短期議会とは
1640年の春、イングランドは11年ぶりに議会の開会を迎えました。国王チャールズ1世が、スコットランドの反乱を鎮圧するための戦費を求めて召集したこの議会は、しかし、わずか3週間という短い期間で、何の成果も生むことなく解散されます。そのあまりの短命さから、後に「短期議会」と呼ばれることになるこの会期は、一見すると、ステュアート朝の歴史における、つかの間の、失敗に終わったエピソードに過ぎないように見えるかもしれません。しかし、その歴史的な重要性は、会期の長さに反比例して、極めて大きいものがあります。
短期議会は、チャールズ1世が1629年以来続けてきた「個人統治」の時代と、イングランド内戦へと至る革命の時代の、決定的な分水嶺に位置しています。それは、国王と、彼が統治するイングランドの政治的国民との間に横たわる、深く、そしてもはや和解不可能な溝を、白日の下に晒しました。国王は、スコットランドという差し迫った脅威に対する愛国的な支援を期待して議会を召集しました。しかし、ウェストミンスターに集った議員たちの関心は、国境の向こうの反乱軍ではなく、11年間の専制によって国内で踏みにじられてきた、自らの権利と自由にこそ向けられていました。
この議会は、ジョン=ピムという、老練で揺るぎない議会指導者の登場を告げる舞台となりました。彼は、巧みな演説と戦略によって、下院の議論を巧みに導き、「苦情の救済なくして補助金なし」という、議会の伝統的な原則を改めて打ち立てます。船税のような議会の承認なき課税、星室庁や高等宗務官裁判所による恣意的な裁判、そしてウィリアム=ロード大主教が進める宗教上の「革新」。これら「個人統治」の間に蓄積された数々の苦情が、スコットランドとの戦争という目先の課題を、完全に覆い尽くしてしまいました。
短期議会の失敗は、国王チャールズ1世と、彼の最も有能な側近であったストラフォード伯トーマス=ウェントワースの、深刻な政治的誤算の結果でした。彼らは、イングランドの世論を読み違え、議会を自らの意のままに操れると信じていました。しかし、彼らが直面したのは、かつてないほど組織され、固い決意を持った反対派でした。国王が、わずかな譲歩と引き換えに補助金を得ようとした試みは、議会の不信感を増幅させるだけに終わり、最終的に、彼は苛立ちのあまり、自ら協力関係回復の最後の機会を断ち切ってしまいます。
この議会の解散は、イングランドの政治情勢を、さらに危険な領域へと押しやりました。それは、国王が、もはや通常の憲法的な手続きを通じては、統治資金を得ることができないという事実を確定させました。そして、その後の第二次主教戦争における国王軍の惨めな敗北は、彼に、よりラディカルで、より要求の厳しい議会、すなわち「長期議会」を召集させる以外に、選択肢を残しませんでした。短期議会で示された国王と議会の間の対立の構図は、長期議会でさらに先鋭化し、最終的には、言葉による闘争から、武器による闘争へと発展していくことになります。
主教戦争と国王の窮地
1640年の短期議会は、イングランド国内の事情からではなく、北の隣国スコットランドで燃え上がった反乱の炎によって、その召集を余儀なくされました。チャールズ1世が11年間にわたって維持してきた議会なき「個人統治」は、スコットランド国教会に対する彼の拙速な宗教改革の試みが引き起こした、主教戦争という予期せぬ事態によって、その限界を露呈し、崩壊の危機に瀕していました。
第一次主教戦争の屈辱
紛争の直接的な原因は、1637年、チャールズ1世とカンタベリー大主教ウィリアム=ロードが、スコットランド国教会に対して、イングランド国教会の様式に近い新しい祈祷書を強制的に導入しようとしたことでした。これは、スコットランドの長老派の信仰と教会の独立性を守ろうとする、貴族から民衆に至るまでの、全国的な抵抗運動を引き起こしました。彼らは「国民盟約」の下に結集し、国王の宗教政策を断固として拒絶しました。
1638年11月、盟約派は、国王の許可なくグラスゴーで教会総会を開き、主教制そのものの廃止を宣言します。これを許しがたい反逆と見なしたチャールズは、1639年の夏、武力によってスコットランドを屈服させるため、軍隊を率いて北上しました。これが第一次主教戦争です。
