新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

護国卿とは わかりやすい世界史用語2709

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
護国卿とは

「護国卿」という称号は、イングランド、スコットランド、アイルランドの歴史において、国王が不在、あるいは統治不能な状態にある際に、国家の最高統治者として機能した人物に与えられた、特異で重要な地位を指します。この称号は、単なる摂政や摂政官とは一線を画し、特に17世紀半ばのイングランド内戦後の共和制時代、すなわち「空位期間」において、その最も顕著な形で歴史の舞台に登場しました。オリバー=クロムウェルとその息子リチャード=クロムウェルが就任したこの役職は、君主制と共和制の狭間で揺れ動いたイングランドの、政治的実験と苦悩を象徴する存在です。
護国卿の称号の起源は、中世イングランドの貴族政治にまで遡ることができます。国王が幼少であったり、精神的な疾患によって統治が不可能になったりした場合、王国の安定を維持するために、有力な王族や大貴族が「イングランドの護国卿および防衛者」として任命されることがありました。彼らは、国王の名の下に統治権を代行する、一時的な後見人としての役割を担いました。薔薇戦争の時代には、ヨーク公リチャードがこの地位に就き、ランカスター家とヨーク家の間の権力闘争の中心人物となった例が知られています。
しかし、この称号が歴史上最も大きな意味を持つのは、1653年から1659年にかけての「護国卿時代」です。清教徒革命とイングランド内戦を経て、国王チャールズ1世は処刑され、イングランドは君主制を廃止して「コモンウェルス」と呼ばれる共和国を宣言しました。しかし、国王なき後の統治は困難を極めました。長期議会の残部である「ランプ議会」は、その非効率性と自己利益の追求によって、軍と国民の信頼を失っていきました。この政治的混乱と権力の空白を収拾するため、ニューモデル軍の司令官として絶大な権力と名声を握っていたオリバー=クロムウェルが、新たな統治の形を模索する中で、護国卿として国家の頂点に立つことになります。
1653年に制定された成文憲法「統治章典」は、護国卿を終身の最高行政官と定め、彼に、議会の同意を得て法律を執行し、軍を指揮し、外交を行う広範な権限を与えました。これは、国王という存在を拒絶しながらも、強力な一人の指導者による安定した統治を求めるという、当時のイングランドが抱えた矛盾の現れでした。オリバー=クロムウェルは、護国卿として、独裁的とも言える権力を行使し、国内の秩序を回復させ、外交的にはイングランドの国際的地位を大いに高めました。彼の統治は、ピューリタンとしての厳格な道徳観に基づき、社会改革を推し進めようとする試みでもありました。
しかし、護国卿という地位そのものが、本質的に不安定なものでした。それは、伝統的な君主制でもなければ、完全な共和制でもない、妥協の産物でした。クロムウェルは、国王になることを拒否しましたが、その権力は国王に匹敵し、彼の死後は息子リチャードがその後を継いだことで、その地位は世襲的なものに見えました。この曖昧さが、共和主義者からも王党派からも、その正統性を問われる原因となりました。
リチャード=クロムウェルの短い統治が失敗に終わると、護国卿時代は終焉を迎え、イングランドは再び君主制へと回帰します。護国卿という称号は、イングランド史上、国王を戴かない統治がいかに困難であったか、そして、自由と秩序という二つの価値の間で、国家がいかに苦闘したかを示す、忘れがたい歴史の証人として、その名を留めているのです。



中世における起源

「護国卿」という称号が、オリバー=クロムウェルによって歴史の表舞台に華々しく登場する以前、そのルーツは中世イングランドの政治的慣習の中に深く根差していました。この時代の護国卿は、王権が正常に機能しない非常事態において、王国の安定と秩序を維持するために設置された、臨時の最高権力者でした。その役割は、国王が幼少であるか、あるいは心身の疾患によって統治不能に陥った際に、国王に代わって国政を担う後見人、すなわち摂政としての性格を強く帯びていました。
幼君の後見人として

