審査法とは
1673年の審査法の制定は、イングランド史における画期的な出来事でしたが、それは決して歴史の空白から突如として現れたわけではありません。この法律の根底には、16世紀の宗教改革にまで遡る、イングランド社会に深く刻み込まれた宗教的・政治的な亀裂が存在しました。審査法がなぜ必要とされ、そしてなぜあれほどの熱量をもって議会を通過したのかを理解するためには、王政復古後のイングランドが抱えていた、国王と議会、およびプロテスタントとカトリックの間の、抜き差しならない緊張関係をまず解き明かす必要があります。 1660年、チャールズ2世の帰還によって王政復古が実現したとき、イングランド国民の多くは、内戦と共和制という長く続いた混乱の時代が終わり、ようやく平和と秩序が戻ってくることを期待しました。しかし、その期待の裏側には、常に宗教問題という巨大な火種がくすぶり続けていました。王政復古期のイングランドは、名目上は一つの国でありながら、その内実は、互いに相容れない複数の宗教的アイデンティティを持つ人々の集合体だったのです。 一方には、王政復古とともにその権威を完全に取り戻したイングランド国教会がありました。内戦中に苦難を味わった国教会の聖職者や、彼らを支持する地方のジェントリたちは、二度と自分たちの地位が脅かされることのないよう、国教会の支配を絶対的なものにしようと決意していました。1661年に選出された「騎士議会」は、まさにその意志の体現者でした。この議会は、熱烈な王党派と国教会支持者で占められ、その後の約18年間にわたって、イングランドの政治を国教会中心主義の方向へと強力に推し進めていきます。 彼らの手によって制定されたのが、「クラレンドン法典」として知られる一連の法律群です。自治体法、礼拝統一法、秘密集会法、五マイル法といったこれらの法律は、長老派、バプテスト派、クエーカー教徒といったプロテスタント系の非国教徒から、公職に就く権利、自由に礼拝を行う権利、および教育を受ける権利さえも奪い去りました。国教会は、自らの教義と儀式に従わない者たちを社会の周縁へと追いやり、イングランドを宗教的に純化しようとしたのです。 しかし、この国教会による支配の確立は、イングランド社会に深刻な分断をもたらしました。弾圧された非国教徒たちは、その信仰を捨てることなく、むしろ逆境の中で結束を強め、独自のコミュニティを形成していきました。彼らは、商工業者層に多く、経済的な実力を持つ無視できない存在であり、議会内の反主流派と結びつきながら、常に国教会体制に対する批判勢力として存在し続けました。 そして、この国教会と非国教徒の対立よりも、さらに深刻で、より国民的な恐怖を掻き立てたのが、カトリックの問題でした。16世紀のヘンリー8世によるローマからの離脱以来、イングランドではカトリックは単なる異端ではなく、国家への忠誠を疑われる危険な存在と見なされていました。カトリック教徒は、イングランド国王ではなく、ローマ教皇という「外国の君主」に精神的な忠誠を誓う者たちである。彼らが権力を握れば、イングランドは再びローマの支配下に置かれ、宗教改革以来築き上げてきた国家の独立と自由は失われてしまう。この「ポウパリィ」、すなわちカトリック支配への恐怖は、スペイン無敵艦隊の来襲や1605年の火薬陰謀事件といった歴史的記憶によって増幅され、イングランド人の国民的アイデンティティの根幹に深く刻み込まれていました。プロテスタントであることは、イングランド人であることとほぼ同義だったのです。 この潜在的な反カトリック感情が、王政復古期に一気に燃え上がったのには、明確な理由がありました。それは、王室そのものがカトリックに傾倒しているという、拭いがたい疑惑です。国王チャールズ2世自身、その母はフランスのアンリエット=マリーという熱心なカトリック教徒であり、彼自身も長い亡命生活をフランスのルイ14世の宮廷で過ごす中で、カトリック文化に深く親しんでいました。彼の本心は、プロテスタントの教義よりも、カトリックの荘厳な儀式や階層的な秩序の方に惹かれていたのではないかと、多くの人々が疑いの目で見ていました。 そして、その疑惑を決定的なものにしたのが、王位継承者であるチャールズの弟、ヨーク公ジェームズの存在でした。ジェームズは、兄とは対照的に、その信仰を隠そうとせず、1660年代後半には公然とカトリックに改宗していたのです。将来、カトリック教徒の王がイングランドの玉座に就く。この事実は、プロテスタントのイングランドにとって、悪夢以外の何物でもありませんでした。 このような状況下で、チャールズ2世は、自らの国王大権を行使して、宗教的寛容政策を推し進めようと試みます。彼の動機は複雑でした。