◯人物
ロックは17世紀後半に活躍し、イギリス経験論を体系的に展開した哲学者・政治学者・医者。自然科学に興味を持ち、オックスフォード大学で医学を学び、物理学のニュートンらとも親交を持つ。ロンドンのシャフツベリ伯(アシュリ卿)の侍医・家庭教師となった後、伯と共にホイッグ党を支持した。この時ロックの代表作である『統治論(市民政府二論)』が書かれるが、伯が失脚しオランダへ亡命。1988年に名誉革命が果たされるとイギリスへ帰国し、著作の執筆や政治活動を精力的にこなした。ロックの近代民主主義的な思想は、フランス革命やアメリカ独立運動に大きな影響を与えたとして有名だが、哲学史においてはその認識論における功績が重視される傾向がある。また、経験論者の代表格として数えられるが、デカルトなどの合理論からも影響を受けており、啓蒙時代の思想家らしく理性的な認識を重んじた。
◯著書
『統治論(市民政府二論)』『人間悟性論(人間知性論)』『寛容についての書簡』
「人間は生来、すべて自由であり、平等であり、独立しているのだから、だれも自分から同意を与えるのでなければ、この状態から追われて、他人の政治的な権力に服従させられることはありえない。」(『統治論』)
「精神は感覚の働きによって印象をうけいれられる前は白紙である」(『人間悟性論』)
◯思想
ロックは先述のように経験を重んじ、経験論を体系的に論じた人物として有名で、ベーコンではなくこの人をイギリス経験論の祖とすることが多い。『人間悟性論』の序文には、ある冬の日に友人と道徳や宗教について話し合おうとしたが、様々な難問が立ち上ってきて途方に暮れ、議論を続行できなくなったという体験が語られている。ロックはこの体験から、まずは人間の知性がどのような能力を持ち、何を問題として扱うことができるのかを調べなければならないと考えたのである。
そこで彼は、手始めとして生得観念(または本有観念)の存在を否定する。生得観念とはデカルトが提唱した、人間に生まれつき備わっていて誰もが持っている観念、例えば神についての観念や実体についての観念がそれにあたる。しかし、ロックによればこのような生得観念は有り得ない。というのも、例えば小さな子供や未開民族などはこのような生得観念を持っていないし、それを扱うこともできない。このように考えれば、時代や国を跨いですべての人から承認を得られるような観念は有り得ないのである。
すなわち、人間の心はいわば「白紙(タブラ・ラサ)」のようなものであり、観念とは経験によってこの白紙に書き込まれた文字に他ならないのである。ここで経験はロックによって感覚と内省(反省)の二種類に分けられる。感覚とは、外界の事物によって我々に断片的な知覚、例えば「青い」「固い」「大きい」などの性質が与えられることである。内省とは、我々自身の心の作用を知覚することであり、これは「黒くて苦い液体」だからコーヒーだ、と認識する働きなどを指す。すなわち、「黒い」「苦い」「液体」という感覚を比較したり判別したり結合したりする心の作用のことである。
この感覚と内省によって我々の心に様々な観念が書き込まれるのだが、この観念にも単純観念と複合観念の二種類がある。
まず単純観念とは、感覚や反省によって与えられる、外界の事物の持つ諸性質のことである。先述した「青い」「固い」「大きい」といった諸性質が単純観念に数えられるが、これにも二種類のものが存在する。「固い」「大きい」などの空間的な延長、形態、運動状態などは、その事物自体が持つ客観的な固有の性質であることから、第一性質と呼ぶ。他方、「青い」「苦い」といった性質は人によって感じ方が異なるのであり、更に言えば人間、シマウマ、カブトムシ、トカゲなどで感じ方が全く異なる。このような色や味といった性質は極めて主観的なもので、第二性質と呼ばれる。第一性質と第二性質は感覚によって与えられる単純観念であるが、内省によって与えられる単純観念も存在する。これには認識作用としての知覚、判断、比較、抽象等と意志の作用がある。
