人身保護法への道
1679年に制定された人身保護法は、しばしばアングロ=サクソン世界の自由の礎石の一つとして称賛されます。この法律は、国家権力による恣意的な逮捕や拘禁から個人の身体の自由を守るための、強力な法的武器となりました。しかし、この画期的な法律が生まれた背景には、イングランド史の奥深くに根差した、国王の権力と臣民の権利をめぐる長く、そしてしばしば血なまぐさい闘争の歴史がありました。1679年の法律は、その闘争の一つの頂点であり、その意味を完全に理解するためには、まず「人身保護令状」そのものの起源と、ステュアート朝の国王たちがいかにしてそれを無力化しようとしたかという、前史をたどる必要があります。
人身保護令状の起源
「人身保護」という言葉は、ラテン語で「汝、身体を有せよ」を意味します。これは、中世イングランドの法廷で用いられた、様々な令状の冒頭句に由来します。その最も重要な形式である「服従させるために身体を差し出すべし」は、国王の裁判所が、ある人物を拘禁している者(通常は国王の役人や地方の領主)に対して、その被拘禁者の身体を法廷に連れてくること、および、その拘禁の理由と日時を明記した答弁書を提出することを命じる、国王の名において発せられる命令書でした。 この令状の当初の目的は、個人の自由を守ることよりも、むしろ国王の権威を地方の権力者に対して及ぼすことにありました。国王の裁判所は、この令状を用いることで、下級裁判所や地方領主の管轄下にある訴訟や人物を、自らの管理下に移すことができました。それは、国王の司法権が王国全土に行き渡っていることを示す、中央集権化の道具だったのです。 しかし、14世紀頃から、この令状は次第にその性格を変え始めます。臣民が、国王の名において、国王自身の役人による不当な拘禁に対して異議を申し立てるための手段として、この令状を使い始めたのです。国王の権威の象徴であった令状が、皮肉にも国王自身の権力に対する盾として転用され始めた瞬間でした。法廷は、令状に基づいて被拘禁者を召喚し、その拘禁が正当な法的根拠に基づいているかを審査しました。もし、正当な理由が示されなければ、裁判所は被拘禁者を釈放するか、あるいは保釈を認めることができました。 この「自由のための偉大な令状」の重要性を決定的に確立したのが、1215年のマグナ=カルタです。その第39条は、「いかなる自由人も、同輩による法に適った裁判、または国法によるのでなければ、逮捕、監禁、財産の没収、法益の剥奪、追放、その他いかなる方法によってもその地位を奪われることはない」と宣言しました。この条文は、国王でさえも法の下にあり、恣意的に臣民の自由を奪うことはできないという、法の支配の原則を打ち立てました。人身保護令状は、このマグナ=カルタの理念を、現実の法廷で実現するための、具体的な手続き的保障と見なされるようになったのです。
ステュアート朝の挑戦と権利の請願
17世紀に入り、ジェームズ1世とチャールズ1世というステュアート朝の国王たちが即位すると、この古くからの臣民の権利は、王権神授説に基づく国王の絶対主義的な野心と正面から衝突することになります。 チャールズ1世は、議会の同意を得ずに強制公債などの課税を行い、それに従わない者を次々と投獄しました。1627年の「五人の騎士事件」は、この対立を象徴する出来事です。強制公債の支払いを拒否した5人の騎士が逮捕され、人身保護令状を請求しました。しかし、国王の枢密院は、彼らが「国王陛下の特別の命令により」拘禁されているとだけ主張し、具体的な罪状を示すことを拒否しました。王座裁判所の裁判官たちは、国王の命令の背後にある理由を詮索することを躊躇し、結局、騎士たちの釈放も保釈も認めませんでした。 この判決は、議会と法曹界に衝撃を与えました。もし国王が、理由を示すことなく臣民を無期限に拘禁できるのであれば、マグナ=カルタ以来のイングランドの自由は完全に失われてしまいます。