一つには、彼自身の比較的寛容な性格や、母や寵愛する妃、および弟の信仰を尊重したいという個人的な感情があったかもしれません。しかし、それ以上に大きかったのは、極めて政治的な計算でした。 当時のヨーロッパ最強国は、ルイ14世が治めるカトリック大国のフランスでした。チャールズ2世は、プロテスタントの海洋国家であるオランダとの商業的・軍事的な競争において、フランスとの同盟が不可欠であると考えていました。そして、フランスからの財政支援は、彼が国内の議会に頼ることなく、自立した統治を行うための生命線でもありました。ルイ14世は、チャールズに対して、イングランド国内のカトリック教徒の地位を向上させることを、同盟と資金援助の見返りとして暗に、あるいは時には公然と要求しました。 1670年、チャールズ2世はルイ14世との間で「ドーヴァーの密約」を締結します。この密約の公表された部分では、両国がオランダに対して共同で戦争を行うことが定められていました。しかし、その裏には、チャールズ自身が「機が熟し次第」カトリックに改宗し、イングランドのローマ=カトリックへの復帰を宣言するという、衝撃的な秘密条項が含まれていたのです。この計画の実現可能性はともかく、チャールズがイングランドをフランスの衛星国とし、カトリック化への道を開こうとしていたことは間違いありません。 この密約に基づき、チャールズ2世は、来るべき対オランダ戦争への準備と、国内のカトリック教徒解放への布石として、1672年3月15日、二度目となる「信仰自由宣言」を発布しました。この宣言は、国王大権の名の下に、審査法やクラレンドン法典を含む全ての宗教的刑罰法の適用を停止し、非国教徒には公的な集会の自由を、そしてカトリック教徒には私的な礼拝の自由を認めるというものでした。 表面的には、これは近代的な信教の自由へと繋がる先進的な政策に見えるかもしれません。しかし、当時のイングランド議会と国民は、全く異なる受け止め方をしました。彼らににとって、この宣言は三重の意味で許しがたい暴挙でした。 第一に、それは憲政上の問題でした。国王が、議会が制定した法律を、自らの一存で停止できるというのなら、議会の存在意義そのものが失われてしまいます。これは、チャールズ1世の時代に逆戻りし、国王が法を超越する絶対君主となることを意味しました。議会にとって、これは自らの存立をかけた戦いでした。 第二に、それは外交上の問題でした。信仰自由宣言が、カトリック大国フランスとの不透明な同盟関係と、プロテスタント国家オランダに対する戦争準備の一環として発せられたことは、誰の目にも明らかでした。多くのイングランド人は、この戦争を、宗教的にも商業的にも兄弟であるはずのオランダを、カトリックの専制君主の手先となって攻撃する、不義の戦争と見なしていました。 そして第三に、および最も感情的に、それは宗教上の問題でした。この宣言が、カトリック教徒を公職に就かせ、彼らが社会の枢要な地位を占めるための道を開くものであることは明白でした。ヨーク公ジェームズが海軍の最高司令官として艦隊を率い、クリフォード卿のようなカトリック教徒が財務卿として国家財政を握る。このような現実は、プロテスタントのイングランド国民にとって、国家が内部から乗っ取られていく恐怖そのものでした。 1673年2月、対オランダ戦争の戦費を審議するために、約2年ぶりに議会が召集されました。チャールズ2世は、戦争への協力を得るためには、議会の機嫌を取らざるを得ない立場にありました。しかし、議会は戦費を承認する前に、まず信仰自由宣言の問題を解決することを断固として要求しました。庶民院は、「刑法に関する限り、国王大権によって議会制定法を停止することはできない」という決議を圧倒的多数で可決し、国王に宣言の撤回を迫ります。 チャールズ2世は、フランス大使や側近たちから抵抗を続けるよう促されましたが、議会の強硬な姿勢と、ロンドン市内の不穏な空気を前に、最終的に屈服せざるを得ませんでした。彼は、戦争遂行のために金が必要でした。1673年3月8日、彼は議会に対して、信仰自由宣言を撤回することを約束します。 しかし、議会はそれだけでは満足しませんでした。彼らは、二度と国王がこのような手段に訴えることがないように、および何よりも、カトリック教徒が国家の権力の中枢から永久に排除されるように、より恒久的で、より強力な法的保証を求めました。国王の約束という曖昧なものではなく、議会が制定する法律という、揺るぎない形で。この議会の断固たる意志と、国民の間に渦巻く反カトリック感情が結実したもの、それが1673年の審査法だったのです。
審査法の制定過程