このような単純観念を、悟性(知性)の作用によって複合させるのが複合観念であり、この複合観念には三種類のものがある。一つ目は様態で、様態とは事物の状態を表す観念である。例えば、「ここにリンゴが五個置いてある」という観念には、「ここ(に)」「五個」「置いて」「ある」という、リンゴの位置や数、状態を表す観念が含まれているが、こうした観念の種類を様態と呼ぶのである。第二のものが関係である。関係とは文字通り、二つのものないしは多数の観念を比較することによって生ずるもので、「原因」と「結果」から生まれる「因果(関係)」、「プラトン」と「アリストテレス」の比較から生じる「差異(違い)」といったものが関係の観念である。第三の複合観念は実体という種類のもので、それ自身が諸性質の担い手として独立して存在すると考えられた観念を指す。これはデカルトにおいて規定された精神・神・物体を指すが、この点に関しては後に詳述する。
以上のような認識論は、その基盤をホッブズの認識論に負っている。しかしホッブズにおいては、ガリレイやケプラーなどを支持したことから分かるように、自然科学の確実性は自明なものであるとして受けれられていた。これに対してロックにおいては、認識の起源は突き詰めれば感覚や内省といった経験に過ぎないので、自然科学的な認識は絶対的確実性には到達できないと考えた。とはいえ、ロックは認識というもの自体が不可能で無意義であるとしたのではない。何故なら、まず単純観念は我々の心が白紙の状態から作り出すことは不可能であり、実在する外界の事物と一致するからである。次に複合観念においても、様態や関係はそれ自体独立して成立する観念である。例えば、我々は完全に厳密な三角形を描くことはできないが、三角形という数学的観念は、実在する三角形とは関係なく真理であると言うことができるので、認識の持つ意義は認められるのである。すなわち、ロックにおける認識の意義とは、認識することで生み出される観念と実在するものとの一致というところに認められるのである。
しかし、ここで複合観念である実体の観念について考えてみると、実体の観念と実在するものが一致していない場合が考えられる。実体の元になる単純観念は実在と一致しているものの、それらの単純観念を複合する際に我々が誤り、実在の実体と観念の実体が違っているということは大いに有り得るのである。そこで、ロックは実体の観念、つまり精神・神・物体の三つの観念についての吟味を行う。
まず、精神の存在は確実である。何故なら精神は複合観念でありながら、その存在を証明するのに他の観念を用いること無く、直接的に知覚することができるからである。このような考え方はデカルトの「コギト(我思う、故に我在り)」とほとんど同じものと言ってよい。ロックはデカルトの合理論を批判したが、理性に対する信頼という点では共通の立場に立っている。ここでの違いは、デカルトにおいてはここから神による精神の存在の保証が与えられたのに対して、ロックにおいては神を必要とせず、精神の直接的な知覚をもって最も確実であるとした点にある。ロックはこのような認識を直覚的な認識といい、最も確実性を持つ認識であるとする。
次は神についてだが、これは精神の認識とは違って、論証的な認識を必要とする。論証的な認識は、例えばA=B、B=C、A=Cといったように、AとCとの一致にBを必要とするような認識のことであり、ロックによればこれは論証の各段階が直覚的に明白であるならば、確実性を持つとされる。これを具体的に神に当てはめて考えると、以下のようになる。我々は、無からは何も生じないことを確実なものとして知っているが、我々自身(精神)の存在は確実であるので、その原因である永遠的な存在者が存在しなければならないことになるので、神の存在は確実である。このような神の存在証明は宇宙論的証明と呼ばれるもので、宇宙のあらゆる原因と結果をさかのぼって、全ての原因としての神の存在を証明する種類のものである。ちなみに、デカルトにおける神の存在証明は存在論的証明と呼ばれるもので、存在という属性を最大限に持つものとしての神の存在を証明するものである。神の存在証明にはこの他にも幾つかのタイプがある。
最後に物体についてだが、ロックによれば物体の認識は感覚的な認識に過ぎない。感覚的認識は、物体の存在自体を我々に教えてくれるが、例えばその捉え方は単純観念の第二性質のように主観的かつ曖昧であったり、この単純観念が複合された時には、更に謝る可能性が高まるのである。従って、ロックにおいて物体の存在自体は一応認められるが、物体の実在性については不確実なものである。このことからも、物体を扱う自然科学的な認識は蓋然的な認識に過ぎないと批判されるのである。