中世の君主制において、国王の死後に継承者がまだ幼い場合、その統治は大きな課題となりました。幼い国王は、自ら国政を判断し、指導する能力を持ちません。このような権力の空白は、有力貴族間の派閥争いを激化させ、国家を内乱の危機に晒す可能性がありました。この危機を回避するため、王族の中でも血縁が近く、かつ有力な人物が「護国卿および王国の第一顧問官」といった称号の下、国王が成人するまでの間、統治を代行する制度が発展しました。
その初期の例として、13世紀のヘンリー3世の治世が挙げられます。父であるジョン王の死後、わずか9歳で即位したヘンリー3世の治世の初期、高潔な騎士として名高かった初代ペンブルック伯ウィリアム=マーシャルが、幼君の後見人として国政を取り仕切りました。彼は「我らが主君たる国王とその王国の統治者」と呼ばれ、事実上の護国卿として、フランスとの戦争を終結させ、マグナ=カルタを再確認するなど、王国の安定に大きく貢献しました。
より明確な形で「護国卿」の称号が用いられたのは、15世紀、ヘンリー6世の時代です。英雄的な父ヘンリー5世の急死により、生後9ヶ月でイングランドとフランスの王位を継承したヘンリー6世の治世において、国王の二人の叔父、ベッドフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーが、王国の統治を担いました。フランスでの戦争を指揮するベッドフォード公が不在の間、イングランド国内ではグロスター公ハンフリーが「イングランドの護国卿および防衛者」に任命されました。彼の役割は、国王の名において枢密院を主宰し、国政を監督することでしたが、その権限は、あくまで枢密院の助言と同意によって制限されていました。これは、一人の人物に権力が集中しすぎることを防ぐための、貴族たちによる牽制の仕組みでした。
薔薇戦争とヨーク公リチャード

護国卿の地位が、単なる後見人から、より政治的な権力闘争の焦点へと変貌を遂げたのが、15世紀後半の薔薇戦争の時代です。この時期、ランカスター朝の国王ヘンリー6世は、精神的な虚脱状態に陥り、統治能力を完全に喪失するという事態が度々発生しました。
1453年、百年戦争の最終的な敗北の報に衝撃を受けたヘンリー6世は、深刻な精神疾患に陥り、外部からの刺激に全く反応しない状態となりました。国王が統治不能となったことで、国政は麻痺し、権力の空白が生じます。この危機的状況を収拾するため、議会は、国王の従兄弟であり、王国内で最も有力な貴族であったヨーク公リチャードを、「イングランドの護国卿および第一顧問官」に任命しました。
ヨーク公リチャードは、この地位を利用して、敵対するランカスター派の有力者、特に王妃マーガレット=オブ=アンジューとその寵臣であったサマセット公を政権から排除し、自身の支持者で政府を固め、政治改革を試みました。しかし、彼の護国卿としての権力は、あくまで国王が回復するまでの一時的なものでした。1455年、ヘンリー6世が奇跡的に正気を取り戻すと、ヨーク公は護国卿の地位を解任され、サマセット公が復権します。権力の座から追われたヨーク公は、もはや武力に訴えるしか道はないと考え、ここにランカスター家とヨーク家の間の全面的な内戦、すなわち薔薇戦争が勃発しました。
ヨーク公リチャードは、その後も戦いに勝利するたびに、二度にわたって護国卿に再任されています。彼の目的は、当初は王位そのものを狙うというよりは、ヘンリー6世の下で、自身が王国の支配権を掌握することにありました。しかし、対立が深まる中で、彼は最終的に王位継承権を主張するに至ります。護国卿という地位は、彼にとって、王位へ至るための重要な足がかりとなったのです。
このように、中世における護国卿は、王権の機能不全を補うための、いわば「安全装置」として機能しましたが、同時に、野心的な有力者にとっては、国家の権力を掌握するための絶好の機会ともなり得ました。それは、国王の権威に依存しつつも、時にはその権威に挑戦しうる、両義的な性格を持つ地位だったのです。この歴史的背景が、後のクロムウェルによる護国卿という称号の採用に、ある種の正統性と歴史的な前例を与えることになりました。
護国卿時代の設立