しかし、この遠征は、チャールズにとって屈辱的な失敗に終わりました。議会の承認なしに統治してきた彼には、十分な戦費がありませんでした。急ごしらえで召集されたイングランド軍は、訓練が不十分で士気も低く、多くの兵士は、プロテスタントの同胞であるスコットランド人と戦うことに、強い抵抗を感じていました。一方、アレクサンダー=レズリー将軍に率いられたスコットランド盟約派軍は、信仰に燃え、よく訓練された、強力な軍隊でした。
国境の町ベリック近郊で両軍が対峙した際、チャールズは、自軍がスコットランド軍に全く歯が立たないことを悟りました。戦闘を回避するため、彼は交渉の席に着き、1639年6月、「ベリックの和約」に署名せざるを得ませんでした。この和約により、彼は軍を解散し、スコットランドの宗教問題を解決するための新たな教会総会と議会の召集を認めることを約束させられました。実質的に、これは国王の完全な敗北でした。彼は、反乱軍の要求を、武力で覆すことができなかったのです。
ストラフォード伯の登場と強硬策
第一次主教戦争の失敗に打ちのめされたチャールズは、最も信頼し、そして最も恐れられていた側近を、アイルランドから呼び寄せました。その人物こそ、アイルランド総督であった、ストラフォード伯トーマス=ウェントワースです。
ウェントワースは、かつて1628年の「権利の請願」を主導した議会派のリーダーの一人でしたが、その後、国王側に転じ、チャールズの個人統治における最も有能な行政官となっていました。彼は、アイルランド総督として、「徹底」と呼ばれる強権的な政策を推し進め、現地の抵抗勢力を抑え込み、王室の権威を確立し、そして何よりも、アイルランドの歳入を劇的に増加させることに成功していました。彼は、アイルランド議会を巧みに操り、国王のために補助金を引き出し、さらには、国王が自由に使える、よく訓練されたアイルランド軍を創設していました。
チャールズにとって、ストラフォードは、秩序を回復し、王権を再確立するための、最後の切り札でした。1639年9月、ストラフォードはロンドンに到着し、すぐに国王の最高顧問としての地位を確立しました。彼は、ベリックの和約を、一時的な戦術的後退としか見なさず、チャールズに対して、スコットランドに対する、より断固とした、攻撃的な政策をとるよう進言しました。彼に言わせれば、スコットランドの反乱は、王権そのものに対する挑戦であり、これを徹底的に叩き潰さなければ、イングランドやアイルランドにも反乱が波及しかねない、というのです。
ストラフォードの戦略の核心は、第二次主教戦争を遂行するための、強力な軍隊と、それを支える莫大な資金を確保することでした。彼は、自らがアイルランドで成功したように、イングランド議会を召集し、議員たちの愛国心とスコットランド人への敵愾心に訴えれば、大規模な補助金を引き出すことができると、チャールズを説得しました。彼は、イングランドのジェントリたちが、11年間の平和と繁栄を享受した後では、王国の安全を脅かす反乱軍と戦うために、喜んで財布の紐を緩めるだろうと、楽観的に考えていました。
ストラフォードのもう一つの切り札は、彼がアイルランドで編成した軍隊でした。彼は、このアイルランド軍をスコットランド西部に上陸させ、イングランド軍と挟撃する作戦を立てていました。
チャールズは、1629年以来、議会に対して深い不信感を抱いていましたが、ストラフォードの自信に満ちた計画と、他に選択肢がないという厳しい現実の前に、ついに11年ぶりに議会を召集することを決意します。1639年12月5日、枢密院は、翌年4月13日にウェストミンスターで議会を開会することを布告しました。国王とその側近たちは、この議会が、自分たちの意のままになる、従順なものであることを期待していました。しかし、それは、彼らのキャリア、そして国王自身の運命にとって、致命的となる誤算でした。
11年間の「苦情」
チャールズとストラフォードが、議会がスコットランド問題に集中すると期待していたのに対し、選挙で選ばれてくる議員たちの頭の中は、全く別の問題で占められていました。それは、1629年から1640年にかけての、11年間の「個人統治」の間に蓄積された、数々の「苦情」でした。
議員たちが問題視していたのは、大きく分けて三つの領域にわたっていました。
