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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

名誉革命とは わかりやすい世界史用語2717

著者名: ピアソラ
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名誉革命とは

名誉革命は、1688年から1689年にかけてイングランドで起こった一連の政変を指し、国王ジェームズ2世の追放と、彼の娘メアリー2世と夫のオランダ総督ウィレム3世(ウィリアム3世)の共同統治への移行をもたらしました。しばしば「無血革命」とも呼ばれますが、その背景にはイングランド社会の深い亀裂と、ヨーロッパ全土を巻き込む複雑な政治的・宗教的対立が存在していました。この革命は、単なる国王の交代劇にとどまらず、イギリスの政治体制を根本から変え、立憲君主制と議会主権への道を決定づけた、歴史の大きな転換点でした。



ジェームズ2世の治世

名誉革命の直接的な原因は、1685年に即位したジェームズ2世の統治にありました。彼はイングランド史上、宗教改革以降で初めて公然とカトリックを信仰する君主でした。彼の兄であるチャールズ2世の治世末期には、彼のカトリック信仰を理由に王位継承から排除しようとする「王位継承排除危機」が起こるなど、彼の即位に対するプロテスタント国民の不安は根深いものがありました。
即位当初、ジェームズ2世は国民の権利とイングランド国教会の地位を守ることを約束し、多くの国民はひとまず彼を受け入れました。しかし、その約束はすぐに破られることになります。彼の行動の根底には、二つの確固たる信念がありました。一つは、国王の権力は神から与えられたものであり、議会や法律によって制限されるべきではないという「王権神授説」への強い信奉。もう一つは、カトリックこそが唯一真の信仰であり、イングランドをカトリックの国に戻すことが自らの使命であるという、熱烈な宗教的情熱でした。
彼はまず、モンマス公の反乱(1685年)を鎮圧した後も、平時としては異例の規模の常備軍を維持し、国民に恐怖と警戒心を抱かせました。さらに、カトリック教徒が公職に就くことを禁じた「審査法」を無視するため、国王が持つ「法律の適用免除権」と「法律の停止権」という特権を濫用し始めます。彼は、これらの国王大権を用いて、軍の士官や政府の要職、さらには大学の要職にまで、次々とカトリック教徒を任命していきました。
この政策は、イングランドの支配階級の根幹を揺るがしました。特に、伝統的に王権の最も忠実な支持者であったトーリ党とイングランド国教会は、深刻なジレンマに陥ります。彼らは国王への忠誠を誓っていましたが、その国王自身が、彼らが守るべき国教会の特権的地位とプロテスタント国家の体制を破壊しようとしていたのです。ジェームズ2世は、自らの政策に反対する者を容赦なく排除し、法や伝統を踏みにじることも厭わないその姿勢によって、かつての味方さえも敵に変えていきました。
危機の発火点

1687年、ジェームズ2世は「信仰自由宣言」を発布します。これは、国王大権によって審査法などの宗教的差別法を停止し、カトリック教徒やプロテスタント非国教徒に完全な信教の自由と公職就任権を与えるものでした。一見すると寛容な政策に見えますが、その真の狙いは、非国教徒を味方につけて国教会を孤立させ、最終的にカトリックを復興させるための布石であることは明らかでした。多くの非国教徒もこの策略を見抜き、ジェームズへの協力を拒否します。
そして1688年、事態は決定的な局面を迎えます。ジェームズは信仰自由宣言を再発布し、全国の国教会の説教壇で読み上げるよう命じました。これは聖職者たちにとって、自らの良心と教会の教えに反する行為を強制されるに等しいものでした。カンタベリー大主教を含む7人の主教が、この命令には従えないとする請願書を提出すると、ジェームズは彼らを逮捕し、扇動罪で裁判にかけました。しかし、陪審は主教たちに無罪の評決を下し、ロンドン中が歓喜に沸きました。これは、国民がジェームズの専制に対して公然と「否」を突きつけた瞬間でした。
この「七主教事件」と時を同じくして、もう一つの重大な出来事が起こります。1688年6月10日、ジェームズ2世の妃メアリー=オブ=モデナが男子を出産したのです。それまで、多くのプロテスタントは、ジェームズの治世は一代限りで、彼の死後はプロテスタントの長女メアリー(オランダ総督ウィレム3世の妻)が王位を継ぐと信じて耐えていました。しかし、カトリックの王子の誕生は、イングランドにカトリック王朝が永続する悪夢を現実のものとしました。この二つの出来事が、イングランドの有力者たちに、もはや国内の手段だけでは解決できないという認識を抱かせ、最後の手段に訴える決意を固めさせたのです。
革命の展開

