平家物語
康頼祝言
さるほどに、鬼界島が流人共、露の命草葉の末にかかつて、惜しむべきとにはあら共、丹波少将の舅平宰相の領、肥前国鹿瀬庄より衣食を常にをくられければ、それにてぞ俊寛僧都も康頼も、命生きては過ごしける。康頼は流されけるとき、周防室積にて出家してんげれば、法名を性照とこそついたりけれ。出家はもとよりの望みなりければ、
つひにかくそむきはてける世中をとくすてざりしことぞくやしき
丹波少将、康頼入道は、もとより熊野信じの人々なれば、
「いかにもして、この島のうちに熊野の三所権現を勧請し奉て、帰洛の事を祈り申さばや。」
と云ふに、俊寛僧都は、天姓不信第一の人にて、これを用ゐず。二人は同じ心に、もし熊野に似たる所もやあると、島のうちを尋ねまはるに、或いは林塘の妙なるあり、紅錦繍の粧品々に、或いは雲嶺の怪しきあり、碧羅綾の色一つにあらず。山の気色、樹の木立に至るまで、外よりもなほ勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波、煙の浪ふかく、北をかへり見れば、また山岳の峨々たるより、百尺の滝水漲り落ちたり。滝の音ことに凄まじく、松風神さびたる住まひ、飛滝権現のおはします、那智の御山にもさ似たりけり。さてこそやがてそこをば、那智の御山とは名付けけれ。この峰は本宮、かれは新宮、これはそんぢやうその王子、かの王子なんど、王子王子の名を申して、康頼入道先達にて、丹波少将相具しつつ、日毎に熊野詣の真似をして、帰洛の事をぞ祈りける。
「南無権現金剛童子、願はくは憐れみを垂れさせおはしまして、故郷へかへし入れさせ給ひて、妻子をも今一度見せ給へ。」
とぞ祈りける。日数つもりてたちかふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の水をこりにかいては、岩田河の清き流れと思ひやり、高き所にのぼつては、発心門とぞ観じける。