南北朝の動乱
後醍醐天皇は1336年(建武3年)末、京都を脱出し
吉野にこもり、自らが正統な天皇であると主張しました。そのため、京都の光明天皇の
北朝と、吉野の後醍醐天皇の
南朝が出現し、
南北朝時代が始まりました。南朝は北畠顕家が敗死したあと、主要な戦力を失い、後醍醐天皇も失意のうちに死去し、以後は
北畠親房主導のもと各地に残った数少ない勢力圏を拠点とし、北朝への抵抗を続けました。
1338年(暦応元年)、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、幕府政治を再興させました。幕府内では、武士の棟梁として尊氏が君臨し、直義は統治者として権限を掌握し、評定・引付を再設置し、
安堵方・禅律方などを新設し、政治を行いました。明確に権力が分担された尊氏と直義の二頭政治は、次第に両者の衝突が多くなり雲行きが怪しくなっていきました。尊氏の執事
高師直は、畿内の振興武士層を集め親衛軍を組織し、北畠顕家や楠木正成の子正行を滅ぼしました。こうして、新興の武士層を集める高師直と保守的で文治を重んじる武士を集める直義の対立は深まりました。
足利尊氏・高師直と足利直義の対立は続き、ついに1350年(観応元年)に
観応の擾乱という全国的な争乱に発展します。1351年(観応2年)に高師直が殺害され、翌年に足利直義が敗れ死去した後も争乱は続き、足利尊氏の嫡子義詮一派、足利直義の養子直冬(実は尊氏の庶子)、南朝勢力が抗争を繰り返しました。こうした抗争の中、尊氏も直義も一時的に南朝に降伏し、南朝は反幕府勢力助けを受けながら4度にわたって京都へ侵攻しました。
北朝・南朝・足利尊氏党・足利直義党の争乱が長期に渡った理由として、武家社会において
分割相続から
単独相続への転換がおこり、本家と分家を前提とする
惣領制が崩壊し、武士は血縁よりも地縁を重んじるようになったことが挙げられます。その結果、各地に新しい武士集団が生まれ、一方が北朝に属せば他方は南朝に、一方が尊氏党なら他方は直義党に属すようになり、本家の司令を受けず、分家が自らの家の存続をかけて戦うという構図も生まれました。同時に、武士の支配に対抗する農村の共同体形成も進みました。