王政復古への動き
ピューリタン革命を経て、独裁政治を確立した
クロムウェルは、ピューリタリズムをもとにした厳格な政治を行いました。
娯楽のほとんどを禁止された民衆は、これに反感を持つようになります。
クロムウェルの独裁は6年間続き、彼の死後は、息子が護国卿を引き継ぎますが、能力がなく数ヶ月で解任されます。
このような状況で、一度議会から追放された
長老派が、ふたたび息を吹き返します。
彼らは、厳格な独裁政治に対する民衆の不満をよく知っていました。
そこで、王党派と再び妥協点を見出して、1660年、フランスに亡命していたチャールズ1世の息子、
チャールズ2世をイギリスの国王に即位させます。
(チャールズ2世)
こうして、短い共和制を経て、イギリスに再び王政がはじまります。これを
王政復古といいます。
チャールズ1世は、即位とともに、
ブレダ宣言を発します。
これは、革命に際して議会派に恩赦をあたえ、宗教の寛容化、革命中におこった土地所有権の移動を議会の決定に従うことなど、国王と議会の和解を進める内容でした。
チャールズ2世の専制政治
ブレダ宣言によって、議会に歩み寄りの姿勢を見せたチャールズ2世でしたが、父ゆずりの専制政治を目指してしまいます。
亡命していたフランスと
ドーバーの密約を結び、カトリックの復活を目指し、みずから絶対王政の復活を望むようになったのです。
このような国王の動きに対し、議会も対抗します。
1673年には、公職に就く資格をイギリス国教徒に限定する
審査法、1679年には不法逮捕・投獄を禁止する
人身保護法を制定します。
こうして、議会が活発に動き出すと、国王寄りの
トーリー党と、国王に批判的な
ホイッグ党という2つの党が形成されました。
トーリー党は地主が中心で、のちの保守党、ホイッグ党は商工業者中心でのちの自由党になります。労働党の源流ではありません。注意しましょう。
名誉革命
チャールズ2世の死後、弟の
ジェームズ2世が即位すると、彼はカトリックの復活を更に推し進めようとします。
(ジェームズ2世)
これに対し議会は、1688年国王を追放することを決定し、オランダにいたジェームズ2世の娘
メアリとその夫
オラニエ公ウィレムを共同統治者としてイギリス王位に就かせます。
このオラニエ公ウィレム(1650~1702)は、オランダ連邦共和国独立の際に初代総督になったウィレム1世(1533~1584)の曾孫です。別人ですので注意しましょう!
メアリは、
女王メアリ2世に、ウィレムは国王
ウィリアム3世となりました。
(メアリ2世)
(ウィリアム3世)
1689年、議会は両王に対し
権利の宣言を提出します。
これは、
立法や徴税、徴兵などの権限はすべて議会にあり、国王の任免権も議会が持つという内容でした。
両王は権利の宣言を承認し、これが法文化され、
権利の章典として発布されました。
権利の章典の発布は、議会が主権を握る
立憲君主制の確立とイギリスの絶対王政の終焉を意味していました。
ジェームズ2世の退位の一連の流れは、大きな戦闘がなく流血もなかったため
名誉革命と呼ばれ、さきのピューリタン革命とあわせて、
イギリス市民革命として歴史の大きな転換点となりました。