17世紀半ばのイングランドは、内戦の嵐が吹き荒れ、国王が処刑され、伝統的な統治の枠組みが根底から覆されるという、前代未聞の政治的激動の時代でした。この混乱の中から、君主制でも共和制でもない、「護国卿時代」というユニークな政治体制が誕生します。その中心にいたのが、ニューモデル軍の司令官として絶大な権力を手にしたオリバー=クロムウェルでした。護国卿時代の設立は、安定した統治を求める現実的な要請と、革命の理想を追求しようとする軍の意志が複雑に絡み合った、必然的な帰結でした。
ランプ議会の解散

1649年にチャールズ1世が処刑され、イングランドが共和国(コモンウェルス)となると、国家の統治権は、長期議会の残部、通称「ランプ議会」の手に委ねられました。しかし、このランプ議会は、国民や軍の期待を裏切る存在となっていきます。
議員たちは、内戦を戦い抜いたニューモデル軍が掲げた、より広範な選挙権の拡大や法制度の改革といった、急進的な要求に対して、極めて消極的でした。彼らは、自らの権益を守ることに固執し、改革を遅らせ、議会の解散と新たな選挙の実施を先延ばしにし続けました。議会は、腐敗し、自己利益を追求する寡頭制の機関と見なされるようになり、その権威は失墜しました。
この状況に最も不満を抱いたのが、オリバー=クロムウェルと彼が率いるニューモデル軍の将校たちでした。彼らは、神の御名の下に血を流して戦い、国王を打ち破ったという自負を持っていました。彼らの目には、ランプ議会の姿は、革命の理想を裏切り、神の摂理に逆らうものと映りました。クロムウェルは、当初は議会との対話を通じて改革を実現しようと試みましたが、交渉はことごとく失敗に終わります。
ついに、クロムウェルの忍耐は限界に達しました。1653年4月20日、クロムウェルは、兵士たちを率いてウェストミンスターの議会に乗り込み、議員たちを激しい言葉で罵倒しました。「お前たちは、ここに座っているには長すぎた。出て行け、そして我々に、お前たちとの関わりを終わらせろ。主の名において、行け!」という彼の有名な言葉と共に、クロムウェルは武力によってランプ議会を強制的に解散させました。これは、軍によるクーデターであり、イングランドの政治は、新たな段階へと突入しました。
ベアボーンズ議会とその失敗

ランプ議会を解散させたクロムウェルと軍の幹部たちは、次なる統治の形を模索しました。彼らは、通常の選挙によらず、神を畏れ、道徳的に優れた人物を選んで、新たな議会を構成するという、ユニークな実験を試みます。軍の将校たちが、各地の独立派教会から推薦された候補者のリストを作成し、その中から約140人のメンバーが、クロムウェルによって指名されました。
この議会は、そのメンバーの一人であった、ロンドンの革商人「プレイズ=ゴッド=ベアボーン」の名にちなんで、後に「ベアボーンズ議会」あるいは「聖者議会」と嘲笑的に呼ばれることになります。この議会には、地主やジェントリだけでなく、より低い階層の急進的なピューリタンも多く含まれていました。
しかし、この「聖者」たちの集まりは、すぐに内部対立によって機能不全に陥りました。議会は、穏健派と、より急進的な第五王国派(キリストの千年王国が間近に迫っていると信じ、社会の抜本的な改革を求める派閥)とに分裂しました。急進派は、国家が徴収する十分の一税の廃止や、複雑なコモンローの法体系を聖書に基づいたシンプルなものに置き換えるといった、急進的な改革案を次々と提出しました。
これらの提案は、財産所有者であるジェントリ層の強い反発を招きました。彼らは、十分の一税の廃止が教会の財政基盤を破壊し、法制度の改革が財産権そのものを脅かすと考えました。クロムウェル自身も、議会の急進主義が、社会の秩序を破壊し、無政府状態を招くことを恐れるようになります。
結局、1653年12月、議会内の穏健派議員たちが、軍の将校たちと協力し、早朝に議会に集まって、自らの権力をクロムウェルに返還するという決議を強行採択しました。こうして、ベアボーンズ議会は、わずか5ヶ月で自ら解散するという形で、その短い歴史に幕を閉じました。
統治章典と護国卿の就任

