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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

ジェームズ2世とは わかりやすい世界史用語2716

著者名: ピアソラ
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ジェームズ2世とは

ジェームズ2世として後にイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に就く人物の生涯は、その始まりから波乱に満ちていました。彼の物語は、ステュアート朝が直面した激動の時代そのものを映し出す鏡です。王権と議会の対立、宗教的な情熱、そしてヨーロッパ全土を巻き込む権力闘争。これらが彼の運命を形作り、最終的には彼を王座から引きずり下ろすことになります。



内戦の中の幼少期

ジェームズは1633年10月14日、ロンドンのセント=ジェームズ宮殿で生まれました。父は国王チャールズ1世、母はフランス国王アンリ4世の娘であるヘンリエッタ=マリアです。彼はチャールズ1世の次男であり、誕生と同時にヨーク公の称号を与えられました。兄には後の国王チャールズ2世がいます。彼の幼少期は、ステュアート朝の栄光がまだ輝いていた時代でした。しかし、その輝きは長くは続きませんでした。
ジェームズがまだ8歳の少年だった1642年、イングランド内戦が勃発します。国王チャールズ1世と議会派との間の対立が、ついに武力衝突へと発展したのです。この内戦は、ジェームズのその後の人生に決定的な影響を与えることになります。彼は幼いながらも、王国の秩序が崩壊し、父王の権威が挑戦される様を目の当たりにしました。
内戦の初期、ジェームズは王党派の拠点であったオックスフォードで父と共に過ごしました。しかし、戦況が議会派に有利に傾くと、彼の身にも危険が迫ります。1646年、オックスフォードが議会軍に包囲されると、ジェームズは降伏の条件の一部として議会派に引き渡され、ロンドンのセント=ジェームズ宮殿に軟禁されることになりました。兄チャールズはすでに大陸へ逃れており、父チャールズ1世もまた囚われの身でした。彼は兄や姉のエリザベス、弟のヘンリーと共に、議会の監視下で不安な日々を送ることになります。
この軟禁生活の中で、14歳のジェームズは大胆な脱出計画を実行します。1648年4月、彼は女装して宮殿を抜け出し、テムズ川を下って大陸へと逃亡したのです。この脱出劇は、彼の勇敢さと行動力を示す最初のエピソードとなりました。彼はオランダのハーグにたどり着き、姉のメアリー(オラニエ公ウィレム2世の妻)のもとに身を寄せ、亡命中の王党派と合流しました。
大陸での軍務経験

大陸での亡命生活は、若いジェームズを現実的な軍人へと鍛え上げていきました。兄チャールズが王位奪還のための政治的画策に奔走する一方、ジェームズは軍人としてのキャリアを追求します。1652年、彼はフランス軍に入隊しました。当時、フランスはフロンドの乱という内乱の最中にあり、ジェームズはテュレンヌ子爵という当代随一の名将の下で、実戦経験を積む機会を得ます。
彼は数々の戦闘や包囲戦に参加し、その勇敢さと冷静な判断力で高い評価を得ました。テュレンヌは、若いジェームズの軍事的才能を認め、彼を高く評価したと言われています。このフランス軍での経験は、ジェームズに近代的な軍隊の組織論や戦術、兵站の重要性を教え込みました。それは後に彼がイングランド海軍を再建する上で、大いに役立つことになります。
しかし、国際情勢の変化が彼の運命を再び変えます。1656年、イングランドの支配者となっていたオリバー=クロムウェルがフランスと同盟を結んだため、亡命中のステュアート家はフランスからの退去を余儀なくされました。ジェームズは兄チャールズと共に、フランスの敵国であったスペインの領地、ネーデルラントへと移ります。
そして今度は、彼はスペイン軍に仕えることになりました。彼はスペイン軍の将軍として、フランス軍と戦うという皮肉な立場に置かれます。1658年の「砂丘の戦い」では、彼はかつての仲間であったフランス軍と、クロムウェルの派遣したイングランド共和国軍を相手に戦いました。この戦いでスペイン軍は敗北しましたが、ジェームズ自身の勇敢な戦いぶりは敵からも称賛されたと伝えられています。
この大陸での長い亡命生活と軍務経験は、ジェームズの人格形成に大きな影響を与えました。彼は、政治的な陰謀が渦巻く宮廷よりも、規律と階級が重んじられる軍隊の秩序を好むようになりました。彼は、命令と服従という単純明快な論理を身につけ、複雑な政治的駆け引きや妥協を軽視する傾向を強めていったのです。また、カトリック国であるフランスやスペインの宮廷で過ごした経験は、彼の宗教観にも影響を与え、イングランド国教会への忠誠心を相対化させる一因となったのかもしれません。
王弟時代

