スパルタとアテネ民主政治のはじまりで押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
スパルタのはじまり
・スパルタは
ドーリア人の都市国家で、
ペロポネソス半島南部の
ラコニア平原に建国された。
・ドーリア人は先住民を征服し、彼らを
ヘイロータイ(ヘロット)という隷属農民として扱った。このことから、スパルタは典型的な
征服型ポリスとされる。
・スパルタの不完全市民を
ペリオイコイという。「周辺に住むもの」という意味で、専門職に従事した。彼らは参政権をもたず、貢納と従軍の義務があった。
・スパルタはギリシアの他の地域と異なり土地に恵まれ、穀物が自給できる環境にあった。そのため、商業活動が禁止され他国との取引をしない鎖国が行われた。
・伝説の立法者である
リュクルゴスが独自の制度を決め、土地の均等配分、長老会設置、民会設置、教育制度(スパルタ式教育)、常備軍の創設、装飾品の禁止、共同食事制などが社会規範となった。
アテネのはじまり
・アテネはギリシアのアッティカ地方に
イオニア人が建設したポリスであり、集住をもとにしてできたポリスの典型。
・当初のアテネは
王政だったが、紀元前
8世紀半ばに
貴族制に移行した。貴族制は大土地を所有した貴族たちが、
9人の
アルコン(執政官)を選出し、ポリスを治めた。アルコンは紀元前
7世紀頃に任期が一年とされた。
・平民は、それぞれ奴隷を所有し、農業を行っていたが、次第にアテネ周辺の土地が少なくなったため、植民市を地中海周辺に建設するようになった。
・植民市とアテネ本国の間では、活発な貿易活動が行われ、商業活動に従事した平民の中から経済的に裕福な人々が出てくるようになった。
平民の戦争参加と参政権要求
・当時の参政権は戦争に参加する武器を自分で購入できる貴族たちに独占されていたが、次第に裕福な平民が武器を購入し、戦争に参加するようになった。
・平民の戦争参加により、長槍や盾で武装した
重装歩兵が生まれ、
ファランクスという長槍密集隊形が戦争の主戦力となっていった。
・軍事貢献を果たすようになった平民の中から、参政権を求め貴族の政治独占に反対するようになる者がでて、次第に貴族と平民の対立が起こるようになった。
・紀元前7世紀には、
キュロンという人物が
僭主になろうとして失敗し、処刑された。
ドラコンの立法、ソロンの改革
・紀元前
7世紀後半には、貴族出身の
ドラコンという立法者が
慣習法を成文化し、貴族による法の独占を打破した。
・紀元前6世紀には、
債務奴隷となる平民が増え社会問題化し、これに対応するため、紀元前
594年に
ソロンという政治家が改革を行った。
・ソロンの改革は、
負債の帳消し、
債務奴隷の禁止、
財産政治の実施が主な内容だったが、貴族・平民双方から反対され、失敗に終わった。
僭主政治の出現
・こうした状況下で、貧しい民衆の不満を利用し、非合法に政権を握る
僭主という独裁者が現れた。
・僭主政治は紀元前
7世紀から紀元前
6世紀にかけておこり、この時期は貴族政治から民主政治の過渡期であった。
・紀元前
600年頃から紀元前
528年に政権を握った僭主が
ペイシストラトスで、亡命貴族の土地を貧民に与えたり、中小農民の保護育成や文化事業をおこなったものの、死後にあとを継いだ子供は暴君化した。
クレイステネスの改革と民主制の基礎
・紀元前
6世紀には、
クレイステネスという政治家が現れ、僭主の出現を防止する
オストラシズム(陶片追放)や
血縁的な部族制廃止などの改革を行い、貴族制や僭主政が起こらないようなシステムをつくり、アテネ民主制の基礎を作った。
・それまでのアテネでは、血縁によって
4つの部族にわかれていたが、クレイステネスの改革により、地域的なまとまりごとに
10部族制に分けられ、ここから50人ずつ選ばれた
五百人評議会が行政を担当した。
・オストラシズムとは、紀元前
487年にはじまり、
陶片(オストラコン)に危険人物の名前を記入し、総投票数が
6000票以上あった場合に、最も多くの票をもった人物を
10年間の国外追放に処すという制度だった。のちに
デマゴーゴスという扇動政治家に利用されるようになったため、紀元前
5世紀末には中止となった。