近代化の影に
明治時代のめまぐるしい発展の影に、公害問題も多く発生していました。
なかでも有名なのが
足尾銅山鉱毒事件です。
足尾銅山鉱毒事件
群馬県と栃木県の渡良瀬川に、足尾銅山からでた鉱毒が流れだした事件です。
当時東アジア一の銅の生産量を誇った足尾銅山ですが、鉱毒ガスやそれに伴う酸性雨の影響で、緑が失われていきました。銅山からの廃液が川へと流れ、1000名近くの人が毒物の犠牲となりました。また、汚染された川のために農作物が育たなくなるなどの被害がでました。
田中正造
田中正造は、生涯をかけて足尾銅山鉱毒事件の追求に取り組んだ政治家です。
富国強兵/殖産興業の時代、政府の公害対策も十分ではなかった中立ち上がったのが、衆議院議員を務めていた
田中正造でした。
田中正造のとった行動で一番有名なのが、
天皇へ直訴したことです。
当時は「
天皇は神聖にして侵すべからず」と憲法に記されていた時代です。直訴をすれば、死刑にもなるかもしれないような時代です。天皇へ直訴しなければならないほど、政府は田中の意見を取り合わずに無視していたということでしょう。
この田中の行動のあと、
世論では足尾銅山についての認識が高まります。
田中も、自分が死刑になれば、それはそれで足尾銅山への関心度が上がるだろうと思っていたのかもしれません。
しかし政府は、この事件を「奇人がやったこと」として軽く流してしまいました。
田中正造のもくろみは失敗に終わり、この鉱毒事件もうやむやにされてしまいました。
過去の事件とされていますが、今でも現在でも鉱毒物質が検出されることがあるといいます。