年(明治5年)に学制を公布しましたが、国民生活の実情に合わなかったため、1879年(明治12年)これを廃止し、
教育令を公布しました。
教育令は
アメリカの教育制度をもとにしたもので、自由主義的で小学校の大綱のみを定め、運営は各地方の自主性に委ね最低就学期間は16ヶ月大幅に短縮されたものでした。
しかし、こうした自由放任主義の性格により、教育水準の低下が懸念されたことにより、翌年政府は改正教育令を発布し、学校教育に対する政府の指導・監督を強化し、最低就学期間を3年間と定めました。
高等教育機関も1877年(明治10年)に東京開成学校と東京医学校が合併し、
東京大学が設立され、日本初の西洋的な近代的総合大学が発足しました。帝国大学はその後
京都帝国大学・東北帝国大学・九州帝国大学・北海道帝国大学・京城帝国大学・台北帝国大学・大阪帝国大学・名古屋帝国大学などが設立され、中・下層の社会層からも高級官僚・高級技術者・学者など国家の指導者層を育成する高等教育機関となりました。
こうした中、反政府的な自由民権運動が高まりを見せると、政府は当初の自由主義・功利主義的な教育政策から、より一層の国家統制を強める方向に向いました。小学校では儒教道徳に基づく修身教育が重視され、政府による教科書の検定制度が実施され、自由主義的内容の教科書は使用されなくなっていきました。
1886年(明治19年)には、文部大臣森有礼らにより、
帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令などの学校令が制定され、学校教育制度が確立されました。小学校令では、保護者は児童に教育を受けさせる義務があるとし、尋常小学校に4年(一部3年)通わせることが定められました。1894年(明治27年)に高等学校令、1899年(明治32年)に実業学校令・高等女学校令・私立学校令、1903年(明治36年)に専門学校令、1918年(大正7年)に大学令が公布されました。