ベアボーンズ議会の失敗は、クロムウェルと軍の指導者たちに、より安定し、かつ強力な行政権を持つ統治形態が必要であると確信させました。ランプ議会のような寡頭制でもなく、ベアボーンズ議会のような急進主義でもない、中庸の道が模索されました。
その結果、ジョン=ランバート少将ら軍の幹部によって起草されたのが、イングランド史上初となる成文憲法、「統治章典」です。この憲法は、国家の権力を、三つの機関に分担させることを定めました。
第一に、国家元首であり、終身の最高行政官である「護国卿」。
第二に、護国卿を補佐し、その権力をチェックするための、終身議員からなる「国務会議」。
第三に、立法権を担い定期的に選挙される「議会」。
この統治章典に基づき、1653年12月16日、オリバー=クロムウェルは、ウェストミンスター=ホールで行われた荘厳な式典において、初代護国卿に就任しました。彼は、紫のベルベットのローブをまとい、聖書と剣を手に、国家の法を守り、国民の平和と福祉のために統治することを誓いました。
こうして、護国卿時代が正式に始まりました。それは、国王という存在を否定しながらも、事実上の君主ともいえる強力な一人の指導者を戴くという、矛盾をはらんだ体制でした。それは、革命の理想と、秩序の維持という現実的な必要性との間の、困難な妥協の産物であり、その後のイングランドの運命は、護国卿クロムウェルの双肩にかかることになったのです。
オリバー=クロムウェルの統治

初代護国卿に就任したオリバー=クロムウェルは、1653年からその死に至る1658年まで、イングランド、スコットランド、アイルランドを統治しました。彼の統治は、内戦で荒廃した国家に秩序と安定をもたらし、対外的にはイングランドの威信を大いに高めた一方で、その独裁的な手法とピューリタン的な厳格さは、多くの人々の反発を招きました。彼の時代は、強力なリーダーシップによる成果と、軍事政権としての限界が同居する、光と影の時代でした。
国内政策と軍政監

護国卿としてのクロムウェルの最大の課題は、国内の安定を確立し、異なる政治的・宗教的勢力を和解させることでした。しかし、彼の統治は、当初から困難に直面しました。
1654年に召集された第一回護国卿議会は、統治章典そのものの正統性を問い、護国卿の権限を制限しようと試みました。議員たちは、軍の将校によって作られた憲法に従うことを拒否し、議会の主権を主張しました。議論は空転し、クロムウェルは、わずか5ヶ月で議会を解散せざるを得ませんでした。
国内では、王党派による陰謀や反乱の企てが絶えませんでした。1655年には、「ペンラドックの蜂起」として知られる王党派の反乱が発生します。この反乱は、容易に鎮圧されましたが、クロムウェルに、国内の治安維持のためには、より強硬な手段が必要であると確信させました。
その結果、導入されたのが、「軍政監」の制度です。クロムウェルは、イングランドとウェールズを11の軍管区に分割し、それぞれの地区に、腹心の少将(メジャー=ジェネラル)を軍政監として派遣しました。彼らには、地方の民兵を指揮し、治安を維持し、税金を徴収し、そして何よりも、国民の道徳を監督するという、広範な権限が与えられました。
軍政監たちは、ピューリタン的な道徳観に基づき、賭博、飲酒、演劇、闘鶏といった、彼らが「不道徳」と見なす娯楽を厳しく取り締まりました。彼らの統治は、中央政府による直接的な軍事支配であり、地方の伝統的な自治を侵害するものでした。この「剣による支配」は、極めて不評であり、多くの人々から、自由を抑圧する圧政と見なされました。結局、この制度は、あまりの不人気のために、1657年には廃止されることになります。
外交政策と国際的地位の向上