1660年、オリバー=クロムウェルの死後の混乱を経て、イングランドに王政が復古しました。ジェームズは兄チャールズ2世と共に、歓呼の声に迎えられてロンドンに帰還します。20年近くに及んだ亡命生活は終わりを告げ、彼はヨーク公として、またオールバニ公として、王国のナンバー2の地位に就きました。ここから、彼が国王として即位するまでの25年間は、「王弟時代」として知られています。この時代、彼は有能な海軍司令官、植民地経営者として名を馳せる一方で、彼のカトリックへの傾倒が、やがて国を揺るがす大きな政治問題へと発展していくことになります。
海軍卿としての活躍

王政復古後、ジェームズは海軍卿に任命されました。これはイングランド海軍の最高司令官にあたる役職です。彼はこの職務に並々ならぬ情熱と才能を発揮しました。大陸での軍務経験を活かし、彼は海軍の組織改革に精力的に取り組みます。
彼は、士官の任命や昇進のシステムを整備し、専門的な知識と経験を持つ者が指揮を執る体制を確立しようとしました。また、海軍の財政管理を改善し、艦船の建造や修理、補給といった兵站面での効率化を図りました。彼が導入した「戦闘教令」は、艦隊が整然とした陣形を組んで戦うことを定めたもので、その後の海戦の戦術に大きな影響を与えました。サミュエル=ピープスのような有能な官僚を登用し、海軍行政の近代化を進めたのも彼の功績です。
ジェームズは、単なるデスクワークの提督ではありませんでした。彼は自ら艦隊を率いて、実戦の指揮を執ります。当時、イングランドは、海上貿易の覇権をめぐり、オランダと激しく対立していました。第二次英蘭戦争(1665–1667年)において、ジェームズは1665年のローストフトの海戦でイングランド艦隊を指揮し、オランダ艦隊に大勝利を収めました。この戦いで彼は、砲弾が飛び交う甲板上で冷静に指揮を執り続け、その勇気は広く称賛されました。
第三次英蘭戦争(1672–1674年)でも、彼は1672年のソールベイの海戦で再び艦隊を率います。この戦いは決着がつかない激戦でしたが、彼の個人的な武勇伝は再び語り草となりました。しかし、この戦争の最中に、彼のキャリアは大きな転機を迎えます。彼のカトリック信仰が公になり、議会の攻撃の的となったのです。
カトリックへの改宗と結婚

