大陸会議の開催
ボストン茶会事件を境に、本国の圧政に反対する人々の数は次々に増えていきました。
1774年には、ジョージア州を除く12州の代表者がペンシルヴァニア州の首都
フィラデルフィアに集まり、第1回
大陸会議が開かれました。
第1回大陸会議では、以下の事柄が決められました。
・本国と植民地の通商断絶
・不当課税の拒否
この会議は、各植民地の代表者の連絡会議として開かれ、大陸の植民地の団結を促しました。
独立戦争の開始
1775年には、イギリス本国の軍隊と、植民地の軍隊がはじめて衝突します。
1775年、ボストン西北の
コンコードと
レキシントンという場所で、イギリス軍と植民地の民兵が銃撃戦を行いました。
(レキシントンの戦い)
この戦いのあと、植民地側は第2回大陸会議を開催し、大陸軍の編成と、ヴァージニア出身の政治家
ジョージ=ワシントンを総司令官に任命します。
(ジョージ=ワシントン)
こうして、イギリス本国からのアメリカ独立戦争が始まったのです。
独立戦争当初、自営農民や商工業に携わる人々が愛国派(パトリオット)として独立を目指していましたが、その数は植民地人口のおよそ3分の1程度でした。その他、本国への依存を続けようとする忠誠派(ロイヤリスト)や中立派といった人々もたくさんいたため、植民地の世論は様々でした。
しかし1776年1月、
トマス=ペインという思想家が『
コモン=センス(常識)』というパンフレットを書きました。
(コモン=センス)
これは、本国からの独立の正当性と共和国樹立の必要性を平易な文章で記したもので、多くの人々に読まれ、世論を独立へと向かわせました。
独立を求める人々の希望に応える形で、1776年7月には
ジェファソンが起草した
独立宣言が採択されます。
(独立宣言の署名)
独立宣言は、人権や革命権など、当時
ジョン=ロックらによってヨーロッパで盛んに唱えられた
自然法思想を元にして作られました。
独立宣言の発布により、植民地の人々は新しい国家の誕生を目指し、革命を続けるという目標を持つようになります。