国内統治に苦慮した一方で、クロムウェルの外交政策は、目覚ましい成功を収めました。彼は、強力な陸海軍を背景に、ヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の擁護者として、イングランドの国際的地位を飛躍的に向上させました。
彼の指導の下、イングランド海軍は、第一次英蘭戦争(1652–1654)で、商業的なライバルであったオランダに勝利を収めました。これにより、航海法が承認され、イングランドの海上貿易の基盤が強化されました。
さらに、クロムウェルは、ヨーロッパの二大カトリック大国であったフランスとスペインの対立を巧みに利用しました。彼は、当初、反カトリックという観点から、両国を敵視していましたが、最終的には、より大きな脅威であると見なしたスペインと敵対し、フランスと同盟を結ぶことを選択します。
1655年、クロムウェルは、「西方計画」と呼ばれる、スペイン領西インド諸島への遠征を敢行しました。この遠征の主目的であったイスパニョーラ島の占領には失敗しましたが、イングランド軍は、代わりにジャマイカ島を占領することに成功しました。ジャマイカは、その後、イギリスのカリブ海における最も重要な砂糖植民地の一つとして、莫大な富を生み出すことになります。
ヨーロッパでは、イングランドはフランスと協力し、スペイン領ネーデルラント(現在のベルギー)で戦いました。1658年の「砂丘の戦い」で、英仏連合軍はスペイン軍に決定的な勝利を収め、その結果、イングランドは、ヨーロッパ大陸における重要な港湾都市ダンケルクを獲得しました。これは、百年戦争でカレーを失って以来、イングランドが大陸に領土を確保した、画期的な出来事でした。
クロムウェルの積極的な外交政策により、イングランドは、ヨーロッパの主要な軍事大国として、各国から畏敬される存在となりました。
国王就任問題と謙虚な請願と勧告

軍政監制度の失敗は、クロムウェルと彼の支持者たちに、軍事力に依存した統治の限界を痛感させました。より安定的で、伝統的な法の支配に基づいた統治体制への回帰を求める声が高まります。
1657年に召集された第二回護国卿議会は、新たな憲法案として、「謙虚な請願と勧告」をクロムウェルに提出しました。この憲法案の最も重要な点は、クロムウェルに「国王」の称号を受け入れるよう要請したことでした。
多くの議員たちは、護国卿という称号が、軍の力に由来する新奇なものであり、法的な正統性に欠けると考えていました。彼らは、国王という、古くから法によってその権限が定められている称号をクロムウェルが受け入れることで、統治がより安定し、伝統的な議会制との調和が図れると期待したのです。また、世襲君主制を復活させることで、クロムウェルの死後の後継者問題も解決できると考えられました。
クロムウェル自身、この提案に大いに悩み、数週間にわたって熟考しました。国王になることは、彼に、より大きな正統性と安定をもたらす可能性がありました。しかし、彼は、最終的に国王の称号を拒絶します。
その最大の理由は、ニューモデル軍の高級将校たちの、強硬な反対でした。ランバートやフリートウッドといった、彼の最も忠実な部下たちは、熱心な共和主義者であり、彼らにとって、国王を戴くことは、内戦で血を流して戦った目的そのものを否定する、裏切り行為に他なりませんでした。彼らは、クロムウェルが王冠を受け入れるならば、彼を見限るだろうと警告しました。
長年の戦友たちの支持を失うことを恐れたクロムウェルは、神の摂理が、君主制を打ち壊したのだと述べ、国王になることを辞退しました。
しかし、彼は、「謙虚な請願と勧告」の他の部分は受け入れました。これにより、彼は、終身の護国卿として留まり、自らの後継者を指名する権利を得ました。また、国王に代わる上院として、「第二院」が創設されました。これは、事実上、君主制に極めて近い体制への移行であり、護国卿時代が、その共和主義的な理想から、ますます遠ざかっていることを示すものでした。
リチャード=クロムウェルの統治と体制の崩壊

オリバー=クロムウェルの死は、護国卿時代という、彼一人の強力な個性と権威によって支えられていた体制の、終わりの始まりを告げました。彼の後を継いだ息子リチャードは、父が持ち合わせていた政治的洞察力も、軍を掌握する力も欠いていました。彼の短い統治は、護国卿という地位の固有の脆弱性を露呈させ、イングランドは再び政治的混乱の渦に巻き込まれ、最終的には王政復古へと至る道を突き進むことになります。
リチャード=クロムウェルの継承

