平家物語
鹿谷
東山の麓、鹿谷といふ所は、うしろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、平家滅ぼさむずる謀(はかりごと)をぞ廻(めぐ)らしける。ある時、法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息浄憲法印御供仕(つかまつ)る。その夜の酒宴に、この由を浄憲法印に仰せ合はせられければ、
「あなあさまし、人あまた承り候ひぬ。只今もれ聞こえて、天下の大事に及び候ひなんず」
と、大きにさはぎ申されければ、新大納言気色変はりて、ざっと立たれけるが、御前に候ひける瓶子(へいじ)を、狩衣の袖にかけて引き倒されたりけるを、法皇、
「あれはいかに」
と仰せければ、大納言立ち帰りて、
「へいじ倒れ候ひぬ」
と申されける。法皇笑壺にいらせおはしまして、
「者ども参って猿楽つかまつれ」
と仰せければ、平判官康頼参りて、
「あら、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ」
と申す。俊寛僧都、
「さてそれをばいかが仕(つかまつら)むずる」
と申されければ、西光法師、
「首を取るにしかじ」
とて、瓶子の首を取ってぞ入りにける。浄憲法印あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。返す返すもおそろしかりし事どもなり。
与力の輩誰々ぞ。近江中将入道蓮浄俗名成正・法勝寺執行俊寛僧都・山城守基兼・式部大輔雅綱・平判官康頼宗・宗判官信房・新平判官資行・摂津国源氏多田蔵人行綱を始めとして、北面の者輩多く与力したりけり。