ジェームズがいつ、どのようにしてカトリックに惹かれるようになったのか、その正確な経緯は定かではありません。亡命中に母ヘンリエッタ=マリアの影響を受けたとも、フランスやスペインの宮廷文化に触れた影響とも言われています。確かなことは、1660年代の後半には、彼は密かにカトリックの教えを受け入れ、1670年頃には完全にカトリック教徒となっていたということです。
彼の最初の妻は、大法官クラレンドン伯の娘、アン=ハイドでした。彼女もまた、ジェームズの影響でカトリックに改宗し、1671年に亡くなりました。彼女との間には、後に女王となるメアリーとアンという二人の娘がいましたが、彼女たちは父の意向に反し、プロテスタントとして育てられました。これは国王チャールズ2世の命令によるものでした。
アンの死後、ジェームズの再婚問題が政治的な焦点となります。彼はカトリックの妃を迎えることを望み、1673年、イタリアのモデナ公国の公女、メアリー=オブ=モデナと結婚しました。彼女は若く、敬虔なカトリック教徒でした。この結婚は、イングランドのプロテスタントたちの間に大きな警鐘を鳴らしました。王位継承者であるヨーク公が、公然とカトリックの妃を迎え、カトリックの世継ぎをもうけるかもしれない。この恐怖が、議会とジェームズとの間の対立を決定的なものにしたのです。
審査法と王位継承排除危機

議会は、ジェームズのカトリック信仰と、国王チャールズ2世の親フランス・親カトリック的な政策に、強い警戒感を抱いていました。1673年、議会は「審査法」を可決します。これは、全ての公職就任者に対し、イングランド国教会の教義を受け入れ、カトリックの教義(特に聖変化)を否定する宣言を義務付けるものでした。
カトリック教徒であるジェームズは、この宣言を拒否せざるを得ませんでした。その結果、彼は海軍卿をはじめとする全ての公職を辞任することになります。これは、彼にとって大きな屈辱であり、彼の政治的キャリアにおける最初の大きな敗北でした。
さらに、1678年に「カトリック陰謀事件」という捏造事件が起こると、反カトリック感情はヒステリーの域に達します。この政治的嵐の中で、シャフツベリ伯を中心とする勢力(後のホイッグ党)は、ジェームズを王位継承から完全に排除することを目的とする「王位継承排除法案」を議会に提出しました。
1679年から1681年にかけて、この法案をめぐり、イングランドは内戦の一歩手前まで行くほどの深刻な政治危機に陥りました。「王位継承排除危機」です。チャールズ2世は、弟の継承権を守るために、何度も議会を解散して抵抗しました。この間、ジェームズは国王の命令で、一時的にブリュッセルやスコットランドに退去させられるなど、苦しい立場に置かれました。
スコットランドでは、彼は国王の名代として統治を行い、反体制的な長老派教徒を厳しく弾圧するなど、その強硬な姿勢を示しました。最終的に、チャールズ2世が巧みな政治手腕でホイッグ党の勢いを削ぎ、危機を乗り切ったことで、ジェームズの王位継承は確保されました。しかし、この危機は、彼と、彼が代表するカトリックの専制政治に対する、国民の根深い不信と恐怖を白日の下に晒したのです。王弟時代の終わり、彼が王位に就く時、その前途には暗雲が垂れ込めていました。
国王ジェームズ2世

1685年2月、兄チャールズ2世が亡くなり、ジェームズは51歳でイングランド、スコットランド、アイルランドの王位を継承しました。イングランド王ジェームズ2世、スコットランド王ジェームズ7世の誕生です。王位継承排除危機という嵐を乗り越えた彼の即位は、驚くほど平穏に行われました。長年の対立に疲れた国民の多くは、新しい国王にひとまず忠誠を誓い、事態の推移を見守る姿勢をとりました。ジェームズ自身も、即位直後の枢密院で、国民の権利と財産、そしてイングランド国教会の地位を守ることを約束し、人々を安堵させました。しかし、この平穏は、嵐の前の静けさに過ぎませんでした。彼の短い治世は、その頑なな信念と性急な政策によって、自ら革命の引き金を引く過程となったのです。
モンマスの反乱