1658年9月3日、オリバー=クロムウェルは、マラリアと悲しみのうちにこの世を去りました。彼は、死の床で、自らの後継者として、長男のリチャードを指名したと言われています。オリバーの荘厳な国葬は、まるで国王の葬儀のように執り行われ、リチャードは、大きな混乱もなく、第二代護国卿として、その地位を継承しました。
リチャード=クロムウェルは、父オリバーとは全く異なるタイプの人間でした。彼は、軍人としての経験がなく、内戦にもほとんど関わっていませんでした。彼は、田舎のジェントルマンとして、穏やかで争いを好まない生活を送ってきた人物であり、政治的な野心も、権力への渇望も持っていませんでした。彼の温厚な性格は、一部の人々からは好意的に受け止められ、「おとなしいディック」というあだ名で呼ばれました。
当初、リチャードの統治は、順調に滑り出したかに見えました。彼は、父の時代の軍事的な厳格さを和らげ、より民政に近い統治を目指しました。1659年1月には、新たな議会が召集され、多くの共和主義者や長老派の議員が議席を回復しました。
軍と議会の対立

しかし、リチャードの穏健な姿勢と政治経験の欠如は、すぐに二つの強力な勢力、すなわち軍と議会の間の対立を再燃させることになります。
第一に、軍の高級将校たちは、文民であるリチャードが、自分たちの最高司令官であることに、強い不満を抱いていました。チャールズ=フリートウッド(リチャードの義兄)やジョン=ランバートといった将軍たちは、自分たちこそが共和国の真の守護者であると自負しており、護国卿の権威よりも、軍の利益と理想を優先しようとしました。彼らは、リチャードの支配下から軍を独立させ、独自の政治的要求を掲げるようになります。
第二に、議会内の熱心な共和主義者たちは、護国卿という、君主制に近い制度そのものに、根本的な敵意を抱いていました。彼らは、リチャードの権限を削ぎ、軍を議会の完全な統制下に置こうと画策しました。彼らは、軍が国家の政治に介入することを、市民の自由に対する最大の脅威と見なしていたのです。
リチャードは、この軍と議会という、二つの強力な勢力の間で板挟みとなり、有効なリーダーシップを発揮することができませんでした。彼は、議会と協力して軍を抑えようと試みましたが、それは、軍の将校たちの怒りを買う結果となりました。
護国卿時代の終焉と王政復古

1659年4月、対立は頂点に達しました。軍の将校たちは、リチャードに対し、議会を解散するよう、最後通牒を突きつけました。自らの権力の基盤である軍に見捨てられたリチャードには、もはや抵抗する力はありませんでした。彼は、軍の要求を受け入れ、議会を解散させました。これは、事実上、彼が軍の傀儡となったことを意味しました。
議会を解散させた軍は、次なる統治の形として、1653年にクロムウェルによって解散させられた、あの「ランプ議会」を復活させるという奇策に打って出ました。彼らは、ランプ議会が、共和国の正統な権威の象徴であると考えたのです。
権力の座から完全に排除されたリチャード=クロムウェルは、もはや護国卿としての役割を果たすことができなくなりました。1659年5月25日、彼は、正式に護国卿の職を辞任しました。彼の統治は、わずか8ヶ月あまりで、静かに幕を閉じました。
しかし、復活したランプ議会と軍との関係も、すぐに悪化しました。両者は、国家の主権と軍の統制を巡って、再び対立を始めます。イングランドは、権力の中枢が定まらない、無政府状態へと陥っていきました。
この混乱と不安定に、国民の大多数は疲れ果てていました。彼らは、終わりのない政治的実験よりも、伝統的な君主制の下での平和と秩序を渇望するようになっていました。
この状況を収拾したのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ=モンク将軍です。彼は、軍を率いてロンドンへと進軍し、政治の主導権を握りました。彼は、追放されていた長期議会の議員を呼び戻し、新たな選挙の実施を宣言します。1660年4月に開かれた新しい議会(仮議会)は、その構成員のほとんどが王党派であり、満場一致で、亡命中のチャールズ2世を国王として招聘することを決議しました。
1660年5月29日、チャールズ2世はロンドンに帰還し、熱狂的な歓迎の中で、王位に就きました。ここに、イングランドの共和制と護国卿時代は完全に終わりを告げ、王政が復古したのです。護国卿という称号は、イングランドの歴史から姿を消し、国王なき統治の困難さと、革命の理想が現実の前にいかに脆いものであったかを物語る、歴史的な記憶として残されることになりました。
Tunagari_title
・護国卿とは わかりやすい世界史用語2709

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 130 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。