1673年の審査法は、国王チャールズ2世と議会の間の、息詰まるような政治的駆け引きの産物でした。その制定過程は、王政復古期のイングランドが抱える憲政上および宗教上の根本的な対立を、白日の下に晒すドラマでもありました。 国王が信仰自由宣言の撤回を約束したことで、議会はひとまずの勝利を収めました。しかし、議員たちの間には、国王に対する深い不信感が残っていました。チャールズ2世が、機会さえあれば再び同様の試みを行うであろうことは、容易に想像できました。彼らは、将来にわたって国王の専断的な行動を縛り、特にカトリック教徒が公的な権力を持つことを防ぐための、より強固な法的障壁を築く必要性を痛感していました。 この動きを主導したのは、かつて国王の側近でありながら、反カトリックと議会主権の立場から野党勢力のリーダーへと転身しつつあった、シャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーでした。彼は、信仰自由宣言の背後にあるフランスとの密約や、ヨーク公ジェームズのカトリック信仰が国家にもたらす危険性を鋭く見抜き、この機に乗じてカトリック勢力を公職から一掃しようと画策します。 議会内では、直ちに新しい法案の起草が始まりました。その目的は明確でした。それは、単にカトリック教徒の信仰を罰することではなく、彼らが文官であれ武官であれ、国王に仕えるいかなる役職にも就くことを不可能にすることでした。そのための手段として考案されたのが、「テスト」、すなわち個人の信仰を判別するための踏み絵を課すというアイデアでした。 法案の骨子は、公職に就く全ての者に対して、二つの重要な宣誓を義務付けるというものでした。 第一は、「国王至上権と忠誠の宣誓」です。これは、エリザベス1世の時代から存在したもので、ローマ教皇のいかなる権威も否定し、イングランド国王が教会と国家の唯一最高の統治者であることを認める宣誓でした。多くのカトリック教徒は、教皇の首位権を否定することができず、この宣誓を拒否しました。 しかし、この宣誓だけでは不十分でした。一部のカトリック教徒は、精神的な留保をつけながら、この宣誓を行う可能性があったからです。そこで、より決定的で、いかなるカトリック教徒も受け入れることのできない、神学的な「テスト」が考案されました。それが、聖餐式における「聖変化」の教義を否定する宣言です。 聖変化とは、カトリック教会の中心的な教義の一つで、ミサの聖餐式において、司祭が唱える言葉によってパンとワインが、その見た目や味は変わらないまま、その「実体」において完全にキリストの肉と血に変化するという信仰です。これは、カトリック教徒にとって信仰の根幹をなす神秘であり、これを否定することは、自らの信仰そのものを捨てることに等しい行為でした。一方で、イングランド国教会を含むほとんどのプロテスタント教会は、この教義を「偶像崇拝的で迷信的」であるとして、明確に否定していました。したがって、この宣言を強制することは、カトリック教徒を識別するための、極めて効果的なリトマス試験紙となるはずでした。 さらに、法案は、これらの宣誓に加えて、公職に就任してから3ヶ月以内に、イングランド国教会の儀式に従って聖餐を受けることを義務付けました。これにより、カトリック教徒だけでなく、国教会の儀式を拒否する一部の非国教徒も、事実上、公職から排除されることになりました。 この法案は、庶民院で大きな支持を得て、速やかに可決されました。しかし、貴族院では、より複雑な議論が巻き起こります。貴族院には、ヨーク公ジェームズ自身や、クリフォード卿のようなカトリックの有力貴族が議席を持っていました。彼らは、この法案が可決されれば、自らの地位が失われることを意味するため、必死の抵抗を試みました。 ヨーク公ジェームズは、自らの軍人としての忠誠心を訴え、涙ながらに法案からの免除を懇願したと伝えられています。また、クリフォード卿は、この法案が個人の良心を踏みにじり、国家に仕える有能な人材を宗教という理由だけで排除する不当なものであると、激しい演説を行いました。 国王チャールズ2世も、この法案には極めて批判的でした。それは、彼の宗教的寛容の理念に反するだけでなく、彼の最も信頼する弟であり、有能な海軍司令官でもあったジェームズと、忠実な財務卿であったクリフォードを失うことを意味したからです。彼は、貴族院の審議を遅らせ、法案を骨抜きにしようと様々な画策を行いました。 しかし、この時点で、議会の意志は固く、およびロンドン市内の反カトリック感情は沸点に達していました。もし国王が法案を拒否すれば、議会は戦費の承認を拒否し、国政は完全に麻痺するでしょう。それどころか、内戦の再来さえ危惧される状況でした。 この膠着状態を打ち破る上で、意外な役割を果たしたのがフランス大使でした。