ジェームズ2世の専制とカトリック王朝確立の恐れが頂点に達したとき、イングランドの政治指導者たちは、国外の力に助けを求めるという、前代未聞の行動を選択しました。彼らの視線は、海を隔てたオランダに向けられていました。そこにいたのは、ジェームズ2世の甥であり娘婿でもある、オランダ総督ウィレム3世、すなわちオレンジ公ウィリアムでした。彼の軍事介入が、革命の幕を開けることになります。
ウィリアムの招聘

1688年6月30日、七主教に無罪評決が下されたその日、7人のイングランド貴族が、ウィリアム3世に宛てた一通の秘密の書簡に署名しました。後に「不滅の7人」と呼ばれる彼らは、ホイッグ党とトーリ党の双方の有力者から成り、党派を超えて反ジェームズで結束していることを示していました。書簡の内容は、ウィリアムに対し、イングランド国民の宗教、自由、財産を守るために、軍を率いてイングランドへ渡るよう懇願するものでした。彼らは、ウィリアムが上陸すれば、国民の大多数が彼を支持するだろうと約束しました。
ウィリアムにとって、この招聘は渡りに船でした。彼は、当時ヨーロッパで覇権を拡大しつつあったフランスのルイ14世に対抗するための大同盟(アウクスブルク同盟)の形成に心血を注いでいました。カトリックのジェームズ2世が統治するイングランドは、ルイ14世の潜在的な同盟国であり、ウィリアムにとって大きな脅威でした。もしイングランドを反フランス陣営に取り込むことができれば、対フランス包囲網は格段に強化されます。妻メアリーの王位継承権を守るという大義名分もあり、ウィリアムはこのイングランドへの遠征を決意しました。
彼は周到な準備を進めました。大規模な艦隊と陸軍を編成し、「我は擁護する、プロテスタントの宗教と議会の自由を」というスローガンを掲げた宣言文をイングランド各地で配布させ、自らの介入が侵略ではなく、イングランド国民の自由を回復するためのものであることをアピールしました。
無血の進軍

1688年11月5日、ウィリアムは1万5千人以上の兵士を乗せた大艦隊を率いて、イングランド南西部のトーベイに上陸しました。この日は、1605年にカトリック教徒による国会議事堂爆破未遂事件(火薬陰謀事件)が防がれた記念日であり、プロテスタントのイングランド国民にとって象徴的な意味を持つ日でした。
ジェームズ2世は、自らが保有する、数で勝る国王軍に自信を持っていました。彼は軍を率いてウィリアムを迎え撃つためにソールズベリーへと向かいます。しかし、彼の期待は裏切られました。ウィリアムの上陸後、各地の貴族やジェントリが次々とウィリアム支持を表明し、ジェームズの軍からも脱走者が相次ぎました。決定打となったのは、ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)のような有能な指揮官や、ジェームズが最も愛した次女アンまでもがウィリアムの陣営に走ったことでした。
腹心や家族にまで見捨てられたジェームズは、完全に戦意を喪失し、抵抗することなくロンドンへ退却します。彼はパニックに陥り、国璽をテムズ川に投げ捨て、フランスへの亡命を図りました。一度は捕らえられたものの、ウィリアムは彼を殉教者にしたくなかったため、意図的に逃亡を黙認しました。1688年12月23日、ジェームズ2世はフランスへ亡命し、二度とイングランドの地を踏むことはありませんでした。
国王が自ら国を放棄し、大規模な内戦や市街戦が回避されたため、この政変は「無血革命」と呼ばれることになります。しかし、アイルランドやスコットランドでは、その後もジェームズを支持するジャコバイトとの間で激しい戦闘が繰り広げられ、多くの血が流れたことを忘れてはなりません。イングランドにおける無血の体制転換は、むしろ例外的な出来事だったのです。
革命の帰結

ジェームズ2世の亡命によって、イングランドの王位は空席となりました。しかし、それは新たな問題を提起しました。誰が、そしてどのような権限を持って、次の統治者となるのか。この問いに対する答えを模索する過程で、イングランドの政治家たちは、国の統治のあり方そのものを再定義する、歴史的な解決策を生み出しました。それが「革命的和解」と呼ばれる一連の取り決めです。
権利の章典

