はじめに
1570年の
金ヶ崎の戦い・
姉川の戦い、そして1573年の
小谷城の戦いにおいて、織田信長は浅井長政と対立をします。ここでは、なぜ2人が対立をしなければならなかったかについて述べていきます。
織田信長と浅井長政は同盟関係にあった
浅井長政は織田信長の妹、市を妻としていました。これは
織田信長と浅井長政が同盟関係にあったことを意味しています。同盟関係にある以上、お互いが戦うことは考えにくいものですが、なぜ浅井長政は織田信長と戦わなければならなかったのでしょうか。
そこには、浅井氏と昔から同盟関係にあった朝倉氏の存在、そして織田氏と浅井氏の間にあった同盟の内容が理由としてあげられます。
■浅井氏と朝倉氏の関係
浅井家は織田信長と同盟を結ぶよりはるか前から、越前の朝倉家と同盟関係にありました。そして当時の朝倉家領主
朝倉景義は、織田信長と不仲であったと言われています。
■織田氏と浅井氏の同盟
一方で浅井長政が織田信長と組んだ同盟には、朝倉氏には戦を仕掛けないという内容があったとされています。ところが織田信長がこの同盟を破って朝倉氏に戦をしかけました。
信長が朝倉義景に戦をしかけた
浅井長政にとって、朝倉氏は昔から友好関係にある一方で、織田信長は奥さんの兄、つまり義理の兄にあたります。ここで浅井長政は、朝倉氏との同盟関係を重視して織田氏と戦うことを決断したのです。
金ヶ崎の戦い
織田信長が朝倉義景にしかけ、同盟を結んでから最初に浅井長政と対立した戦いを
金ヶ崎の戦いといいます。
織田信長と同盟関係にあった浅井長政の領地は北近江(現在の滋賀県)に、そして朝倉義景の領地はその隣の越前国(現在の福井県)にありました。織田信長は浅井長政と同盟を結んだことで、下図のところまで兵を進めることができたんですね。
朝倉義景と戦をしているときに、背後を浅井長政につかれてはひとたまりもありません。そうした理由もあって織田信長は浅井長政と同盟を結んだはずでした。しかしここで浅井長政の裏切りにあいます。
織田信長は、北を朝倉義景、南を浅井長政という形で板挟みにされそうになりました。
「織田信長、絶対絶命のピンチ!」だったわけですが、信長の妹、市が機転をきかせて、浅井長政の裏切りを信長に伝え、信長は命からがら逃げることができました。
■次:「姉川の戦い」と「小谷城の戦い」