人身保護令状は、国王の「特別の命令」という一言の前には無力であるということになってしまうからです。 この危機感から、議会は1628年、エドワード=コーク卿らの指導の下、「権利の請願」を起草し、チャールズ1世に承認を迫りました。この請願は、議会の同意なき課税の禁止などとともに、「いかなる自由人も、何らかの理由が示されない限り、逮捕または拘禁されてはならない」こと、および人身保護令状が発せられた場合には、速やかに被拘禁者を法廷に出頭させ、法の裁きを受けさせなければならないことを、改めて確認するものでした。チャールズ1世は、戦費を得るために不承不承この請願を承認しましたが、その後も彼は法の精神を踏みにじり続け、やがてイングランドは内戦へと突入していくことになります。
王政復古と新たな濫用
1660年の王政復古によってチャールズ2世が即位すると、イングランドの伝統的な法と秩序が回復されたかに見えました。しかし、国王の権力と個人の自由をめぐる緊張関係が消え去ったわけではありませんでした。チャールズ2世とその大臣たち、特にクラレンドン伯やダンビー伯といった実力者たちは、政敵を排除し、自らの権力を維持するために、司法手続きを巧みに濫用する新たな手口を編み出していきました。 人身保護令状という制度は存在していましたが、それには多くの抜け穴や弱点がありました。国王側は、これらの弱点を徹底的につくことで、令状を事実上、骨抜きにしようとしたのです。 第一に、裁判官への圧力です。当時の裁判官は、国王によって任命され、国王の意のままに罷免される可能性がありました。そのため、多くの裁判官は、国王やその大臣の意向に逆らうことを恐れ、政治的に微妙な事件において、人身保護令状の発行を躊躇したり、遅らせたりしました。特に、議会が閉会している期間中は、裁判官が令状の発行を権限があるかどうかについて法的な曖昧さがあり、これを口実に発行が拒否されることが頻繁にありました。 第二に、拘禁場所の移転です。国王の役人は、人身保護令状が特定の監獄の長官宛てに発せられると、その令状が執行される直前に、囚人を別の監獄へと次々に移送しました。令状は特定の場所と特定の拘禁者を対象とするため、囚人が移動してしまうと、その令状は無効となり、弁護士はまた一から新しい令状を請求し直さなければなりませんでした。この「たらい回し」によって、囚人は法廷にたどり着くことなく、長期間にわたって拘禁され続けることになりました。 第三に、海外領土への移送です。これが最も悪質な手口でした。国王側は、政敵をイングランドの司法権が及ばない、あるいは及びにくい海外の植民地、例えばジャージー島、ガーンジー島、あるいは遠くタンジールなどに移送しました。イングランドの裁判所が発する人身保護令状は、これらの地域では効力を持たず、囚人は法的な救済手段を完全に絶たれたまま、異国の地で忘れ去られるのを待つしかありませんでした。 第四に、法外な保釈金の設定です。たとえ幸運にも法廷にたどり端、保釈が認められたとしても、裁判官が非現実的なほど高額な保釈金を設定することがありました。囚人がその金額を支払うことができなければ、保釈は絵に描いた餅となり、結局は拘禁され続けることになったのです。 これらの濫用は、特に1670年代後半、イングランドが「カトリック陰謀事件」とそれに続く「王位継承排除危機」という激しい政治的対立の渦中にあった時期に、頂点に達しました。カトリック教徒のヨーク公ジェームズを王位継承から排除しようとするシャフツベリ伯率いるホイッグ党と、国王の権威と正統な継承権を擁護するトーリー党が、互いに相手を投獄し、政治的に抹殺しようと画策しました。 このような状況下で、多くの人々が、明確な罪状も示されないまま、あるいは政治的な意図で捏造された容疑で投獄され、長期間にわたる不当な拘禁に苦しみました。特に、ホイッグ党の支持者であったフランシス=ジェンクスというロンドンの商人が、スピーチを理由に逮捕され、令状請求を拒否され続けた事件は、世論の怒りに火をつけました。 