彼は、ルイ14世の意向を受け、イングランドが対オランダ戦争を継続することこそが最優先事項であると考えていました。彼はチャールズ2世に対し、この法案を受け入れることで議会を懐柔し、戦費を獲得するよう説得したのです。 最終的に、チャールズ2世は、政治的現実の前に屈しました。彼は、自らの弟と側近を見捨てるという苦渋の決断を下し、法案への同意を与えます。1673年3月29日、この法案は国王の裁可を得て、正式に法律となりました。「カトリック反国教徒から起こりうる危険を防止するための法律」、これが審査法の正式名称です。 審査法の成立は、議会の完全な勝利でした。彼らは、国王の宗教政策を覆し、憲政上の原則を再確認させ、およびカトリック勢力を権力の中枢から追放することに成功したのです。この法律は、単なる宗教法ではありませんでした。それは、王政復古後のイングランドにおいて、国家の主導権が国王から議会へと決定的に移行したことを象徴する、政治的なマイルストーンだったのです。
審査法の条文と内容
1673年に制定された審査法は、その後のイングランドの政治と社会に150年以上にわたって深甚な影響を及ぼすことになります。その影響の大きさを理解するためには、法律の条文が具体的に何を要求し、それが人々の生活にどのような意味を持ったのかを詳細に見ていく必要があります。この法律は、巧妙に設計された宗教的「テスト」を課すことによって、イングランドの公職をプロテスタント、それもイングランド国教徒のために独占するという、明確な目的を持っていました。 審査法の正式名称は「カトリック反国教徒から起こりうる危険を防止するための法律」であり、その前文では、この法律の目的が、国王陛下への奉仕を装って国家の転覆を企む者たちから、国王と王国を守ることにあると高らかに謳われています。しかし、その条文が対象としたのは、実際にはカトリック教徒と、一部のプロテスタント非国教徒でした。 この法律の核心部分は、イングランド、ウェールズ、およびチャンネル諸島において、文官職、武官職を問わず、国王から俸給や手数料を受け取る全ての公職に就く者、および王室またはヨーク公爵家の一員である者に対して、一連の義務を課すというものでした。これらの義務は、就任前または就任後ごく短い期間内に、公の場で遂行されなければなりませんでした。
国王至上権と忠誠の宣誓
第一の義務は、「国王至上権の宣誓」と「忠誠の宣誓」を行うことでした。これらの宣誓は、審査法が制定される以前から存在していましたが、この法律によって、公職に就くための絶対的な前提条件として改めて法的に位置づけられました。 「国王至上権の宣誓」は、エリザベス1世の時代に定められたもので、宣誓者に、イングランド国王が「この王国における全ての霊的または教会的な事柄、および世俗的な事柄において、唯一最高の統治者である」ことを認めさせ、さらに「いかなる外国の君主、高位聖職者、国家、または権力者も、この王国において、いかなる教会的または霊的な権威、権限、優越権、または管轄権も有しない」ことを宣言させるものでした。これは、言うまでもなく、ローマ教皇の首位権を真っ向から否定するものです。カトリック教徒にとって、教皇はキリストから使徒ペテロを通じて受け継がれた、全世界の教会に対する普遍的な権威を持つ存在です。その権威を否定することは、カトリック信仰の根幹を揺るがす行為であり、多くの敬虔なカトリック教徒はこの宣誓を良心的に行うことができませんでした。 「忠誠の宣誓」は、1605年の火薬陰謀事件の後にジェームズ1世によって導入されたもので、国王への個人的な忠誠を誓わせるとともに、教皇が異端の君主を罷免したり、その臣民に殺害を命じたりする権限を持つという教説を「不敬虔で異端的」であるとして明確に否認させる内容を含んでいました。これもまた、カトリック教徒にとっては受け入れがたいものでした。 これらの宣誓は、四半期ごとに行われる公開の裁判所において、判事たちの面前で行われなければならず、その記録は公式に保管されることになっていました。
聖変化の否定宣言