第一は、議会の承認なき課税です。チャールズは、議会を開かずに統治するため、様々な非伝統的な手段で資金を調達しました。その最も悪名高い例が、「船税」です。元来、これは沿岸部の都市に、海軍の防衛のために船またはその建造費を供出させる、戦時の臨時税でした。しかし、チャールズは、これを平時において、イングランド全土の内陸部にまで拡大し、恒久的な税として毎年徴収し始めました。これは、多くの人々にとって、「権利の請願」で禁じられたはずの、議会の承認なき課税そのものでした。1637年、バッキンガムシャーのジェントリであるジョン=ハムデンが、この船税の支払いを拒否して裁判を起こしました。王の裁判官たちは、7対5という僅差で国王の権利を認めましたが、この裁判は、船税の合法性に対する国民的な議論を巻き起こし、ハムデンを、議会派の英雄にしました。その他にも、騎士強制金や、王領森林の境界の復活といった、時代遅れの封建的な権利を濫用した財源確保策も、多くの土地所有者の反感を買っていました。
第二は、国王大権裁判所による専制です。チャールズは、星室庁や高等宗務官裁判所といった、コモン=ローの裁判所の外にある大権裁判所を多用して、自らの政策に反対する者を弾圧しました。これらの裁判所は、陪審員なしで裁判を行い、罰金、投獄、そして晒し台や耳そぎといった、残虐な身体刑を科すことができました。特に有名なのが、1637年、ピューリタンのパンフレット作家であったウィリアム=プリン、ヘンリー=バートン、ジョン=バストウィックの3人が、ロード大主教を批判したかどで星室庁に裁かれ、巨額の罰金と共に、両耳をそぎ落とされた事件です。この残酷な判決は、多くの人々に衝撃を与え、彼らを、ロードの圧政に抵抗する殉教者と見なさせました。
第三は、宗教上の「革新」です。カンタベリー大主教ウィリアム=ロードが進める、いわゆる「アルミニウス主義」的な宗教改革は、イングランド国教会内の多数派であったカルヴァン主義者の間に、深刻な不安と敵意を広げていました。ロードは、祭壇を教会の東端に移動させて手すりで囲い、聖職者にサープリス(祭服)の着用を義務付け、礼拝における儀式的な要素を強調しました。これらの改革は、多くのプロテスタントにとって、自分たちの教会を、忌み嫌うべきカトリックの慣習へと逆戻りさせる、「ポープリー」への道としか思えませんでした。彼らは、ロードの政策が、イングランドの真のプロテスタント信仰を内側から破壊しようとする、巨大な陰謀の一部であると疑っていました。スコットランドで起こった反乱も、彼らの目には、この「ポープリー」の陰謀に対する、正当な抵抗として映ったのです。
これらの、財産権、身体の自由、そして魂の救済という、人間にとって最も根源的な領域に及ぶ「苦情」は、11年の間に、イングランドのジェントリや都市の商人、そして多くの聖職者たちの心の中に、深く刻み込まれていました。彼らが11年ぶりに議会に代表を送り出す機会を得たとき、その最優先事項が、スコットランドとの戦争ではなく、これらの国内問題の解決にあったことは、当然の帰結でした。
議会選挙と反対派の組織化
1640年の初頭、11年ぶりに行われる議会選挙の令状が全国に発せられると、イングランドの政治状況は、にわかに活気づきました。この選挙は、単に議員を選ぶだけでなく、チャールズ1世の個人統治に対する、国民的な信任投票の意味合いを帯びていました。そして、この選挙戦を通じて、国王の政策に批判的な勢力、すなわち「反対派」は、かつてないほどの連携と組織化を見せ、来るべき議会での闘争に備えていました。
選挙戦の様相
17世紀の議会選挙は、現代の選挙とは大きく異なっていました。選挙権は、カウンティ(州)では40シリング以上の自由土地保有者に、バラ(都市)ではそれぞれの都市の慣習によって定められた、ごく一部の男性に限られていました。多くの選挙区では、有力な貴族やジェントリの一族が、事実上の指名権を握っており、競争のないままに議員が選ばれることも珍しくありませんでした。
しかし、1640年の選挙は、多くの地域で、異例の激しい選挙戦が繰り広げられました。その背景には、11年間の個人統治の間に高まった、政治的な緊張関係がありました。多くの選挙区で、国王の政策を支持する「宮廷派」の候補者と、それに批判的な「地方派」の候補者との間で、明確な対立の構図が生まれました。