ジェームズの治世の最初の試練は、即位からわずか数ヶ月後に訪れました。チャールズ2世の庶子であり、プロテスタントの英雄として人気があったモンマス公ジェームズ=スコットが、王位を狙って反乱を起こしたのです。
モンマスはオランダからイングランド南西部に上陸し、自らを正統なプロテスタントの国王であると宣言しました。彼は、ジェームズ2世をカトリックの暴君として非難し、職人や農民といった下層階級の人々を中心に、多くの支持者を集めました。しかし、彼の反乱は準備不足であり、貴族やジェントリといった指導者層からの支持を得ることができませんでした。
1685年7月、セッジムーアの戦いで、モンマスの率いる素人集団の反乱軍は、ジェームズの派遣した国王軍にあえなく敗北します。モンマス自身も捕らえられ、叔父であるジェームズに慈悲を乞いますが、聞き入れられずに処刑されました。
この反乱の後、ジェームズは反乱の参加者に対して、極めて過酷な報復を行いました。首席裁判官ジョージ=ジェフリーズが主宰した特別法廷は「血の巡回裁判」として知られ、数百人が処刑され、さらに多くの人々が奴隷として西インド諸島に送られました。この残忍な弾圧は、多くの人々に恐怖を植え付け、ジェームズの冷酷なイメージを決定づけることになりました。
常備軍の増強と親カトリック政策

モンマスの反乱は、ジェームズに、強力な常備軍の必要性を確信させました。彼は、反乱鎮圧のために増強した軍隊を、平時になっても解散させず、その規模をさらに拡大しようとしました。そして、この新しい軍隊の士官として、多くのカトリック教徒を任命し始めたのです。
これは、イングランドの伝統に真っ向から挑戦する行為でした。イングランドでは、大規模な常備軍は、国王が国民を弾圧するための道具であり、自由に対する脅威であると、長年考えられてきました。さらに、審査法は、カトリック教徒が公職や軍の士官になることを明確に禁じていました。
ジェームズは、審査法を無視するために、国王が持つ「免除権」と「停止権」という特権を最大限に利用しようとしました。免除権は、国王が特定の個人に対して法律の適用を免除する権利、停止権は、法律全体の執行を一時的に停止する権利です。彼は、これらの権利が国王に固有のものであり、議会の干渉を受けないと主張しました。
1686年、彼は、国王の免除権の合法性を問うための見せしめ裁判(ゴデン対ヘイルズ事件)を仕掛け、意のままになる裁判官たちに、自らの主張を認めさせました。この判決を盾に、彼はカトリック教徒の士官任命をさらに推し進め、枢密院や政府の要職にも、次々とカトリック教徒を登用していきました。彼は、自らの信仰を共有する人々で、統治機構を固めようとしたのです。
信仰自由宣言

ジェームズの最終的な目標は、単にカトリック教徒を要職に就けることだけではありませんでした。彼は、イングランドにおけるカトリック教徒の完全な市民権を回復し、カトリック教会を再興させることを目指していました。そのための手段として、彼は「信教の自由」という、一見すると進歩的に見える政策を打ち出します。
1687年4月、ジェームズは、国王大権に基づき「信仰自由宣言」を発布しました。この宣言は、カトリック教徒だけでなく、プロテスタント非国教徒(ディセンター)に対しても、完全な信教の自由と公職就任の権利を認めるものでした。審査法をはじめとする、信仰に基づく差別的な法律は、全て停止されるとされたのです。
ジェームズは、この宣言によって、長年イングランド国教会から弾圧されてきた非国教徒を味方につけ、国教会とトーリ党という、伝統的な王権の支持基盤を孤立させようと狙いました。彼は、ウィリアム=ペンといった一部のクエーカー教徒からは支持を得ましたが、ほとんどの非国教徒は、ジェームズの申し出を警戒しました。彼らは、この「寛容」が、カトリックを復興させるための戦術的な手段に過ぎないことを見抜いていたのです。彼らにとって、カトリックの専制は、国教会の圧制よりも、はるかに大きな脅威でした。
この宣言は、イングランド国教会とトーリ党の怒りを買いました。彼らは、国王への忠誠と国教会の擁護を信条としてきましたが、その国王自身が、国教会の独占的な地位を破壊しようとしていたのです。彼らの忠誠心は、深刻な試練に立たされました。
ジェームズは、自らの政策に反対する者を、容赦なく排除していきました。オックスフォード大学のモードリン・カレッジでは、学長選挙に介入し、フェローたちが選んだ候補者を拒否して、カトリック教徒を強引に学長に据えました。学問の自由と財産権に対するこの乱暴な介入は、イングランドのエリート層に大きな衝撃を与えました。ジェームズは、自らの信念を貫くためなら、法も伝統も踏みにじることを厭わない、真の専制君主としての姿を現し始めていたのです。
名誉革命