古くから存在する人身保護令状という「自由の砦」が、国王側の巧妙な策略によって、いとも簡単に無力化されてしまうという現実。この現実に対する危機感と怒りが、議会、特にホイッグ党が多数を占める庶民院をして、これらの抜け穴を永久に塞ぎ、人身保護の権利を揺るぎない成文法として確立するための、新たな立法へと駆り立てたのです。1679年の人身保護法は、まさにこの激しい政治闘争のさなかに、個人の自由を守るための防波堤として築かれようとしていたのでした。
人身保護法の制定過程
1679年の人身保護法の成立は、イングランド憲政史におけるホイッグ党の最も輝かしい成果の一つとされています。しかし、その成立に至る道のりは、国王チャールズ2世の巧みな妨害と、党派間の激しい対立に満ちた、困難なものでした。この法律は、イングランドが「王位継承排除危機」という、内戦一歩手前の深刻な政治的混乱に陥っていた、まさにその渦中で誕生したのです。 人身保護令状の濫用を是正し、その実効性を確保するための立法を求める声は、1660年代後半から議会内で度々上がっていました。1670年代を通じて、庶民院は何度も同様の法案を可決しましたが、その都度、貴族院での反対や、国王による議会の停会・解散といった妨害工作によって、成立を阻まれていました。国王とその支持者たちにとって、人身保護令状の抜け穴は、政敵を無力化するための都合の良い道具であり、それを自ら手放すことなど考えられなかったのです。 状況が大きく動いたのは、1678年に「カトリック陰謀事件」が勃発してからのことでした。この捏造された陰謀事件は、イングランド全土を反カトリックのヒステリーに陥れ、国王の弟でありカトリック教徒であるヨーク公ジェームズへの敵意を煽り立てました。この機を捉えたシャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーは、ジェームズを王位継承から排除する「王位継承排除法案」を掲げ、ホイッグ党を結成して議会の主導権を握ります。 1679年3月に召集された議会は、ホイッグ党が圧倒的多数を占めており、「排除議会」と呼ばれました。この議会の最優先課題は王位継承排除法案を可決することでしたが、同時に、彼らは長年の懸案であった人身保護法の制定にも、並々ならぬ意欲を見せました。カトリック陰謀の容疑で多くの人々が投獄され、また政府による報復的な逮捕が横行する中で、恣意的な拘禁から臣民の自由を守ることは、喫緊の課題となっていたのです。ホイッグ党にとって、人身保護法は、王権の専制に対抗し、個人の権利を守るための、王位継承排除法案と並ぶ重要な武器でした。 法案の起草と審議は、シャフツベリ伯の指導の下、庶民院で精力的に進められました。彼らは、過去数十年にわたって明らかになった、人身保護令状のあらゆる抜け穴を塞ぐことを目指しました。法案は、裁判官が令状の発行を不当に遅らせることを防ぐための厳格な期限を設け、違反した裁判官に巨額の罰金を科すことを定めました。また、囚人を次々と移送して令状の執行を免れる行為や、海外領土へ移送する行為を、明確に違法と規定し、重い罰則を盛り込みました。 この法案は、庶民院を難なく通過しました。問題は、国王と、国王を支持するトーリー党や主教たちが多数を占める貴族院でした。案の定、貴族院では法案に対する強い抵抗が起こりました。彼らは、この法案が国王大権を過度に制約し、国家の安全を脅かす危険なものであると主張しました。特に、反逆罪や重罪の容疑で拘禁されている者にも人身保護の権利を安易に認めれば、危険な陰謀の企てを未然に防ぐことが困難になると、彼らは懸念したのです。 貴族院での審議は難航し、法案は様々な修正案によって骨抜きにされそうになりました。しかし、ホイッグ党は庶民院での多数を背景に、貴族院に強い圧力をかけ続けました。