審査法の最も独創的で、および最も決定的な条項は、カトリックの神学そのものを標的とした、いわゆる「テスト」でした。法律は、公職に就く全ての者に対して、国王至上権と忠誠の宣誓を行ったのと同じ法廷で、以下の内容の宣言書に署名し、それを朗読することを義務付けました。 「私、A. B.は、ローマ教会の聖餐式において、聖変化は存在しないと宣言する。また、聖母マリアへの祈願や、聖人への祈願、およびミサのいけにえは、ローマ教会において現在行われているように、迷信的かつ偶像崇拝的であると信じる。」 この一文は、カトリック教徒の良心に対する、極めて巧妙かつ残酷な攻撃でした。前述の通り、「聖変化」の教義は、カトリックのミサの中心をなす神秘であり、信仰の核心です。これを否定することは、自らの宗教的アイデンティティを公然と放棄することを意味しました。また、聖母マリアや聖人たちへの「祈願」は、カトリックの信仰生活において重要な位置を占めており、ミサがキリストの十字架上の犠牲を再現する「いけにえ」であるという理解も、カトリック神学の根幹です。これら全てを「迷信的かつ偶像崇拝的」と断じることは、いかなる敬虔なカトリック教徒にも不可能でした。 この宣言は、政治的な忠誠を問う「国王至上権の宣誓」とは異なり、純粋に神学的な領域に踏み込んでいます。これにより、たとえ国王への政治的忠誠心に揺るぎがないカトリック教徒であっても、その信仰を捨てきれない限り、公職に就く道は完全に閉ざされることになりました。この「テスト」は、個人の内面にある信仰を、公的な資格を判断するための基準として用いるという、画期的な手法でした。
国教会聖餐の受領
第三の義務は、儀礼的なものでありながら、極めて象徴的な意味を持つものでした。法律は、公職に就任してから3ヶ月以内に、日曜日の礼拝の時間に、自らが所属する教区の教会、あるいはその他の公的な教会において、イングランド国教会の儀式に従って聖餐を受けることを要求しました。 そして、その事実を証明するために、その教会の牧師と教会役員が署名した証明書を取得し、さらに少なくとも二人の信頼できる証人の証言とともに、次回の裁判所に提出しなければなりませんでした。 この条項は、二重の目的を持っていました。第一に、カトリック教徒を排除することです。カトリック教徒は、プロテスタントの聖餐式を異端的な儀式と見なしており、それに参加することは重大な罪でした。第二に、この条項は、カトリック教徒だけでなく、国教会の儀式を「カトリック的すぎる」として拒否する、より厳格なプロテスタント非国教徒、例えばクエーカー教徒や一部のバプテスト派なども、事実上、公職から排除する効果を持ちました。彼らは、国教会の聖餐式に参加することを良しとしなかったからです。 ただし、長老派など、多くの非国教徒は、この「機会的国教遵守」、すなわち公職に就くために一時的に国教会の聖餐を受けるという行為を、やむを得ない妥協として受け入れました。このため、審査法は、カトリック教徒に対してはほぼ完全な排除効果を持った一方で、非国教徒に対しては、より限定的な効果しかありませんでした。
違反した場合の罰則
審査法は、これらの義務を怠った者に対して、極めて厳しい罰則を定めていました。 もし、定められた期間内に宣誓や宣言、聖餐の受領を行わずに職務を続けた場合、その者は法律上、公職に就く能力を完全に失うとされました。さらに、500ポンドという、当時としては莫大な額の罰金が科せられました。この罰金は、国王や国庫に納められるのではなく、その違反者を告発した者に与えられることになっており、市民による相互監視を奨励する仕組みになっていました。 そして、最も厳しい罰則は、有罪判決を受けた者が、あらゆる法廷における訴訟当事者、後見人、遺言執行者となる能力を剥奪され、遺贈を受ける権利も、公的な役職に就く権利も永久に失うというものでした。これは、事実上の「市民権の剥奪」に等しいものであり、違反者を社会的に抹殺することを意味しました。 これらの厳格な条文と厳しい罰則によって、審査法は、イングランドの統治機構からカトリック教徒をほぼ完全に一掃し、国教会信徒による支配、いわゆる「国教会の優越」を法的に確立する、強力な装置となったのです。
審査法の影響
1673年の審査法の制定は、イングランドの政治と社会の風景を一変させました。この法律は、単に一部の人々の公職への道を閉ざしただけにとどまらず、王室の権力構造、政党政治の形成、およびイングランドの国民的アイデンティティそのものに、深く永続的な影響を及ぼしました。
ヨーク公ジェームズの失脚とカトリック教徒の排除
審査法がもたらした最も直接的で劇的な影響は、王位継承者であり、海軍卿という軍の最高職にあったヨーク公ジェームズの失脚でした。彼は、敬虔なカトリック教徒として、聖変化の教義を否定する宣言を行うことは到底できず、法律の施行後、間もなくその全ての公職を辞任せざるを得なくなりました。国の軍隊のトップが、その信仰を理由に職を追われたという事実は、国民に大きな衝撃を与え、審査法が持つ力の大きさを誰の目にも明らかにするものでした。 ジェームズだけでなく、財務卿であったクリフォード卿をはじめ、政府や軍、宮廷にいた多くのカトリック教徒が、次々とその地位を去っていきました。彼らのポストは、国教会信徒によって埋められ、イングランドの統治エリート層からカトリックの影響力は事実上、一掃されました。これは、議会が長年目指してきた目標の達成であり、彼らの政治的勝利を象徴する出来事でした。 しかし、この出来事は、より深刻な問題の始まりでもありました。公職を追われたジェームズは、もはや単なる王の弟ではなく、その信仰ゆえに国家から疎外された、不満を抱く王位継承者となりました。彼の周りには、同様に地位を失ったカトリック貴族たちが集まり、彼はイングランド国内の反体制派カトリック勢力の象徴的な中心人物となっていきます。このことが、後の王位継承排除法案をめぐる危機や、彼自身がジェームズ2世として即位した後の悲劇的な治世へと繋がるのです。
