共和制と恐怖政治で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
革命の進展と対外戦争
・1791年9月3日、
国民議会はフランス初の憲法として
1791年憲法を制定し、
立憲君主制・財産資格選挙・一院制などを規定した。これにより、国民議会が解散し、制限選挙が行われ、新たに
立法議会が成立した。議会は右派の
フイヤン派、左派の
ジロンド派、最左派の
ジャコバン派(山岳派)に分かれた。
・1792年3月から6月にかけて、立法議会に
ジロンド派内閣が成立した。この内閣は4月20日に
オーストリアに宣戦し、
革命戦争を開始した。その後
プロイセンとも戦いを始めたが、敗戦が続いたため総辞職し、新たに
フイヤン派内閣に代わった。
・革命戦争では、
義勇軍が主力となった。義勇軍は練度が低かったものの、
ラ=マルセイエーズ(1792年に国歌制定)という革命歌を歌い、 士気が非常に高かった。こうして、国民主権国家フランスの
国民戦争が遂行されていった。
第一共和政の成立
・1792年8月10日には、
八月十日事件がおこり、
山岳派が
サン=キュロットと
義勇兵に呼びかけ、国王の居城
テュイルリー宮殿を襲撃し、国王一家を
タンプル塔に幽閉した。この結果、立法議会は
王権の停止を宣言し、新たに男性普通選挙が行われ
国民公会が成立し、
第一共和政(1792年9月〜1804年5月18日)という政治体制となった。
・1792年9月20日には、
ヴァルミーの戦いでフランスが
オーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、フランス軍の防衛が成功した。
ルイ16世の処刑と第1回対仏大同盟
・
1793年1月21日、国王
ルイ16世が国民公会の裁判で有罪となり、死刑となった。この処刑に諸外国は動揺し、イギリス首相
ピットの呼びかけで
第1回対仏大同盟(1793〜1797)を結成した。この同盟には、
ロシア・スペイン・プロイセン・オランダ・オーストリア・ポルトガル・サルディーニャなどが参加した。
・1793年2月には、戦争激化のため国民公会が
徴兵制を実施した。これに反対する農民は翌月
ヴァンデーの農民反乱を起こしたが、鎮圧された。
ジャコバン(山岳派)独裁と恐怖政治
・国民公会は反革命運動抑圧機関として、
革命裁判所・公安委員会・保安委員会などを設置し、その後
山岳派が
ジロンド派を追放し
恐怖政治をはじめると、人々の弾圧を行うようになった。
・この時期、山岳派は
マラーが指導者だったが、1793年7月にマラーが暗殺されると、
ロベスピエールが公安委員と山岳派の指導者となり、同じ山岳派の
エベールや
ダントンを処刑し、恐怖政治を徹底した。山岳派は
封建地代の無償廃止・最高価格令・革命暦の採用・メートル法の採用などを行い、
1793年(ジャコバン)憲法を国民公会で制定したが、この憲法は革命が激化したことで実施されなかった。
・恐怖政治が激化しすぎたことで、
1794年7月27日(革命暦の熱月9日)に、国民公会の反ロベスピエール派が
テルミドールの反動というクーデターを実行し、ロベスピエールとその一派を逮捕後、処刑した。恐怖政治のさなか、ルイ16世・マリー=アントワネット・ロベスピエールなどは
ギロチンで処刑され、この処刑具は恐怖政治の象徴となった。こうして山岳派による独裁政治が終わり、穏健共和派の政治が復活した。
総裁政府の成立
・1795年8月には
1795年憲法(共和国第3年憲法)が制定され、
財産制の制限選挙・二院制議会・5人の総裁を選出した政府の設立などが実現した。
・1795年憲法に従い、新たに
総裁政府(1795年10月〜1799年11月)が成立した。総裁政府は行き過ぎた独裁政治に陥ることを防ぐため、5人の総裁に権力を分散させたことから、政治的に不安定な政府であった。