選挙の争点は、主に船税と宗教問題でした。船税に強硬に反対した人物や、ロード大主教の宗教政策に批判的なピューリタンの聖職者を支援した人物が、「地方派」の候補者として、有権者の支持を集めました。一方、「宮廷派」の候補者は、国王への忠誠と、スコットランドの反乱に対する断固たる態度を訴えましたが、多くの地域で苦戦を強いられました。
この選挙の結果、下院には、国王の政策に対して、明確に批判的な考えを持つ議員が、多数送り込まれることになりました。その中には、ジョン=ピム、ジョン=ハムデン、オリバー=シンジョン、デンジル=ホリスといった、1620年代の議会闘争を経験したベテラン議員たちが、再び議席を確保していました。彼らは、来るべき議会で、反対派の中核を形成することになります。
反対派のネットワーク
1640年の選挙と、その後の短期議会における反対派の成功の背景には、彼らが11年間の個人統治の間に築き上げてきた、緊密な非公式のネットワークの存在がありました。国王が議会という公的な政治の場を閉ざしている間、彼らは、私的な交友関係、婚姻関係、および商業的なつながりを通じて、連絡を取り合い、情報交換を行い、共通の政治的戦略を練っていたのです。
このネットワークの中心にあったのが、いくつかの有力なピューリタン貴族の存在でした。特に重要だったのが、ウォリック伯ロバート=リッチ、ベッドフォード伯フランシス=ラッセル、そしてセー=アンド=シール子爵ウィリアム=ファインズといった人物たちです。彼らは、自らの邸宅を、反対派の政治家や聖職者たちの会合の場として提供しました。
ウォリック伯は、広範な商業的利権(特にアメリカ植民地への投資)を持つ、影響力のある貴族でした。彼は、ピューリタンの聖職者たちの強力なパトロンであり、彼のネットワークは、ロンドン市内の商人層や、海外のプロテスタント勢力にまで及んでいました。
セー=アンド=シール子爵は、貴族院における、最も声高で妥協を知らない、ピューリタンの代弁者でした。彼は、ジョン=ピムやジョン=ハムデンといった下院の指導者たちと極めて親しい関係にあり、彼が中心となって設立したプロヴィデンス島会社は、単なる植民地経営の事業体であるだけでなく、反対派の政治家たちが集まり、戦略を議論するための、事実上の司令部として機能していました。ジョン=ピムは、この会社の会計係を務めており、会社の会合は、議会が開かれていない時期の、彼らの政治活動の隠れ蓑となっていました。
ベッドフォード伯は、より穏健な人物でしたが、その広大な所領と富、そして慎重な人柄によって、多くの人々から尊敬を集めていました。彼は、反対派と宮廷派の間の仲介役を果たしうる、数少ない人物の一人と見なされていました。彼のロンドン邸宅であるベッドフォード=ハウスは、反対派の重要な会合場所の一つでした。
これらの貴族たちのパトロネージの下で、ジョン=ピムのような下院の指導者たちは、選挙戦の段階から、候補者の選定や選挙運動の調整を行っていました。彼らは、手紙のやり取りを通じて、どの選挙区でどの候補者を支援すべきか、そして、来るべき議会でどのような問題を取り上げるべきかについて、緊密に連携していました。
スコットランド盟約派との連携
さらに、イングランドの反対派が、スコットランドの盟約派指導者たちと、密かに連絡を取り合っていたことも、短期議会の展開に大きな影響を与えました。ベリックの和約の後、スコットランド盟約派は、ロンドンに代表団を派遣していました。彼らは、表向きは国王と和平交渉を行うためでしたが、その裏では、イングランドの反対派の指導者たちと頻繁に会合を重ねていました。
セー=アンド=シール子爵やベッドフォード伯、そしてジョン=ピムらは、スコットランドの代表団と接触し、互いの目的が、ロード大主教とストラフォード伯に象徴される「ポープリー」と「専制」という、共通の敵を打ち破ることにある、という認識を共有しました。イングランドの反対派は、スコットランド盟約派に対して、イングランド議会が国王の戦費を承認することはないだろう、という見通しを伝え、彼らを勇気づけました。
この連携は、国王側から見れば、敵国との内通であり、反逆行為に他なりませんでした。しかし、反対派にとって、スコットランド盟約派は、自分たちと同じく、国王の専制と戦う、プロテスタントの同胞でした。彼らは、スコットランドの反乱が、イングランドにおける自由の回復のための、またとない好機であると捉えていました。スコットランド軍が国境で国王軍を牽制している限り、国王はイングランド議会に依存せざるを得ず、議会は、その有利な立場を利用して、長年の苦情の解決を国王に迫ることができる、と考えたのです。