ジェームズ2世の治世は、3年という短さで、劇的な終焉を迎えます。彼が推し進めた性急な親カトリック政策と専制的な統治スタイルは、イングランドのほぼ全ての政治勢力を敵に回しました。そして、1688年に起こった二つの出来事が、人々の不満を爆発させ、革命への引き金を引くことになります。一つは7人の主教の裁判、もう一つはカトリックの王子の誕生でした。これらの出来事が、イングランドのプロテスタント貴族たちに、最後の手段、すなわち外国からの軍事介入を要請させる決断をさせたのです。
七主教事件

1688年5月、ジェームズは、前年に発布した「信仰自由宣言」を再発布し、さらに、イングランド国教会の全ての教会で、2週にわたって日曜の礼拝時に、この宣言を説教壇から読み上げるよう命じました。これは、国教会の聖職者たちに対する、あからさまな踏み絵でした。彼らは、自らが違法で不敬だと信じる国王の宣言を、神聖な場所で、自らの口で読み上げることを強制されたのです。
カンタベリー大主教ウィリアム=サンクロフトと、他の6人の主教は、連名で国王に請願書を提出しました。その中で彼らは、国王が議会の同意なしに法律を停止する権限を持つとは信じられないため、この命令には良心上従うことができないと、恭順の意を示しつつも、その実行を拒否しました。
ジェームズは、この請願を反逆的な行為と見なし、激怒しました。彼は7人の主教を「扇動文書誹毀罪」で逮捕し、ロンドン塔に投獄しました。国教会の最高指導者たちが、国教会を守護すべき国王によって投獄されるという前代未聞の事態は、国中に衝撃と怒りを広げました。
6月、7人の主教の裁判がウェストミンスター・ホールで開かれました。国民の関心は最高潮に達し、法廷の外には大群衆が詰めかけました。そして、陪審団が下した評決は「無罪」でした。この知らせが伝わると、ロンドンの街は歓喜に沸き、人々は主教たちの解放を祝ってかがり火を焚きました。この評決は、国民がジェームズの専制に「ノー」を突きつけたことを意味していました。それは、国王の権威に対する、司法の、そして民衆の勝利だったのです。
カトリック王子の誕生と招聘状

七主教事件の裁判が進行している最中の6月10日、もう一つの決定的な出来事が起こります。ジェームズ2世の妃、メアリー=オブ=モデナが、男子を出産したのです。ジェームズ=フランシス=エドワードと名付けられたこの王子の誕生は、ジェームズにとっては神の祝福であり、彼の政策の正当性を証明するものに思えました。
しかし、イングランドのプロテスタントたちにとっては、それは絶望の淵に突き落とされるような出来事でした。それまで、彼らの多くは、ジェームズの治世は一代限りのものだと信じ、忍耐を続けていました。ジェームズの後には、彼のプロテスタントの娘であるメアリー(オランダ総督ウィレム3世の妻)が王位を継ぐはずだったからです。しかし、カトリックの男子が生まれたことで、その望みは絶たれました。イングランドに、カトリックの王朝が永続する可能性が、現実のものとなったのです。人々は、この赤ん坊が本当の王子ではなく、カトリックの陰謀のためにどこかから連れてこられた替え玉だという噂を、半ば本気で信じようとさえしました。
この二つの出来事、すなわち七主教の無罪判決とカトリック王子の誕生が、イングランドの有力者たちに行動を決意させました。1688年6月30日、主教たちの無罪評決が出たその日に、7人のプロテスタント貴族が、密かに一通の書簡に署名しました。メンバーには、ホイッグ党の指導者だけでなく、かつてはジェームズを支持していたトーリ党のダンビー伯も含まれていました。これは、イングランドの主要な政治勢力が、党派を超えて反ジェームズで一致したことを示しています。
書簡の宛先は、オランダ総督ウィレム3世、すなわちオレンジ公ウィリアムでした。彼はジェームズの甥であり、同時に娘婿でもありました。書簡は、ウィリアムに対し、イングランド国民の権利と自由、そしてプロテスタントの宗教を守るために、軍隊を率いてイングランドに来航するよう懇願するものでした。彼らは、ウィリアムが上陸すれば、国民の大多数が彼を支持するだろうと約束しました。
亡命