政党政治の形成促進
審査法をめぐる対立は、イングランドの議会政治に新たな段階をもたらしました。この法律は、国王の政策に反対し、議会の権利とプロテスタントの優位を主張する勢力の結集軸となったのです。 審査法の制定を主導したシャフツベリ伯らのグループは、この成功を足がかりに、より組織化された野党勢力を形成していきます。彼らは、審査法をイングランドの自由と宗教を守るための砦と位置づけ、国王や宮廷側によるこの法律を骨抜きにしようとするいかなる試みにも、断固として反対しました。 一方、国王を支持し、王権の伝統的な権威を重んじる人々は、審査法を国王大権に対する過度の干渉と見なし、その行き過ぎた反カトリック的な性格に懸念を抱きました。 この対立の構図は、1670年代末から80年代初頭にかけての「王位継承排除危機」において、より明確な形で現れます。ヨーク公ジェームズを王位継承から排除しようとする「ホイッグ党」と、正統な王位継承権を擁護する「トーリー党」という、イングランド初の政党が誕生したのです。ホイッグ党は、審査法を強力に支持し、その適用をさらに厳格化しようとしたのに対し、トーリー党は、国王への忠誠を重んじる立場から、ホイッグ党の急進的な動きに反対しました。 このように、審査法は、イングランドの政治家たちを「国王側」か「議会側」か、「寛容派」か「国教会強硬派」かという立場表明を迫るリトマス試験紙となり、その後の政党政治の発展を大きく促す役割を果たしたのです。
「国教会の優越」の確立と非国教徒の分裂
審査法は、カトリック教徒を公職から排除するという主目的においては絶大な効果を発揮しましたが、同時に、プロテスタント非国教徒に対しても複雑な影響を及ぼしました。 法律が国教会の聖餐を受けることを義務付けたため、それに従えないクエーカー教徒のような厳格な非国教徒は、カトリック教徒と同様に公職から排除されました。しかし、長老派をはじめとする多くの非国教徒は、公職に就くための方便として、年に一度だけ国教会の聖餐を受ける「機会的国教遵守」という道を選びました。彼らは、審査法の反カトリック的な性格を支持し、カトリックという共通の敵に対抗するためには、国教会と一時的に協力することもやむを得ないと考えたのです。 このことは、非国教徒の内部に分裂をもたらしました。一方で、審査法は、非国教徒を二級市民として扱う国教会体制を法的に強化するものであり、彼らの解放という長年の目標とは相容れないものでした。しかし他方で、審査法は、彼らが最も恐れるカトリックの脅威から国を守るための防波堤でもありました。 このジレンマは、ジェームズ2世の治世において、さらに先鋭化します。ジェームズ2世は、カトリック教徒を解放するために、審査法を停止する「信仰自由宣言」を発布し、非国教徒にも協力と支持を呼びかけました。非国教徒たちは、自らの自由を回復するという魅力的な提案と、その提案がカトリックの専制君主からもたらされたという危険な現実との間で、難しい選択を迫られることになったのです。最終的に、彼らの多くは、カトリックの専制よりも国教会の支配の方がまだましであると判断し、ジェームズ2世に反旗を翻した名誉革命を支持することになります。 審査法は、イングランド社会における国教会の支配的地位、すなわち「国教会の優越」を法的に完成させました。公職、大学、軍といった国家の重要な機関は、すべて国教会信徒によって占められることになり、イングランドは法の名の下に、明確な国教会国家としての性格を確立したのです。
スコットランドとアイルランドへの影響