彼らは、人身保護法案が可決されなければ、国王が必要とする歳費の承認にも応じないという強硬な姿勢を見せ、国王と貴族院を揺さぶりました。 この法律の成立をめぐっては、有名な逸話が残されています。貴族院での最終的な採決の際、法案に賛成する議員の数を数える役だったホイッグ党の議員が、冗談で、非常に太った議員を一人ではなく十人として数えたため、実際には反対派が多数だったにもかかわらず、賛成57票、反対55票という僅差で可決された、というものです。この話の真偽は定かではありませんが、当時の政治的混乱と、法案がまさに薄氷を踏む思いで成立したことを象徴するエピソードとして、しばしば語られます。 国王チャールズ2世は、この法案を忌々しく思っていましたが、最終的には裁可を与えざるを得ませんでした。当時、彼は王位継承排除法案という、より深刻な脅威に直面していました。彼は、人身保護法という、いわば「小さな譲歩」をすることで、議会の歓心を買い、歳費を獲得するとともに、最大の懸案である王位継承排除法案の審議を遅らせようと考えたのかもしれません。また、カトリック陰謀事件の捜査が続く中で、国王自身も、自らの大臣や友人たちが不当に逮捕される可能性を懸念し、人身保護法の必要性をある程度は認めていたという見方もあります。 いずれにせよ、1679年5月27日、チャールズ2世が王位継承排除法案の審議を阻止するために議会を停会させる直前に、この歴史的な法律は国王の裁可を得て、正式に成立しました。「臣民の自由をより良く保障し、海外の牢獄への移送を防止するための法律」、これが人身保護法の正式名称です。 この法律の成立は、ホイッグ党にとって大きな勝利でした。彼らは、国王の専制に対する強力な法的防壁を築き上げることに成功したのです。しかし、皮肉なことに、この法律は、その後の政治闘争において、ホイッグ党自身を守るためにも使われることになります。1680年代初頭、国王側が反撃に転じ、ライハウス陰謀事件などを口実にホイッグ党の指導者たちを次々と投獄した際、彼らが頼ることができたのは、まさしく自分たちが作り上げたこの人身保護法だったのです。この法律は、党派的な闘争の中から生まれながらも、その普遍的な原則によって、全ての臣民の自由を守るための、党派を超えた砦となったのでした。
人身保護法の条文と内容
1679年の人身保護法は、それまでのコモン=ロー上の慣行であった人身保護令状の制度を、明確で強制力のある成文法として体系化したものです。その目的は、国王とその役人たちが用いてきた、令状を無力化するための様々な口実や抜け穴を、一つ残らず塞ぐことにありました。この法律は、極めて実践的かつ詳細な手続きを定めることで、個人の身体の自由という抽象的な権利を、具体的な法的救済へと結びつけました。
令状発行の迅速化と強制力
この法律の核心は、人身保護令状の発行と執行を、迅速かつ確実に行わせるための、厳格な手続きを定めた点にあります。 まず、法律は、大法官、王座裁判所、財務府裁判所、民事裁判所のいずれかの裁判官に対して、囚人本人またはその代理人から令状の請求があった場合、その発行を遅延させてはならないと明確に規定しました。特に、これまで令状発行が拒否される口実とされてきた「議会閉会期間中」であっても、大法官または高等法院のいずれかの裁判官は、令状を発行する義務を負うと定められました。これは、司法へのアクセスが、議会の会期に左右されることがあってはならないという、重要な原則を確立するものでした。 そして、令状の発行を不当に拒否した裁判官に対しては、被害を受けた囚人に対して500ポンドという、当時としては極めて高額な損害賠償金を支払わなければならないという、厳しい罰則が科せられました。この罰則規定は、裁判官が国王からの圧力に屈することなく、法に従ってその義務を遂行することを促す、強力なインセンティブとなったのです。
令状執行の厳格な期限