このように、1640年4月に短期議会が召集された時、反対派は、もはや1620年代のような、まとまりのない個人の集まりではありませんでした。彼らは、貴族院と下院、そしてイングランドとスコットランドにまたがる、高度に組織化された、政治的なネットワークを形成していました。そして、その中心には、来るべき議会闘争の戦術を、周到に準備している一人の男がいました。その男こそ、ジョン=ピムでした。
議会の展開とジョン=ピムの戦略
1640年4月13日、11年ぶりにウェストミンスター宮殿に議会が召集されました。国王チャールズ1世とその側近たちは、この議会が、スコットランドの反乱に対する愛国的な怒りに燃え、速やかに戦費を承認することを期待していました。しかし、彼らが直面したのは、ジョン=ピムという卓越した戦略家によって率いられた、固い決意を持つ反対派でした。議会の冒頭から、主導権を握ったのは、国王ではなく、下院でした。
国王の要求とフィンチの演説
議会の開会にあたり、大法官のジョン=フィンチ卿が、国王の意向を議員たちに伝える演説を行いました。フィンチは、1629年の議会で、解散に抵抗する議員たちによって椅子に押さえつけられた、あの下院議長その人であり、個人統治の時代を通じて、国王の忠実な僕として星室庁などで活躍した、議会派にとっては憎悪の対象ともいえる人物でした。
フィンチは、国王が直面している、スコットランドの反乱という、国家の深刻な危機について説明しました。彼は、スコットランド盟約派が、単に宗教的な問題を訴えているのではなく、イングランドの王位そのものを覆そうと企んでいる、危険な反逆者であると強調しました。彼は、その証拠として、スコットランド盟約派がフランス国王ルイ13世に宛てて支援を求めたとされる手紙(ただし、この手紙は実際には送られていませんでした)を議会に提示し、彼らが外国勢力を引き入れようとしていると非難しました。
そしてフィンチは、この危機に対処するため、国王が莫大な戦費を必要としていることを訴え、議会に対して、迅速に補助金を承認するよう求めました。彼は、国王が、補助金の見返りとして、船税のような問題について、議員たちの意見に耳を傾ける用意があると示唆しましたが、あくまで、補助金の承認が先決であると主張しました。「まず国王に信頼を寄せよ、さらば国王も汝らを信頼するであろう」というのが、彼のメッセージでした。
要するに、国王の戦略は、国家の安全保障という緊急性を盾にとって、長年の苦情の議論を後回しにさせ、まず資金を確保することでした。一度、大規模な補助金を手にしてしまえば、国王は、再び議会を解散し、自らの意のままに統治を再開できるかもしれない、と考えていたのです。
ジョン=ピムの演説と「苦情のカタログ」
国王側の思惑に対して、真っ向から反論し、議会の議題を完全に塗り替えてしまったのが、4月17日に行われた、サマセット州選出のベテラン議員、ジョン=ピムの演説でした。この2時間に及ぶ演説は、短期議会の流れを決定づけた、歴史的なものとなりました。
ピムは、フィンチが訴えたスコットランドの脅威については、ほとんど触れませんでした。その代わりに彼は、この11年間の個人統治の間に、イングランド王国が被ってきた、より深刻な、内なる病について、体系的かつ冷静に、しかし力強く語り始めました。彼は、臣民の苦情を、三つの大きなカテゴリーに分類して提示しました。
議会の特権に対する侵害: 彼は、1629年の議会解散と、その後のジョン=エリオット卿らの投獄といった、議会の自由な議論を封じ込めるための、国王の行動を非難しました。
宗教上の革新: 彼は、ロード大主教が進める儀式主義的な改革が、いかに多くの敬虔なプロテスタントの良心を傷つけ、国教会を「ポープリー」の危険に晒しているかを、詳細に述べました。
臣民の財産と自由に対する侵害: 彼は、船税をはじめとする議会の承認なき課税や、星室庁による専制的な裁判が、イングランド臣民の、法によって保障されたはずの権利を、いかに踏みにじっているかを、告発しました。