ウィリアムは、この招聘を慎重に検討しました。彼の主な動機は、イングランドの宗教や自由を守ることよりも、むしろヨーロッパの勢力均衡にありました。彼は、フランスのルイ14世の覇権主義に対抗するための大同盟を形成しており、もしイングランドがフランスの同盟国となれば、その計画は完全に破綻してしまいます。彼は、イングランドを反フランス陣営に引き入れるために、この介入を決意しました。
1688年11月5日、ウィリアムは「我は擁護する、プロテスタントの宗教と議会の自由を」という旗を掲げ、約1万5千の軍隊と共にイングランド南西部のトーベイに上陸しました。
ジェームズは、当初、自らの軍隊の力に自信を持っていました。しかし、彼の期待は裏切られます。ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)といった有能な将軍たちが、次々とウィリアム側に寝返っていきました。さらに、彼が最も愛した娘であるアンまでもが、夫と共にウィリアムの陣営に走ったという知らせは、彼に大きな精神的打撃を与えました。
完全に孤立し、戦意を喪失したジェームズは、戦うことなくロンドンに引き返しました。そして、12月11日、彼は国璽をテムズ川に投げ捨て、フランスへの亡命を試みます。彼は一度捕らえられますが、ウィリアムは彼を殉教者にしたくないと考え、意図的に警備を緩め、彼が逃亡するのを黙認しました。12月23日、ジェームズはついにフランスに渡り、二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
議会は、ジェームズが国を「放棄」したことで王位は「空位」になったと宣言し、ウィリアムとメアリーを共同統治者として王位に迎えました。こうして、ほとんど血を流すことなく、体制転換は達成されました。これが「名誉革命」です。それは、ジェームズ2世という一人の国王の、あまりにも頑なな信念が招いた、必然的な結末でした。
最後の戦いと死

フランスに亡命したジェームズ2世は、王位を失った後も、それを取り戻すための戦いを決して諦めませんでした。彼の後半生は、失われた王国への望郷の念と、復位への執念に彩られています。彼は、フランス国王ルイ14世の庇護の下、亡命宮廷を構え、イギリスに残る支持者「ジャコバイト」と連携しながら、反撃の機会をうかがい続けました。しかし、彼の試みは、アイルランドの地での決定的な敗北によって打ち砕かれ、その後の人生を、敬虔な信仰と悔恨のうちに過ごすことになります。
アイルランドでの戦い

