ロシア遠征とナポレオンの最後
こうしてヨーロッパ各国でナポレオンへの反発が強まる中、フランスは1812年ロシア遠征を開始します。
遠征の理由は、ロシアのアレクサンドル1世がイギリスへの穀物輸出を再開したことから、ロシアへの制裁を行うためでした。
この遠征軍は、主に占領下の地域から集められた兵士で構成されており、フランスやナポレオンへの忠誠心はあまり持っておらず、士気も低い軍隊でした。
1812年、ナポレオンの軍隊はモスクワを占領することに成功しますが、ロシアは都市の食料や物資・建物をすべて焼き払う
焦土作戦を行い、侵入軍の現地調達を不可能にしました。
こうして60万人からなる遠征軍は撤退しますが、帰路にロシア軍の攻撃にあい、国境付近にまでたどり着いたのはその五分の一程度でした。
(ロシア遠征)
このナポレオンの大敗後、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデンは
第4回対仏大同盟を結び、ナポレオン体制を打倒するため、各地で解放戦争が行われました。
1813年10月、
ライプチヒの戦い(諸国民戦争)で、フランス軍がオーストリア・プロイセン・ロシアの連合軍に大敗すると、ナポレオンは退位し、イタリア北西岸の
エルバ島に幽閉されます。
1814年からナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序を取り戻すため、ウィーン会議が開かれます。この会議では、様々な利害が対立し、混乱が続いていました。
この様子を見て、ナポレオンは密かにエルバ島を脱出し、パリに戻って皇帝に復位します。
これを見て焦った各国は再度団結し、イギリス人司令官
ウェリントンを中心とするイギリス・プロイセン・オランダ軍を組織、
ワーテルローの戦いでナポレオンを破り、その後アフリカ西部の孤島セントヘレナ島に幽閉し、ナポレオンは1821年にこの島で亡くなりました。
(流刑後のナポレオン)
エルバ島脱出からセントヘレナ幽閉までをナポレオンの
百日天下といいます。
こうして、フランス革命からナポレオン時代を経てヨーロッパに起きた混乱期がおわり、その後
ウィーン体制という新しい時代を迎えることになります。