ピムの演説の巧みさは、国王個人を直接的に攻撃するのを避け、すべての問題を、国王の「悪しき助言者」のせいにした点にあります。彼は、国王自身は正義を愛する君主であるが、ストラフォード伯やロード大主教のような側近たちによって、誤った道に導かれているのだ、というフィクションを提示しました。
そして、彼は、演説の結論として、議会の進むべき道を明確に示しました。それは、「苦情の救済なくして補助金なし」という、議会の伝統的な原則の再確認でした。彼は、これらの深刻な国内問題が解決されない限り、議会は、国王に一ペンスたりとも与えるべきではない、と主張したのです。
ピムの演説は、下院の雰囲気を完全に支配しました。彼の「苦情のカタログ」は、議員たちが個々に感じていた不満や不安を、一つの首尾一貫した、政治的なプログラムへとまとめ上げました。彼の演説の後、他の議員たちが次々と立ち上がり、それぞれの選挙区で経験した、船税の強制徴収や、宗教的な迫害の具体的な事例を報告し始めました。下院は、スコットランドとの戦争を議論する場から、11年間の個人統治を告発する、巨大な公聴会の場へと、その姿を変えたのです。
交渉の行き詰まり
下院が苦情の審議に没頭し、補助金の議論を全く始めようとしないことに、チャールズは苛立ちを募らせました。彼は、貴族院を通じて、下院に圧力をかけようと試みます。貴族院は、下院に対して、まず補助金の審議を優先し、その後で苦情の審議を行うべきだ、という決議を可決しました。しかし、下院は、これを、下院の持つ「金銭法案先議権」に対する、貴族院の越権行為であるとして、激しく反発しました。この介入は、むしろ下院を、さらに頑なにする結果となりました。
追い詰められたチャールズは、ストラフォード伯の助言を受け、譲歩案を提示します。4月24日、彼は、もし議会が、スコットランドとの戦争のために、12回分の補助金(約84万ポンドに相当する莫大な金額)を承認するならば、その見返りとして、国王は、船税を永久に放棄することに同意する、と申し出ました。
これは、国王側からすれば、大きな譲歩のつもりでした。船税は、年間約20万ポンドの安定した歳入を国王にもたらしており、それを手放すことは、大きな犠牲を意味しました。しかし、下院の多くの議員は、この提案を、巧妙な罠であると見なしました。
第一に、12回分という補助金の額は、あまりにも法外でした。第二に、彼らは、国王が、一つの違法な税金(船税)を放棄する見返りとして、別の合法的な税金(補助金)を要求している、という取引そのものに、強い抵抗を感じました。彼らにとすれば、船税は元々違法なのだから、国王は、無条件でそれを撤回すべきであり、それを交渉の材料に使うこと自体が、間違っているのです。もしこの取引に応じれば、それは、船税が、これまで合法であったと、議会が暗に認めることになりかねません。
さらに、議員たちは、国王の約束そのものを、もはや信用していませんでした。1628年の「権利の請願」を承認した舌の根も乾かぬうちに、その精神を踏みにじった国王が、今回も、補助金を手に入れた後で、別の手段で専制を再開しないという保証は、どこにもありませんでした。
下院は、国王の提案を拒否し、苦情の審議を続けました。特に、ロード大主教の宗教政策に対する批判が、日増しに高まっていきました。議会は、国王が望んだ、スコットランドに対する、団結した戦争努力の場ではなく、国王の政府そのものに対する、不信任を突きつける場となっていたのです。
解散とその影響
国王の譲歩案も、下院の固い決意を崩すことはできませんでした。議会が、補助金の承認からますます遠ざかっていくのを見て、チャールズ1世とストラフォード伯は、最後の、および最も絶望的な賭けに出ます。しかし、その試みも失敗に終わると、国王は、怒りと絶望のうちに、この手に負えなくなった議会を、力ずくで終わらせることを決断しました。
最後の交渉と国王の誤算
5月2日、チャールズは、下院の強硬な態度に業を煮やし、彼らをホワイトホール宮殿に召喚し、自ら演説を行いました。彼は、これ以上、補助金の承認を遅らせることは許さないと警告し、もし議会が協力しないならば、「他の方法」で資金を調達せざるを得ないだろうと、脅しをかけました。これは、議会を無視して、再び強制的な手段に訴えることを示唆するものであり、議員たちの反感をさらに煽るだけでした。