令状が無事に発行されても、それが速やかに執行されなければ意味がありません。そこで、法律は、令状を受け取った監獄の長官や役人に対して、極めて厳格な期限を課しました。 令状を受け取った役人は、拘禁場所がロンドンから20マイル以内であれば3日以内に、100マイル以内であれば10日以内に、および100マイル以上であれば20日以内に、必ず被拘禁者の身体を令状に指定された裁判所に出頭させなければならないと定められました。同時に、その拘禁が真実かつ正当な理由に基づくものであることを示す答弁書を提出することも義務付けられました。 この期限内に正当な理由なく囚人の出頭と答弁書の提出を怠った役人に対しては、初回の違反で100ポンド、二回目の違反では200ポンドの罰金が科され、さらにその職を解かれることになりました。これにより、役人が意図的に手続きを遅らせることは、事実上不可能になったのです。
再逮捕の禁止と移送の制限
国王側が用いてきた悪質な手口の一つに、一度人身保護令状によって釈放された人物を、同じ容疑で再び逮捕するというものがありました。これを防ぐため、法律は、人身保護令状によって釈放された者は、いかなる者も、同じ罪状で再び拘禁または投獄してはならないと明確に禁止しました。もし、この規定に違反して再逮捕を命じたり、実行したりした者がいれば、その者は被害を受けた囚人に対して500ポンドの損害賠償金を支払う義務を負いました。ただし、これはあくまで「同じ罪状」での再逮捕を禁じるものであり、その後の法的手続きによって、異なる罪状で合法的に再拘禁することは可能でした。 さらに、法律は、囚人を令状の執行から逃れるために、ある監獄から別の監獄へと移送する行為を厳しく制限しました。囚人の移送は、人身保護令状による場合、あるいは裁判所の規則や命令による場合など、ごく限られた法的な理由がなければ、行うことができないと定められました。この規定に違反した役人にも、高額な罰金が科せられました。
海外移送の禁止
人身保護法の条文の中で、最も画期的で、かつ臣民の自由を守る上で決定的な意味を持ったのが、海外の牢獄への移送を禁止した条項です。 法律は、「いかなるイングランドの臣民も、ジャージー島、ガーンジー島、タンジール、その他、国王陛下の領地、植民地、または支配地であって、イングランド王国の領域外にあるいかなる場所の監獄、駐屯地、その他の場所に、囚人として送致または移送されてはならない」と、絶対的に禁止しました。 この規定は、国王が政敵をイングランドの司法権が及ばない場所に送り込み、法的な救済手段を奪うという、最も恐れられていた権力濫用を、根絶することを目的としていました。この条項の重要性は、その罰則の厳しさにも表れています。この規定に違反して海外移送を命じたり、実行したりした者は、被害者に対して、その損害額が100ポンドを下回らない範囲で、3倍の損害賠償金を支払う義務を負い、さらに、その職務遂行能力を永久に失い、国王からのいかなる恩赦も受けることができないと定められました。国王の恩赦権さえも及ばないというこの例外的な規定は、議会がこの権利をいかに神聖で不可侵なものと考えていたかを示しています。
法律の適用範囲と限界
1679年の人身保護法は、個人の自由を守るための強力な武器でしたが、その適用範囲にはいくつかの重要な限界がありました。 第一に、この法律が主に対象としたのは、「刑事上または刑事上と推定される罪状」で拘禁されている者であり、民事上の債務などによる拘禁は、その直接の対象外でした。 第二に、および最も重要な点として、この法律は、「反逆罪または重罪」の容疑で拘禁されている者に対しては、一定の例外を認めていました。もし、反逆罪や重罪の容疑で拘禁されている者が、自ら請願して、次の開廷期または公判期までに裁判にかけるよう求めたにもかかわらず、検察側がその期限内に起訴しなかった場合、裁判官はその囚人を保釈しなければならないと定められました。