アヘン戦争とアロー戦争で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
アヘン戦争
・清中期の中国では、天地会や哥老会、白蓮教などの秘密結社が成立した。嘉慶帝の初期には、
白蓮教徒の乱(1796~1804)がおき、その後白蓮教徒の一派が
天理教徒の乱(1813)を起こした。こうした内乱は、清朝の弱体化を露呈するものであった。
・1757年以降、中国唯一の貿易港だった
広州では、
広東十三行という
公行(特許商人)が貿易を独占していた。
・対清貿易拡大を目指したイギリスは使節を送り、1793年に
マカートニーが
乾隆帝に謁見したが対清貿易の拡大は不成功に終わった。イギリスはその後も1816年に
アマーストを派遣したが、皇帝謁見の際の
三跪九叩頭の礼を拒否したため
嘉慶帝に謁見できず帰国した。
・18世紀頃から、中国では
アヘン吸引の習慣が盛んになっていったが、清朝ではこれを禁止していた。18世紀末から、イギリスは、インド、中国を含めた三角貿易を行うようになった。イギリスで喫茶の習慣が広がると、中国から茶の輸入量が増大し、大幅な輸入超過となった。イギリスはこの状況を変えるため、
インド産のアヘンを中国に、
中国の茶をイギリスに、
イギリスの綿製品をインドに運ぶ
三角貿易を確立させた。1833年には、イギリス本国の産業資本家の要請を受け、東インド会社の中国貿易独占権が廃止された。これ以降、多くのイギリス商社が対清貿易に乗り出し、アヘンの輸出が増大した。
・アヘンの流入量が増大するなか、清朝第8代皇帝
道光帝は、
林則徐を
欽差大臣に任命した。
1839年に広州に着任した林則徐は、アヘンの没収・焼却、密貿易者の処罰、イギリス商館区の閉鎖などを強行した。
・この1839年の林則徐によるアヘン密貿易の取り締まりを強行した清に対し、イギリスは
1840年に軍隊を派遣し、宣戦布告した。この
アヘン戦争(1840~1842)でイギリスは、
厦門・寧波・上海・鎮江を陥落させ、南京に迫った。清は降伏し、1842年8月に
南京条約が結ばれた。これは、清に対する不平等条約の先駆となり、(1)
広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港(2)
公行廃止(3)
香港割譲(4)補償金
600万両(5)関税協定(6)対等外交などが定められた。
・1843年7月には、
五港通商章程がイギリスと結ばれ、清はイギリスの
領事裁判権を認めた。また、1843年10月には南京条約の追加条約として
虎門寨追加条約が結ばれ、(1)輸出入税率(2)片務的最恵国待遇(3)土地租借などが規定された。
・イギリスに続き、西欧各国も清と同様の条約を結んだ。
1844年にアメリカが
望厦条約、同年フランスが
黄埔条約をそれぞれ結び、内容は南京条約とほぼ同じものとなった。
アロー戦争
・1856年10月、イギリス船籍のアロー号が海賊容疑で臨検され、この際イギリス国旗が侮辱されたとの理由で、再び清に宣戦布告した。また、フランスも宣教師殺害事件を口実に清に宣戦布告し、
アロー戦争(1856~1860)が起こった。
・アロー戦争は第2次アヘン戦争とも言われ、1858年に広州を占領し
天津条約が結ばれた。その後武力衝突が再度おこったため、1860年にイギリス・フランス連合軍が北京を占領し、清朝は降伏し、
北京条約が結ばれた。
・アロー戦争中の1858年に結ばれた天津条約では、(1)外国公使の北京駐在(2)
キリスト教布教の自由(3)外国人の旅行自由化(4)開港の増加、貿易自由化(5)計600万両の賠償金などが決められた。この天津条約に清朝が反対し、1859年英仏の使節がタークーで砲撃され、戦争が再開した。
・アロー戦争中、
円明園という清朝の離宮が英仏軍によって破壊された。
・1860年に結ばれた北京条約では、(1)
天津開港(2)800万両に賠償金増額(3)開港場の増加(4)
九龍半島南部割譲(5)外国公使北京駐在(6)外国人の内地旅行自由化(7)
アヘン貿易の公認(8)
長江航行の自由化などが決められた。
・1861年には北京に
総理各国事務衙門(総理衙門)という外交官庁が初めて設置され、恭親王は初代主席に就任した。