戦国時代のはじまり
応仁の乱以降全国に争乱が広がるなか、9代将軍足利義尚が近江の六角氏追討途上で病死すると、足利義視の子
足利義稙が10代将軍となりました。しかし、管領の
細川政元と対立した義稙は、1493年(明応2年)に
明応の政変で将軍の地位を追われ、堀越公方足利政知の子
足利義澄が新将軍となりました。この明応の政変により将軍の権威は失墜し、室町幕府内の主導権は細川氏が握ることになりました。
しかし、細川氏内部の対立から細川政元も暗殺され、幕府の実権は家臣の三好長慶に移り、更にその家臣の松永久秀へと移っていきました。この時期、松永久秀は13代将軍の
足利義輝を暗殺するなど、下剋上の世が広がっていったのでした。
このように、京都を中心とした近畿地方の政治的混乱が続く中、日本の各地では、守護・守護代・国人などさまざまな階層出身の武士たちが、自ら分国をつくり、独自の支配を行う地方政府が誕生しました。これが
戦国大名であり、応仁の乱以降の約1世紀を
戦国時代といいます。
関東では、応仁の乱直後に、足利持氏の子で鎌倉公方の足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害し、これをきっかけに
享徳の乱が起こりました。足利成氏は、幕府の追討を避けるために古河に移り
古河公方となりました。将軍足利義政は、足利成氏追討のために兄弟の足利政知を関東に派遣しましたが、鎌倉に入れなかったため伊豆の堀越に御所を構え、
堀越公方となりました。こうして、鎌倉公方は古河公方と堀越公方の両公方に分裂し、関東管領上杉氏も山内家・扇谷家の両上杉家に分かれて争うようになりました。この混乱に乗じて、京都から関東に下った
北条早雲(伊勢長氏,宗瑞)は、1493年(明応2年)に足利政知の死後堀越公方となっていた足利茶々丸を滅ぼし伊豆を奪取し、相模に進出して小田原城を本拠地としました。子の北条氏綱は武蔵を征服し、孫の北条氏康のときには関東の大部分を支配する大大名となりました。この北条氏を、鎌倉幕府の北条氏と区別するため後北条氏と呼ぶことがあります。
中部地方では、越後の守護代の長尾氏の景虎が、北条氏に追われ越後に逃げていた関東管領上杉憲政から上杉氏の家督と関東管領の地位を譲られ
上杉謙信(輝虎,1530~78)となり、越後を統一し、越中の一向一揆と戦い、関東にも進出して北条氏と争いました。
甲斐では
武田信玄(晴信,1521~78)が戦国大名として君臨し、信濃にも領地を拡大し、のちに西上野や今川氏の領国の駿河にも進出しました。また、上杉謙信とは北信濃の川中島の合戦で戦いました。
美濃では、日蓮宗の僧出身で還俗した武士を父に持つ
斎藤道三(?~1556)が守護土岐氏を追放し戦国大名となり、駿河・遠江には
今川氏、近江には
六角氏、越前には
朝倉氏など強大な戦国大名が並び、尾張では
織田氏、三河では徳川氏の租となる
松平氏が力を蓄えつつありました。
中国地方では、守護大名の
大内義隆(1507~51)が重臣の陶晴賢(1521~55)に国を奪われ、その後、安芸の国人からおこった
毛利元就(1497~1571)が陶氏を滅ぼして大内氏の旧領を奪いました。その後毛利氏は、山陰地方の尼子氏と争いながら中国地方に進出しました。この他にも、四国の
長宗我部(長曾我部)氏、九州の
大友氏・竜造寺氏・島津氏などの諸氏、東北の
伊達氏など、全国各地にさまざまな有力大名が出て抗争を繰り返しました。
島津・大友・今川・武田・六角氏を除くと、戦国大名の多くは守護代や国人から身を起こした者が多く、室町幕府の権威失墜により、守護職の権力もまた低下していったのでした。守護大名出身の今川氏や武田氏も幕府の権威に頼ることなく領地を治めるようになりました。
戦国大名は、一門(一族衆・親類衆)や譜代衆として昔から仕えてきた家臣団に加えて、新たに服属させた国人(国衆・外様衆)や地域の地侍を家臣として迎え入れ、軍事力を増強していきました。国人は知行地を与えられ、給人という上級家臣を構成し、一方地侍は年貢の中間得分の加地子の取得権を保障され、足軽などの下級家臣を構成しました。こうして戦国大名は、家臣の収入額を銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し、地位や収入を保障しました。こうした保障と引き換えに、貫高に見合った軍役を家臣たちに負担させたのです。これを
貫高制といい、戦国大名の軍事制度の基礎となりました。戦国大名の上級家臣は寄親と呼ばれ、下級家臣の寄子が付き従い、鉄砲・長槍を使った集団戦法も行われるようになりました。