ロシアの東方進出と清の改革で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
ロシアの東方進出
・東方で中国と接していたロシアとの間にはたびたび戦いが起こっていたが、
1689年に清の
康煕帝とロシアの
ピョートル1世の間で
ネルチンスク条約が結ばれ、
アルグン川と
スタノヴォイ山脈(外興安嶺)を両国の国境とした。これは清がヨーロッパ諸国と結んだ最初の対等条約であった。その後1727年に
キャフタ条約が結ばれ、モンゴルとシベリアの国境や、交易方法などが定められた。
・1847年にロシア皇帝
ニコライ1世が設置した初代東シベリア総督には、
ムラヴィヨフが就任した。これ以降総督は外交権や統治権を与えられ、領土の拡大を目指した。
・1858年、アロー戦争を利用したロシアは、清と
アイグン条約を結び、黒竜江を国境とし、ウスリー川以東を両国の共同管理とした。
・1860年には、アロー戦争で英仏との講和を調停した見返りに、ロシアも清と北京条約を結んだ。これにより、ウスリー川以東の
沿海州をロシアが獲得し、中心都市として
ウラジヴォストークが建設され、以降極東経営の拠点となった。
・1855年には、日本の江戸幕府と
日露和親条約を結び、千島列島のエトロフ島以南を日本領とし、樺太(サハリン)を両国の雑居地域とした。また、
箱館・下田・長崎を開港させた。
・1875年には、日本の明治政府とロシアの間で
樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太全島をロシア領、千島列島を日本領とした。
・1828年には、イラン=ロシア戦争の講和条約として
トルコマンチャーイ条約が結ばれ、ロシアはアルメニアの大半を獲得した。
・中央アジアでは、
ブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国・コーカンド=ハン国を保護国化、併合した。1881年には、ロシアが混乱に乗じて新疆地域のイリを占領したが、その後イリ条約が結ばれ、イリ地方が清に返還され、ロシアに貿易上の利権が与えられた。
太平天国の乱
・清末に、
客家出身の
洪秀全によって結成されたキリスト教的宗教結社の
上帝会(拝上帝会)は、次第に信者を増やし、
1851年から
1864年にかけて、
太平天国の乱を起こした。1851年1月に洪秀全を指導者として
金田村で挙兵した上帝会の信者たちは、国号を太平天国に定め、1853年以降
南京を都にし、「
滅満興漢」というスローガンのもと反乱を起こした。太平天国は
辮髪・纏足を禁止し、
天朝田畝制度を発布したがこの土地制度は実施されなかった。同時期に、農民反乱軍として
捻軍が各地で呼応し、反乱を起こしたが、1868年に鎮圧された。
・太平天国の乱に対し、清の正規軍である
八旗や
緑営は対抗できず、各地の義勇軍である
郷勇が平定にあたった。曾国藩の
湘軍、李鴻章の
淮軍などが代表例である。これに加え、アメリカ人
ウォードやイギリス人
ゴードンが指揮した
常勝軍も平定にあたった。
洋務運動
・太平天国の乱は最終的に鎮圧されたが、アロー戦争などの諸外国との戦争や清末の動乱に対し、清の第10代皇帝
同治帝は改革の必要性を痛感し、「
同治の中興」という安定期をもたらした。
・同治帝の治世の1860年代から、
曾国藩・李鴻章・左宗棠らにより
洋務運動がはじまった。洋務運動はさまざまな近代化をめざして行われたが、「
中体西用」のスローガンのもと政治改革をさけ、西洋近代技術の模倣に終始したため、失敗した。