1673年の審査法は、イングランドとウェールズを対象とした法律でしたが、その影響はブリテン諸島の他の地域にも及びました。 スコットランドでは、イングランドの審査法に倣い、1681年に独自の審査法が制定されました。スコットランドの法律は、イングランドのものよりもさらに厳格で、全てのスコットランド人を対象に、国王の至上権を認め、カトリックと長老派の双方の教義を否定する宣誓を強要するものでした。これは、スコットランドにおける長老派の抵抗を激化させ、「キリング=タイム」として知られる激しい弾圧の時代を招きました。 アイルランドでは、イングランドの審査法が直接適用されることはありませんでしたが、1704年に、アイルランド議会がイングランドの法律とほぼ同様の内容を持つ審査法を可決しました。アイルランドにおける審査法は、人口の大多数を占めるカトリック教徒を、土地所有、公職、軍務、法曹界から完全に排除することを目的としていました。これにより、プロテスタント少数派によるカトリック多数派の支配、いわゆる「プロテスタントの優越」が確立され、その後のアイルランド史に長く暗い影を落とすことになります。 このように、審査法は、イングランド一国の問題にとどまらず、ブリテン諸島全体の宗教的=政治的な構造を規定し、その後の数世紀にわたる対立の火種を植え付けた、極めて影響力の大きな法律だったのです。
審査法の長い影
1673年に制定された審査法は、その後のイングランド、およびブリテン諸島の歴史に、150年以上にわたって長く、および濃い影を落とし続けました。この法律は、単なる一時的な政治的妥協の産物ではなく、国家のあり方を規定する基本法の一つとして機能し、その廃止に至るまで、絶えず政治的・社会的な論争の的となりました。審査法の「その後」の歴史は、近代イギリスが、宗教的排他性に基づく国家から、より寛容で多元的な市民社会へと移行していく、長く困難な道のりを映し出しています。
名誉革命と寛容法
審査法の制定から15年後の1688年、名誉革命が勃発します。カトリック教徒であるジェームズ2世が、審査法を停止してカトリック化政策を強行しようとしたことが、この革命の直接的な引き金となりました。プロテスタントであるウィリアム3世とメアリー2世が共同統治者として即位し、議会の主権とプロテスタント支配を確立した「権利の章典」が制定されます。 この名誉革命体制の下で、宗教政策にも大きな変化が訪れました。 1689年、新しい体制の安定を図るため、「寛容法」が制定されました。この法律は、プロテスタント非国教徒に対して、一定の条件下で信教の自由を認めるという画期的なものでした。国王至上権の宣誓などを行えば、彼らは自らの礼拝堂を建て、集会を開くことが許可されるようになったのです。これは、名誉革命において新体制を支持した非国教徒への報酬であり、また、プロテスタント勢力の団結を維持するための現実的な政策でもありました。 しかし、この「寛容」は極めて限定的なものでした。寛容法は、カトリック教徒や、三位一体の教義を否定するユニテリアン派などを、その対象から明確に除外していました。そして、最も重要な点として、寛容法は審査法や自治体法を一切変更しなかったのです。つまり、非国教徒は礼拝の自由は得たものの、中央政府の公職や軍務、大学の役職に就く権利、あるいは地方自治体で役員になる権利は、依然として剥奪されたままでした。 名誉革命は、イングランドをカトリックの専制から守りましたが、それは国教会信徒の特権を再確認し、固定化する体制を築いたということでもありました。審査法は、この新しい国制の根幹をなす柱の一つとして、その法的効力を維持し続けたのです。
18世紀における審査法の形骸化と「免責法」
18世紀に入ると、審査法は依然として法律として存在し続ける一方で、その運用は次第に形骸化していきます。特に、公職に就くために年に一度だけ国教会の聖餐を受ける「機会的国教遵守」が、プロテスタント非国教徒の間で広く行われるようになりました。 アン女王の治世には、トーリー党内の強硬派が主導して、この機会的国教遵守を禁止する法律が制定されるなど、一時的に審査法の厳格な適用が試みられました。しかし、1714年にハノーヴァー朝が始まると、ホイッグ党が長期にわたって政権を握り、より穏健で現実的な政策が取られるようになります。 ホイッグ党政権は、非国教徒が自分たちの重要な支持基盤であることを認識していました。彼らは、審査法を公然と廃止して国教会体制の根幹を揺るがすという政治的リスクを冒すことは避けましたが、その代わりに、審査法の規定を事実上無効化するための、巧妙な仕組みを導入しました。 それが、1727年からほぼ毎年制定されるようになった「免責法」です。この法律は、「審査法が定める期間内に必要な宣誓や聖餐の受領を行わなかった者たち」に対して、事後的にその法的責任を免除し、追加の猶予期間を与えるというものでした。つまり、非国教徒は、審査法に違反して公職に就いたとしても、毎年制定されるこの免責法によって、罰則を受けることなくその地位を維持し続けることができたのです。 この年次免責法という仕組みは、イギリス的なプラグマティズムの典型例でした。それは、一方では審査法という「国教会支配の原則」を法律として維持し、国教会側の体面を保ちながら、他方では非国教徒という有力な支持層を政権から疎外することなく、彼らの才能を国家のために活用するという、二つの相反する要求を両立させるための、きわめて政治的な妥協の産物でした。 この結果、18世紀を通じて、多くの非国教徒が、特に地方の役職や、中央政府の下級官吏として、イギリスの統治機構において重要な役割を果たすようになりました。しかし、彼らは依然として、法律上は二級市民であり、その地位は毎年繰り返される議会の「恩寵」に依存するという、不安定な立場に置かれ続けていたのです。
