織田信長の天下統一の野望
群雄割拠の戦国時代において、天下統一の野望をもったのが
織田信長(1534〜82)でした。尾張守護代の家臣織田信秀の子として誕生した織田信長は、1555年(弘治元年)に守護代を滅ぼして清州城を奪い、尾張を統一しました。1560年(永禄3年)には、尾張に侵入した今川義元(1519〜60)を
桶狭間の戦いで破り、1567年(永禄10年)には美濃の斎藤氏を滅ぼし、その居城だった稲葉山城を岐阜城と改名し、天下布武(天下に武を布くす)の印判を使用して天下統一の意思を明らかにしました。翌年には、暗殺された前将軍足利義輝の弟足利義昭をたてて京都に入京し、足利義昭を将軍職につけました。足利義昭は、副将軍や管領の任を織田信長に勧めましたが、彼はこれらを断り、室町幕府と一定の距離を保ちました。また朝廷に対しては、荒廃した内裏の修繕を行い、正親町天皇の皇子誠仁親王を形式上の養子にするなど、皇室の権威を積極的に用いました。
1570年(元亀元年)、近江の
浅井長政(1545〜73)と越前の
朝倉義景(1533〜73)の連合軍を
姉川の戦いで破った織田信長は、翌年に浅井・朝倉側についた比叡山の
延暦寺を焼き討ちにし、強力な僧兵を誇った寺社勢力を屈服させました。1573年(天正元年)、室町幕府将軍の足利義昭は、織田氏の勢力拡大に対し、浅井・朝倉・武田諸氏と結んで反抗しました。しかし、武田信玄の突然の死去により、武田軍が進軍を中止し、連合軍は弱体化しました。この機会をとらえた織田信長は、浅井長政・朝倉義景を討ち、将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させました。
室町幕府を滅ぼした織田信長は、1575年(天正3年)に武田信玄の子武田勝頼を三河の長篠合戦で破りました。この戦いで織田軍は鉄砲隊を組織し、馬防柵とともに当時最強と言われた武田の騎馬軍団に大勝したのです。翌年、織田信長は、近江に壮麗な
安土城を建造しはじめました。
この間、1570年(元亀元年)からは、本願寺第11代門主
顕如(光佐,1543〜92)により全国の一向一揆が織田信長に対抗し、11年におよぶ
石山戦争がはじまりました。1574年(天正2年)に伊勢長島、翌年には越前の一向一揆を平定した織田信長は、1580年(天正8年)に石山本願寺を屈服させ、顕如を石山(現大阪)から退去させました。同時期、加賀の一向一揆も解体しました。
こうして、織田信長の天下統一は目前に迫りましたが、1582年(天正10年)、甲斐の武田勝頼を天目山の戦い滅ぼし、毛利氏征討に向かう途中に滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀に謀反を起こされ敗死しました。これを
本能寺の変といいます。
織田信長は優れた軍事指導者でしたが、一方で新しい支配体制も各地で作り上げました。京都に入った直後、堺に大量の矢銭(軍用金)を要求し、これを堺側が拒否すると、翌年織田信長は堺を直轄領にし、畿内の経済力を手中におさめました。また、安土の城下町では楽市・楽座令を出して商人の自由な営業活動を認めるなど、経済活動の円滑化を図りました。宗教政策では、延暦寺や一向一揆を制圧し、京都の日蓮宗にも安土城下で浄土宗と論戦を行わせ(安土宗論)、これに敗訴した日蓮宗を弾圧しました。このように、既存の仏教勢力を徹底的におさえる一方で、これらから弾圧されていたイエズス会宣教師には好意的な態度をとり、南蛮貿易にも大きな関心を寄せました。