◯人物
18世紀フランスの啓蒙思想家。哲学、政治論、教育論、文学、音楽などその活動は多岐にわたる。出身はスイスのジュネーブで、時計職人の家に生まれる。生後まもなく母を亡くし、13歳の時に父が原因でジュネーブを追われ、兄も家を出て行った。孤児同然の生活を送った後、ヴァラン男爵夫人の元で庇護を受け、ここで様々な学問を学ぶ。当初は音楽家として活動しており、ディドロと親交を持ち『百科全書』の音楽関係の項を執筆している。1750年にディジョンのアカデミーの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」に『学問芸術論』を書いて応募したところこれが当選し、注目されるようになった。彼の著作は総じて文明批判、教会批判の傾向が顕著だったため、政府や教会から迫害を受け、スイスやイギリスに逃れる。
ルソーはこうした経緯から強い被害妄想を抱くようになり、多くの親交関係を絶つこととなる。被害妄想以外にも露出癖やマゾヒズム趣味、公然わいせつ罪で逮捕されかかる、五人の子供を次々に孤児院送りにするなど、極めて倒錯した性格であったことが知られている。しかしその反面、ルソーの著作は多くの思想家・哲学者に影響を与えており、特にカントにまつわる逸話は有名である。カントは生真面目な性格で知られており、毎日必ず決まった時間に散歩し、近所の人はカントが散歩しているのを見て時計を合わせていたと言われるほどである。ところがある日、カントがいつもの時間に散歩に現れないので、近所の人々が異変を感じ取りカントの家を尋ねたところ、実はルソーの『エミール』を読むことに没頭して散歩を忘れていたという。カントは『美と崇高の感情に関する観察』の中で、「わたしの誤りをルソーが訂正してくれた。目をくらます優越感は消え失せ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と書いている。
◯著作
『人間不平等起源(原)論』『エミール』『社会契約論』『新エロイーズ』『告白』『孤独な散歩者の夢想』
「彼(未開人)は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼はその虚栄心と同じように進歩しなかった・・・・・・種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」(『人間不平等起源論』)
「人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀であるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである。」(『人間不平等起源論』)
「為政者は、自分に委ねられている権力をひたすら委託者の意向に従って行使し、各人にその所有する物をいつも平和に享受できるようにさせ、あらゆる場合に自分の利益よりも公益を選ぶ、という義務を負っている。」(『人間不平等起源論』)
「万物を創る神の手から出るときにはすべては善いが、人間の手にわたるとすべてが堕落する。」(『エミール』)
「不確実な未来のために現在を犠牲にする、あの野蛮な教育について、いったいどう考えたらよいのか。子供にあらゆる種類の束縛を加え、子供が今後けっして味わうことのないと思われるわけのわからぬ幸福なるものを、事前にはやばやと準備しようとして、まず彼を不幸な者にする教育をどう考えたらよいのか。たとえそういう教育がその目標においては道理にかなったものと仮定しても、不幸な子供たちが耐えがたい束縛を受け、徒刑囚のようにたえまのない勉強を強制されながら、それほど骨を折っても自分たちにとって役に立つ保証もないのを見て、どうして憤慨せずにいられようか。はしゃぎ楽しむ年頃が涙と、罰と、おどかしと、奴隷状態のうちにすぎてしまう。」(『エミール』)
「ここで、わたしは教育全体の、もっとも偉大で、もっとも重要で、もっとも有益な規則をあえて述べてみせようか。それは時をかせぐことではなく、時を無駄にすることである。」(『エミール』)
「われわれは、いわば二回生まれる。一回目はこの世に存在するために、二回目は生きるために。つまり最初は、種として、次には性として生まれる。」(『エミール』)
「注意深く育てられた青年がいだくことのできる最初の感情は、愛ではなく、友情である。」(『エミール』)
「心は自分以外の掟は認めない。人の心は、つなぎとめようとすれば、手放すことになり、自由にさせておけば、つなぎとめることになる。」(『エミール』)
「わたしが自分の種のなかでの自分の個人的な位置を知ろうとして、そのさまざまな地位、階級やそれをしめる人びとをながめるとき、わたしはどうなるだろう。なんという光景であろうか! わたしがかつて観察した秩序はどこにあるのか。自然の光景は、私の眼にただ調和と均衡のみをあらわしていた。だのに、人間の様相はただ混乱と無秩序をしか示さないのだ! 諸元素の間には諧調が支配しているのに、人びとは混乱のなかにあるのだ! 動物は幸福であるのに、彼らの王だけは不幸なのだ!」(『エミール』)
