アテネの繁栄と衰退の原因で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
ペルシア戦争
・紀元前
500年から紀元前
449年にかけて、
アケメネス朝ペルシアとポリス諸都市からなるギリシア連合軍がペルシア戦争を起こした。
・ペルシア戦争は、紀元前
500年にアケメネス朝ペルシアの
ダレイオス1世の圧力を受けていた小アジア西岸イオニア植民市が反乱を起こしたことが原因となった。中心となったのが
ミレトスという街で、この反乱をアテネが支援したことにより、アケメネス朝と開戦した。
・ ペルシア戦争は、紀元前
492年、紀元前
490年、紀元前
480〜479年にかけて三回にわたる戦争が行われた。
・紀元前
490年には、アテネ東岸の
マラトンに上陸したアケメネス朝軍を、
ミルティアデスが指揮したアテネ軍が撃破した
マラトンの戦いが起こる。ギリシア軍の勝利をアテネに伝えるために、伝令が命をかけて走りぬいた故事が、
マラソン競技の起源。
・紀元前
480年には、
スパルタ王レオニダスが率いたスパルタ軍が全滅した
テルモピレーの戦いが起こる。
・テルモピレーの戦いの同年、紀元前480年に、
テミストクレス率いるアテネ海軍と、ペルシア海軍が
サラミスの海戦を起こした。この戦いでは
三段櫂船という軍艦が活躍し、アテネが勝利した。
・紀元前
479年には、
プラタイア(プラテーエ)の戦いが起こり、アテネ・スパルタ連合軍がペルシア軍を撃破し、この勝利の結果ペルシア戦争のギリシアの勝利が決まった。紀元前
449年のカリアスの和約で集結する。
・紀元前
478年には、ペルシア軍の再侵攻に備え、アテネを中心とした
デロス同盟が結成された。
デロス同盟の最盛期は約200のポリスが加盟したが、紀元前
454年以降には
デロス同盟の軍資金の金庫がデロス島からアテネに移され、アテネが権力を掌握した。
アテネ民主制の完成
・ペルシア戦争では、多くの平民が軍人や
三段櫂船の漕手として戦争に貢献したため、戦争後に政治的な発言権が増した。
・民意を受け、
18歳以上の成年男子市民の全員参加に基づく
民会が最高権力を保持するようになり、
ペリクレス(紀元前495年頃〜紀元前429年)の指導のもと、アテネの民主制が完成する。
・アテネの民主政治は、
直接民主制で、民会が最高議決機関となり、将軍以外の
官職の抽選制、政治や裁判参加への日当支給などが特徴であった。しかし、
女性参加が認められず、
奴隷制度を前提としており、現在の民主政治とは大きく異なる。
・紀元前451年には、
市民権法が制定され、両親が共にアテネ人の人間にのみ、市民権が認められた。
・古代ギリシアの奴隷制は、戦争捕虜や債務奴隷を供給源としており、アテネでは全人口の
3分の1が奴隷であった。スパルタではヘイロータイという隷属農民が国有奴隷として使役された。奴隷は農業や手工業に従事し、一部はアテネの
ラウレイオン銀山で使役され、アテネの経済を支えた。
ペロポネソス戦争とポリス社会の崩壊
・アテネが独占したデロス同盟の優位に危機感を覚えた
スパルタは、紀元前
6世紀にペロポネソス半島の諸ポリスと
ペロポネソス同盟を結成し、これに対抗した。スパルタの他にも、コリントスがこの同盟の中心となった。
・紀元前
431年から紀元前
404年にかけて、デロス同盟軍とペロポネソス同盟軍が
ペロポネソス戦争をおこした。
・ペロポネソス戦争時、指導者ペリクレスが病死し、アテネでは
デマゴーゴス(デマゴーグ)という扇動政治家が続出する。その結果アテネ民主制は
衆愚政治へと変わり、その過程で崩壊していった。
・ペロポネソス戦争は最終的に
スパルタの勝利に終わったが、戦争による国力の低下がおこった。ギリシア中部にあった
アイオリス人の
テーベ(テーバイ)が優勢となり、
エパメイノンダスが指導者となり、紀元前
371年の
レウクトラの戦いでスパルタに勝利し、10年間ギリシアの支配権を握った。