さらに、もし次の開廷期を過ぎても起訴も裁判も行われなかった場合には、その囚人は釈放されなければならないと規定されました。 この条項は、政府が反逆罪などの重大な容疑を口実に、裁判にかけることなく人々を無期限に拘禁することを防ぐための、重要な保障でした。これにより、全ての被疑者は、迅速な裁判を受ける権利を間接的に保障されることになったのです。しかし、これは同時に、政府が反逆罪や重罪の容疑で逮捕した人物を、少なくとも一定期間は、人身保護令状による即時釈放の対象外として拘禁し続けることを、法的に容認するものでもありました。 また、この法律は、法外な保釈金の問題については、直接的な解決策を示しませんでした。この問題が法的に対処されるのは、10年後の1689年に制定される「権利の章典」を待たなければなりませんでした。 これらの限界はあったものの、1679年の人身保護法は、それまでの曖昧なコモン=ロー上の慣行を、明確で、迅速で、および強制力のある成文法へと転換させました。それは、国家権力に対して、その行動の法的根拠を常に法廷で説明する責任を負わせるものであり、法の支配という原則を、イングランドの政治体制の中心に確固として据える、歴史的な一歩だったのです。
人身保護法の影響
1679年の人身保護法の制定は、単に一つの法律が議会を通過したという以上の、はるかに大きな歴史的意味を持っていました。この法律は、イングランドの政治と社会の構造に深く食い込み、その後の憲政史の展開、さらには大西洋を越えたアメリカの法制度にまで、永続的な影響を及ぼすことになります。それは、国家権力と個人の自由の関係を再定義する、静かな、しかし決定的な革命でした。
イングランド憲政における影響
人身保護法がもたらした最も直接的な影響は、国王とその政府が、もはや法を無視して恣意的に臣民を投獄することができなくなったという点にあります。この法律は、政府の行政権に対して、司法権による明確なチェック・アンド・バランスのメカニズムを導入しました。いかなる権力者も、人を拘禁する際には、その行為の合法性を、独立した裁判官の前で証明する責任を負うことになったのです。 この法律は、王位継承排除危機という激しい党派対立のさなかに生まれましたが、その恩恵は、特定の党派だけのものではありませんでした。1680年代初頭、チャールズ2世が議会を解散し、ホイッグ党への弾圧を強めた「トーリー反動」の時代、ライハウス陰謀事件などを口実に多くのホイッグ党員が逮捕されました。この時、彼らが不当な長期拘禁から自らを守るために頼ったのが、皮肉にも自分たちが制定したこの人身保護法でした。この事実は、この法律が党派的な道具ではなく、全ての臣民の自由を守るための普遍的な原則に基づいていることを証明しました。 さらに10年後の1688年、名誉革命が起こり、ジェームズ2世が追放されると、人身保護法は、新しい憲政体制の基礎をなす重要な柱の一つとして、改めてその地位を確立します。1689年に制定された「権利の章典」は、人身保護法が禁止した権力濫用を再確認するとともに、人身保護法が触れていなかった「法外な保釈金の要求」を禁止し、その制度をさらに補強しました。 しかし、人身保護法の存在は、政府が国家の非常事態において、その適用を一時的に停止するという、新たな問題を提起することにもなりました。名誉革命後、ジャコバイトの反乱など、国家の安全が脅かされる危機が発生した際、議会は、反逆の容疑者を裁判にかけることなく拘禁することを政府に許可するため、「人身保護法停止法」を時限的に制定するようになります。 この「停止」という行為は、極めて重大な意味を持っていました。それは、人身保護という基本的な権利でさえも、絶対不可侵ではなく、国家の安全という、より大きな利益のために、議会の決定によって一時的に制限されうるという考え方を示唆するものでした。人身保護法の停止をめぐる議論は、その後何世紀にもわたって、個人の自由と国家の安全保障という、二つの重要な価値をいかにして両立させるかという、近代国家が常に直面する根本的な問いとして、繰り返し現れることになります。