ジェームズにとって、最初の、そして最大の復位のチャンスは、カトリック教徒が多数を占めるアイルランドにありました。アイルランドの多くの人々は、プロテスタントのウィリアム3世の支配を認めず、カトリックの国王であるジェームズに忠誠を誓い続けていました。
1689年3月、ジェームズは、ルイ14世から提供された軍資金とフランス軍士官の支援を受け、アイルランドに上陸しました。彼はダブリンに入り、アイルランド議会を召集します。この「愛国議会」は、ジェームズの王位を承認し、ウィリアムの支持者の土地を没収する法律や、アイルランド議会のイングランドからの独立を宣言する法律を次々と可決しました。ジェームズは、アイルランドを拠点として、イングランドへの反攻作戦を計画したのです。
しかし、アイルランドのプロテスタントたちは、ロンドンデリーやエニスキレンといった都市に立てこもり、ジェームズ軍に激しく抵抗しました。特に、ロンドンデリーの包囲戦は105日間に及び、飢えに苦しみながらも最後まで降伏しなかったプロテスタント市民の英雄的な抵抗は、ウィリアム派の士気を大いに高めました。
1690年6月、ウィリアム3世自身が、大規模な軍隊を率いてアイルランドに上陸します。そして、7月1日(当時のユリウス暦)、二人の国王は、ダブリンの北を流れるボイン川のほとりで、直接対決の時を迎えました。これが、アイルランドの歴史を決定づけた「ボイン川の戦い」です。
兵力と装備で勝るウィリアム軍は、ジェームズ率いるジャコバイト軍を打ち破りました。ジェームズ自身は、戦闘の早い段階で戦況を悲観し、戦場から離脱してフランスへと逃げ帰ってしまいました。この行動は、彼のために戦っていたアイルランド兵の士気を著しく低下させ、「臆病者」とのそしりを受けることになります。
ボイン川の戦いの後も、アイルランドのジャコバイト軍は抵抗を続けましたが、1691年のオーグリムの戦いでの壊滅的な敗北と、リメリックの降伏によって、アイルランドにおける戦争は終結しました。この敗北により、ジェームズの復位の望みは事実上絶たれ、アイルランドは、その後長く続くプロテスタント支配の時代へと入っていくことになります。
サン=ジェルマン=アン=レーでの亡命生活

アイルランドから逃げ帰ったジェームズは、ルイ14世から提供されたパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レー城で、亡命宮廷を営みました。ここには、彼に従って国を追われた多くのジャコバイトが集まり、失われた王国の小さな影を形作っていました。
彼は、その後も復位の夢を捨てきれませんでした。1692年には、フランス海軍の支援を得て、イングランドへの侵攻作戦が計画されましたが、ラ・オーグの海戦で英蘭連合艦隊がフランス艦隊を撃破したため、失敗に終わります。1696年にも、ジャコバイトによるウィリアム3世暗殺計画が発覚し、ジェームズがそれに関与していたとの疑惑が浮上しました。この事件は、イングランド国内に残っていたジェームズへの同情心を、かえって失わせる結果となりました。
度重なる失敗を経て、ジェームズは次第に政治活動への情熱を失い、深く敬虔な信仰生活に没頭するようになります。彼は、自らが王位を失ったのは、若い頃に犯した罪(特に好色であったこと)に対する、神の罰であると考えるようになりました。彼は、多くの時間を祈りと黙想に費やし、トラピスト修道院を訪れては、厳しい修行生活を送る修道士たちと共に過ごしました。
彼の晩年は、かつての尊大な国王の姿はなく、自らの運命を静かに受け入れた、一人の敬虔なカトリック信者のようでした。彼は、自らの苦難を、キリストの受難に重ね合わせ、来世での救済を求めることに心の平安を見出していたのです。
1701年9月16日、ジェームズ2世は脳卒中のため、サン=ジェルマン=アン=レー城でその波乱に満ちた生涯を閉じました。67歳でした。彼の遺体は分割され、その心臓は、彼が愛したパリの女子修道院に葬られました。
ルイ14世は、ジェームズの死後、その息子であるジェームズ=フランシス=エドワードを「ジェームズ3世」として、正統なイングランド国王として承認しました。これにより、ジャコバイトの王位請求権は引き継がれ、その後も18世紀を通じて、イギリスの政治に影を落とし続けることになります。しかし、ジェームズ2世自身の死は、ステュアート朝の絶対君主制の夢が、完全に終わりを告げたことを象徴する出来事でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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