5月4日、国王側は、最後の交渉カードを切ります。国王秘書長官のヘンリー=ヴェイン卿(父)が、下院に対して、国王が、12回分の補助金という要求を取り下げ、その代わりに、船税を放棄する見返りを、議会自身が決めることを認める、というメッセージを伝えました。しかし、この時、ヴェインは、致命的な失言(あるいは、意図的な妨害工作であったとも言われています)を犯します。彼は、国王が「補助金という形以外でのいかなる見返りも受け入れない」と付け加えてしまったのです。
これは、下院が検討していた、より穏健な解決策の道を閉ざすものでした。ジョン=ピムの盟友であるジョン=ハムデンは、この国王の要求の厳しさを逆手にとり、補助金問題の議論を、さらに引き延ばすための動議を提出しました。下院は、国王の提案を受け入れるべきか否かで、紛糾しました。
ストラフォードの助言と解散の決定
5月4日の夜、チャールズは、ストラフォード伯、ロード大主教、および側近たちと、緊急の枢密院会議を開きました。この席で、ストラフォードは、もはやこの議会から、満足のいく補助金を得る見込みはないと判断し、国王に、即時の議会解散を進言しました。
ストラフォードは、議会が国王に協力しない以上、国王は、「神と自然の法」によって、国家を守るために、あらゆる必要な手段をとる「非常大権」を持つと主張しました。彼は、「陛下、あなたは議会を試みましたが、拒絶されました。あなたは、通常の統治のルールから解放されたのです」と述べ、議会を無視して、強制的に戦費を徴収することを正当化しました。さらに彼は、チャールズに対して、「あなたには、アイルランドの軍隊があります。その軍隊で、この王国(イングランド)を服従させることができるのです」と述べたと、後に長期議会で告発されることになります。この発言は、彼が反逆罪で弾劾され、処刑される際の、決定的な証拠の一つとなりました。
ストラフォードの強硬な助言に後押しされ、チャールズは、議会の解散を最終的に決断しました。彼は、ピムやハムデンのような反対派の指導者たちが、スコットランドの反乱軍と内通し、意図的に議事を妨害していると固く信じていました。彼にとって、これ以上議会を存続させることは、自らの権威をさらに損なうだけであり、百害あって一利なし、と思われたのです。
1640年5月5日の朝、議員たちがウェストミンスターに集まると、彼らを待っていたのは、国王の使者である黒杖官でした。彼は、議員たちに貴族院へ来るよう命じ、そこで、大法官フィンチが、国王の名において、議会の解散を宣言しました。
こうして、わずか3週間の会期を終え、短期議会は、その幕を閉じました。国王は、1シリングの補助金も得ることができず、それどころか、自らの統治に対する、イングランドの支配階級の広範な不満と敵意を、公の場で確認させられるという、最悪の結果に終わりました。
解散後の反動と第二次主教戦争の敗北
短期議会の解散は、国王と国民の間の、最後の橋を焼き払う行為でした。ロンドンでは、解散に抗議する民衆の暴動が発生し、群衆は、ロード大主教の邸宅であるランベス宮殿を襲撃しました。国王政府は、ジョン=ピムを含む、主要な反対派議員の書類を差し押え、一部の議員を短期間投獄するなど、弾圧的な姿勢を強めました。
チャールズは、ストラフォードの助言通り、「他の方法」で戦費を調達しようと試みました。彼は、ロンドン市に強制的な借金を要求しましたが拒絶され、スペイン国王から借金をしようとした計画も失敗に終わりました。教会会議を議会解散後も続行させ、聖職者たちに「慈悲金」を課し、さらに、国王への服従を誓わせる物議を醸す「等々の誓い」を制定させましたが、これらは、さらなる反発を招いただけでした。
結局、チャールズは、不満を抱き、装備も不十分な、士気の低い軍隊を率いて、再びスコットランドとの戦争に臨まなければなりませんでした。結果は、第一次主教戦争の時よりも、さらに悲惨なものでした。
1640年8月、スコットランド盟約派軍は、待つことをやめ、イングランド領内へと侵攻を開始しました。8月28日、ニューバーンの戦いで、スコットランド軍は、イングランド軍をいとも簡単に打ち破り、イングランド北部の重要都市ニューカッスルを占領しました。これにより、ロンドンへの石炭供給が、スコットランド軍の手に落ちました。