アメリカへの影響
1679年の人身保護法が残した遺産は、大西洋を越え、アメリカの植民地、および後のアメリカ合衆国の法制度に、極めて大きな影響を与えました。 北米のイングランド植民地の住民たちは、自らをイングランド人であると認識しており、コモン=ローによって保障された「イングランド人の権利と自由」を、自分たちも当然に享受できるものと考えていました。人身保護の権利は、その中でも最も重要なものの一つと見なされていました。多くの植民地では、1679年の法律が制定される以前から、コモン=ロー上の人身保護令状が発行されていましたが、本国の法律は、その権利をより強力で明確なものとして、植民地の法意識に深く根付かせることになりました。 18世紀後半、イギリス本国と植民地の関係が悪化し、独立への気運が高まる中で、人身保護の権利は、イギリスによる圧政に対抗するための、重要なスローガンとなります。植民地の人々は、イギリス政府が、令状なしの家宅捜索や、陪審員による裁判の権利の剥奪など、古くからの自分たちの権利を侵害していると非難しました。恣意的な逮捕からの自由を保障する人身保護は、彼らが守ろうとした「自由」の核心部分をなしていたのです。 1787年に起草されたアメリカ合衆国憲法は、この歴史的な権利を、国家の基本法の中に明確に位置づけました。その第1条第9節には、「人身保護令状の特権は、反乱または侵略の場合に、公共の安全がそれを必要とする時を除いて、停止されてはならない」と規定されています。 この条文は、二つの点で極めて重要です。第一に、それは、人身保護の権利を、単なる法律ではなく、憲法によって保障された、国家の最高法規の一部としました。これにより、議会が、平時においてこの権利を法律で制限することは、違憲とされることになりました。 第二に、それは、この権利が停止されうる唯一の条件を、「反乱または侵略の場合」と、極めて厳格に限定しました。そして、その停止の権限が、大統領にあるのか、それとも議会にあるのかという問題は、その後のアメリカ史において、特に南北戦争の際に、エイブラハム=リンカーン大統領が議会の承認なく人身保護を停止したことで、深刻な憲政上の論争を引き起こすことになります。 1679年のイングランドの法律が、約100年後、新しい共和国の憲法の中に、ほとんどそのままの形で受け継がれたという事実は、この法律が持つ時代と場所を超えた普遍的な価値を、何よりも雄弁に物語っています。それは、権力を持つ者は常にそれを濫用する傾向があるという人間性への深い洞察と、その濫用から個人の尊厳を守るためには、明確で強制力のある法的な手続きこそが不可欠であるという、揺るぎない信念の表明でした。
法の支配の象徴として
1679年の人身保護法は、単なる一つの法律条文の集合体以上の存在となりました。それは、「法の支配」という、西洋近代社会の根幹をなす理念の、最も強力な象徴となったのです。 この法律が確立した原則、すなわち、いかなる人間も、たとえ国王であっても、法の下にあり、その行動の正当性を法廷で説明する責任を負うという原則は、絶対主義から立憲主義への移行を決定づけるものでした。それは、国家が、権力者の恣意的な意思によってではなく、全ての市民に平等に適用される、公開された法的な手続きによって統治されるべきであるという考え方を、現実の制度として確立したのです。 18世紀の法学者ウィリアム=ブラックストンは、その主著『イングランド法注解』の中で、人身保護法を「イングランド憲法の第二のマグナ=カルタ」と呼び、個人の自由を守るための最も効果的な保障であると絶賛しました。彼の著作は、イギリスだけでなくアメリカの法曹界にも絶大な影響を与え、人身保護の権利を、自由な社会に不可欠な、神聖不可侵なものとして位置づける上で、決定的な役割を果たしました。