廃止への長い道のり
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、イギリス社会は大きな変革の時代を迎えます。アメリカ独立革命やフランス革命は、個人の権利や市民的自由についての新しい思想を広め、産業革命は、非国教徒が多くを占める新しい商工業者階級の社会的・経済的な力を飛躍的に増大させました。 このような状況の変化の中で、宗教的な信条に基づいて市民を差別する審査法のような法律は、次第に時代錯誤なものと見なされるようになっていきました。非国教徒たちは、もはや年次の免責法という屈辱的な措置に満足せず、自らの市民的権利の完全な承認を求めて、審査法の廃止を要求する組織的な運動を展開し始めます。 彼らの主張は、審査法が「良心に対する冒涜」であるというものでした。最も神聖であるべき聖餐式を、世俗的な役職に就くための資格試験として利用することは、宗教そのものを汚す行為であると、彼らは批判しました。この議論は、一部の国教会聖職者の中からも支持を得るようになります。 一方で、審査法の廃止には、依然として根強い反対がありました。保守的なトーリー党員や国教会の強硬派は、審査法が「教会と国家の結びつき」を守るための最後の砦であると主張しました。彼らは、審査法を廃止すれば、国教会の地位が損なわれ、やがては無神論者や急進主義者が権力を握り、国家の基盤そのものが覆されるだろうと警告しました。 廃止に向けた法案は、1787年、1789年、1790年と、三度にわたって議会に提出されましたが、いずれもフランス革命への警戒感が広がる中で否決されました。しかし、ナポレオン戦争が終結し、より自由主義的な改革の気運が高まると、状況は再び変化します。 1820年代に入ると、ホイッグ党のジョン=ラッセル卿らが中心となり、審査法と自治体法の廃止を求めるキャンペーンが再び力強く展開されました。彼らは、これらの法律が、国家に忠実で有能な市民を不当に排除し、社会の分裂を助長していると訴えました。当時の保守的なウェリントン公爵内閣は、当初は廃止に反対していましたが、議会内の圧倒的な支持と、世論の高まりを前に、最終的に譲歩せざるを得なくなりました。 そして1828年、ついに議会は審査法および自治体法を廃止する法案を可決しました。これにより、プロテスタント非国教徒は、160年以上にわたって課せられてきた法的な足枷から解放され、理論上、カトリック教徒を除く全ての市民が、その宗教的信条にかかわらず、公職に就く権利を認められることになったのです。
カトリック解放と審査法の完全な終焉
1828年の改革は、プロテスタント非国教徒を解放しましたが、カトリック教徒は依然として、国王至上権の宣誓や聖変化の否定宣言など、他の法律によって公職から排除されたままでした。 しかし、審査法の廃止は、宗教的排他性の壁に大きな亀裂を開け、次の改革への道を拓くものでした。アイルランドでは、ダニエル=オコンネルが指導するカトリック協会が、カトリック教徒の完全な政治的権利を求める大衆運動を展開し、イギリス政府に強烈な圧力をかけていました。アイルランドが内戦の危機に瀕する中で、ウェリントン内閣は、さらなる譲歩を決断します。 1829年、「カトリック解放法」が制定されました。この法律は、カトリック教徒が、国王、大法官、アイルランド総督などごく一部の例外を除き、議会に議席を持ち、ほぼ全ての公職に就くことを認めるものでした。カトリック教徒は、聖変化の否定宣言の代わりに、プロテスタントの王位継承を尊重し、国教会の財産を侵害しないことを誓う、新しい宣誓を行うことになりました。 このカトリック解放法によって、1673年の審査法が築き上げた、プロテスタント=国教会信徒による公職の独占という体制は、名実ともに崩壊しました。 その後も、大学の役職に関する宗教的制約などが一部残りましたが、19世紀を通じて、ユダヤ教徒や無神論者にも市民的権利が拡大されるなど、イギリスは着実に世俗的で多元的な近代国家へと歩みを進めていきました。1673年の審査法が最終的にイギリスの法典から完全に姿を消したのは、実に1871年のことでした。