軍事的に完敗し、財政的に破産し、および国内の支持も完全に失ったチャールズには、もはや選択肢は残されていませんでした。彼は、スコットランド軍の駐留経費として、一日あたり850ポンドという莫大な金額を支払うことを約束させられるという、屈辱的な「リポンの和約」を結ばざるを得ませんでした。
この賠償金を支払うためには、議会の承認による大規模な課税以外に、道はありませんでした。1640年11月3日、チャールズは、嫌々ながら、再び議会を召集します。この議会こそ、その後20年にわたって存続し、国王の権力を次々と剥奪し、ストラフォード伯とロード大主教を処刑し、最終的に国王自身を処刑台へと送ることになる、あの「長期議会」でした。
短期議会の歴史的意義
短期議会は、その名の通り、わずか3週間で終わった、失敗した議会でした。国王は戦費を得られず、議員たちは苦情を一つも解決できませんでした。しかし、その歴史的な意義は、この直接的な結果の乏しさとは、全く別の次元にあります。短期議会は、イングランド内戦へと至る道筋における、決定的な転換点であり、その短い会期は、国王と議会の間の対立が、もはや修復不可能な段階に達したことを、誰の目にも明らかにしたのです。
第一に、短期議会は、チャールズ1世の個人統治の完全な破綻を証明しました。11年間、国王は、議会という国民の代表機関を無視し、大権という曖昧な権威に頼って統治を続けてきました。しかし、スコットランドの反乱という最初の大きな国家的危機に直面した途端、その統治モデルは、脆くも崩れ去りました。議会の財政的支援なしには、国王は、自国の国境を守ることすらできない、無力な存在であることが露呈したのです。短期議会の失敗は、国王が、好むと好まざるとにかかわらず、議会と共存しなければ統治できないという、イングランド憲政の根本原則を、改めて確認させるものでした。
第二に、短期議会は、イングランドの政治的国民の間に、広範で、組織化された反国王感情が存在することを、公の場で示しました。11年間の沈黙の後、ウェストミンスターに集ったジェントリたちは、国王が期待したような、従順な臣下ではありませんでした。彼らは、ジョン=ピムのような老練な指導者の下に結集し、「苦情の救済なくして補助金なし」という原則を、断固として貫きました。船税、専制裁判、および宗教改革といった、個人統治の間に蓄積された不正義に対する彼らの怒りは、スコットランドの反乱に対する恐怖を、はるかに上回っていました。この議会は、国王の政策が、単に一部の過激なピューリタンだけでなく、イングランドの支配階級の、穏健で尊敬されるべきメンバーたちからも、深く憎まれているという事実を、突きつけました。
第三に、短期議会は、ジョン=ピムを、反対派の疑いようのないリーダーとして確立し、その後の長期議会での闘争の戦略を準備する場となりました。ピムは、その卓越した演説と戦術によって、下院の議論を完全に支配しました。彼は、多様な不満を、「ポープリー」と「専制」に対する闘争という、一つの首尾一貫した物語にまとめ上げ、議員たちに共通の目的意識を与えました。短期議会で彼が提示した「苦情のカタログ」は、そのまま、長期議会が国王に対して突きつける、改革要求の草案となりました。短期議会の失敗は、ピムとその仲間たちに、国王やその側近たちとは、もはや妥協の余地はないという確信を、さらに強めさせました。彼らは、次に議会が開かれる時には、単に苦情を述べるだけでなく、国王の権力を恒久的に制限するための、より抜本的な手段を講じなければならない、と決意したのです。
第四に、短期議会の解散という国王の性急な決断は、穏健派を国王から引き離し、政治状況を、さらにラディカルな方向へと押しやりました。もしチャールズが、もう少し忍耐強く、議会との交渉を続けていれば、ベッドフォード伯のような穏健派の仲介によって、何らかの妥協が成立した可能性も、ゼロではありませんでした。しかし、国王は、自らの権威に対する挑戦と見なすや、対話の扉を自ら閉ざしてしまいました。この行為は、多くの人々に、国王が、法や伝統よりも、自らの意志を優先する、信頼できない専制君主であるという印象を、決定的に植え付けました。その結果、次に召集された長期議会では、国王に対する不信感が、当初から支配的な雰囲気となり、より過激な改革要求が、支持を得やすい土壌が生まれていました。