「人間の情景の変化とはこういうものだ。それぞれの時期に、それを動かすそれぞれの原動力がある。しかし人間はいつも同じなのだ。十歳の時にはお菓子に、二十歳の時には恋人に、三十歳の時には快楽に、四十歳の時には野心に、五十歳の時には利欲に引っぱりまわされる。いつになったら、人は知恵だけを追うようになるだろうか。」(『エミール』)
◯思想
上に引用した文からも分かるように、ルソーがその思想を語る上で重視するのは、何よりも自然あるいは自然状態である。全ては自然そのままの状態が善いのに対し、文明や教育、芸術といったものはそれをねじ曲げて堕落させてしまう、という考えがルソーの根底には流れている。すなわち、自然状態においては人は他者を認識することもなく、孤独と自由という幸福な生活を送っていたので、格差や所有権といった不平等は全く見られなかった。ところが、農耕技術の発達や縄張り意識が形成されるにつれ、土地や作物という私有財産の概念が発生し、そこから支配や隷属といった不平等が始まったというのだ。「自然に帰れ」という標語は、ルソー自身が語ったことでは無いことから批判の目が向けられることもあるが、やはりルソーの思想の大枠を一言にして表すものとして適している。この標語が表しているのは、全ての文明を捨てて森に帰るべきである、ということではなく、今一度自由で平等な自然状態というものを思い出し、この善き状態に人間を近付けるように努力すべきである、ということである。このような思想は、当時絶対王政を採っていたフランスで、全人口の98%を占める第三階級と呼ばれる貧困層によって、残り2%の王族・貴族が養われていたという倒錯した状況を背景に形成されていったと考えられる。
では、そうした不平等の無い善き社会はどのようにして実現されるのか。ここでルソーは、ホッブズやロックと同じく社会契約説を採用する。だが、ルソーにおける社会契約は、ホッブズやロックにおけるものとはやや性格が異なっている。というのも、ルソーにおいては社会契約は劣悪な自然状態を脱するための第一歩ではなく、むしろ劣悪な社会を脱するための契約だからである。
ルソーにおいては、不平等な現在の社会状況を打開するためにこそ社会契約が必要であるが、ここで採用されるのが一般意志、特殊意志、全体意志という概念である。まず特殊意志というのは、個人の利益を追求する私的な意見・意志のことで、「(私は公務員だから)公務員の給料を上げるべきである」「(私は在日アメリカ人だから)アメリカとの貿易量を増やすべきである」といったような意志のことである。このような個人的・私的な意志の総和、すなわち多数決を採った際に最大多数となるような意志が全体意志である。しかし、このような全体意志は、少数者の意見を殺し、それを分解していけばあくまでも個人の利益でしか無いものである。
これに対する概念が一般意志である。ルソーはこれについて、全ての特殊意志から相殺しあう過不足を除けば、「相違の総和」としての一般意志が残る、と説明している。これを簡単に言えば、共通の利益だけを心がける全ての個人が持つ意志である。この一般意志は人民全体の意志であるので、絶対的で服従すべきものである。一般意志は公共の利益を追求するものなので、この服従からは不平等は生まれない。すなわち、政府はこの一般意志に服従し、それに従ってのみ政治を執ることができる。その限りにおいて、一般意志に従うことは自分自身に従うことであるので、各個人は自己の主人となり、市民的自由を獲得することができる。この一般意志に基いて、共同体に自己を譲り渡すのが社会契約である。
このような社会契約説を展開した後は、より具体的な政治制度が求められるが、それは人民主権に基く直接民主制である。人民主権とは、政治の最終決定権は人民にあり、それは理論上そうなるというだけではなく、実際に行使されなければならない、というものである。この行使は直接民主制によってなされるが、それは全人民が集会し、直接意思表明するというものであった。しかし、この直接民主制は国家や自治体の規模を考えるとほとんど不可能であり、効率も悪いので、そのまま採用されることはほとんど無かった。(古くは古代ギリシャ、現在はスイスの一部で採用されている。)
ルソーの極めて自由的・啓蒙的な思想はフランス革命に大きな影響を与え、その理論的な支柱となった。しかし一方で、一般意志の概念は規定が非常に曖昧で、ロベスピエールによってフランス革命後に再び恐怖政治が行われた際に、自分(ロベスピエール)こそが真に一般意志を解する者だとする悪用を許してしまった。このことから、ロベスピエールは「ルソーの血塗られた手」と呼ばれることがある。