1689年1月、ウィリアムの呼びかけで「仮議会」が召集されました。これは正式な国王の召集令状なしに開かれたため、変則的な議会でした。この議会での最大の議題は、王位の行方と、将来の専制を防ぐための憲法上の保障を確立することでした。
議会内では様々な意見が対立しました。一部のトーリ党員は、ジェームズは依然として正統な王であり、ウィリアムは摂政として統治すべきだと主張しました。一方、急進的なホイッグ党員は、ジェームズの悪政によって王と国民の間の「契約」が破られたため、議会が新たな国王を選出する権利を持つと主張しました。
長い議論の末、議会は一つの妥協案にたどり着きます。それは、ジェームズ2世が国を「放棄」したことで王位は「空位」になったと宣言し、ウィリアムとメアリーを共同統治者として王位に迎えるというものでした。ただし、統治の実際上の権限はウィリアムが持つこととされました。
そして、彼らが王位に就く条件として、議会は「権利の宣言」として知られる文書を起草し、ウィリアムとメアリーに承認を求めました。この宣言は、ジェームズ2世が行ったような、国王による法の停止や免除、議会の承認なき課税や常備軍の維持といった行為を違法であると断罪し、国民が享受すべき様々な権利(請願権、自由な選挙、議会での言論の自由など)を列挙したものでした。
1689年2月13日、ウィリアムとメアリーはこの宣言を受け入れ、正式に国王ウィリアム3世と女王メアリー2世として即位しました。同年12月、この「権利の宣言」は、若干の修正を加えられた上で、正式な法律「権利の章典」として制定されます。これは、国王の権力が法の下にあり、議会の制定した法によって制限されるという「法の支配」と「議会主権」の原則を確立した、イギリス憲法史における金字塔となりました。王はもはや法を超越した存在ではなく、法に従う存在となったのです。
寛容法とその他の改革

革命的和解は、権利の章典だけではありませんでした。宗教問題に関しても、重要な進展がありました。1689年に制定された「寛容法」は、イングランド国教会の礼拝に出席しないプロテスタント非国教徒(ディセンター)に対して、一定の条件下で自らの礼拝を持つことを認め、迫害を終わらせました。
この「寛容」は、完全な信教の自由ではありませんでした。カトリック教徒や非三位一体派は除外され、非国教徒が公職に就くことを妨げる審査法も依然として有効でした。しかし、国家が個人の信仰に介入し、一つの教義を強制する時代が終わりを告げ、宗教的な多元性が公に認められたという点で、画期的な一歩でした。
さらに、革命後の時代には、イギリスの政治と社会を近代化する一連の改革が行われました。1694年にはイングランド銀行が設立され、国債システムが整備されたことで、政府は安定した財源を確保し、大規模な戦争を遂行できるようになりました。これは「財政革命」と呼ばれ、イギリスが世界的な大国へと飛躍する経済的基盤を築きました。また、1695年には出版の許可制が廃止され、言論と出版の自由が大きく前進しました。これにより、活発な政治討論が新聞やパンフレットを通じて行われるようになり、近代的な世論が形成される土壌が育まれました。
革命の遺産

名誉革命は、17世紀を通じて続いたイングランドにおける国王と議会の間の闘争に、終止符を打ちました。それは、王権神授説に基づく絶対君主制の試みを永久に葬り去り、国王・貴族院・庶民院が均衡を保つ「混合政体」としての立憲君主制を確立しました。この革命によって打ち立てられた原則は、その後のイギリスの政治的安定と経済的繁栄の礎となり、さらには海を越えて、アメリカ独立革命やフランス革命、そして世界各国の憲法思想にまで、計り知れない影響を与えることになります。
立憲君主制の確立

名誉革命がもたらした最も重要な遺産は、国王の権力が法と議会によって制限されるという「立憲君主制」の原則を確立したことです。権利の章典によって、国王はもはや議会の承認なしに法律を停止したり、税金を取り立てたり、軍隊を維持したりすることはできなくなりました。王位継承さえも、1701年の「王位継承法」によって議会が定めるところとなり、カトリック教徒が王位に就くことは永久に禁じられました。
これにより、政治の重心は国王から議会へと大きく移行しました。国王は依然として国家元首であり、大臣の任命などの重要な権限を持っていましたが、その権力行使は、議会の信任と協力なしには不可能になりました。特に、政府の予算は毎年議会の承認を得なければならなくなったため、議会は国王と政府をコントロールする強力な手段を手に入れたのです。この議会主権の原則は、その後の責任内閣制の発展へとつながっていきます。
思想的影響

名誉革命は、政治思想の歴史においても大きな足跡を残しました。特に、哲学者ジョン=ロックの思想は、名誉革命を理論的に正当化し、その理念を体系化したものとして広く受け入れられました。
ロックは、その著書『統治二論』(1689年)の中で、政府の権力は統治される者の同意に基づくものであり、政府は人民の生命、自由、財産といった自然権を守るために存在すると主張しました。そして、もし政府がこの信託に反し、人民の権利を侵害する暴政と化したならば、人民はそれに抵抗し、新たな政府を樹立する権利を持つと論じました。これは「革命権」の思想であり、ジェームズ2世を追放し、ウィリアムとメアリーを王位に迎えた名誉革命の行為を、まさに正当化するものでした。
ロックの思想は、名誉革命が単なる権力闘争ではなく、圧政に対する人民の正当な抵抗であったという解釈を広め、その後の自由主義、民主主義の思想に絶大な影響を与えました。特に、18世紀のアメリカの植民地では、ロックの思想は深く浸透し、アメリカ独立宣言における「生命、自由、幸福の追求」という有名な一節に、その直接的な影響を見ることができます。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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