トーリ党の起源
イギリス政治史において、トーリ党ほど長く複雑な歴史を持つ存在は稀です。この党派は19世紀に保守党へと姿を変え、現代までイギリス政治の中核を担い続けています。そのルーツは17世紀後半のイングランドを揺るがした深刻な憲政上の危機にまで遡ります。トーリ党は特定の政策綱領を持つ近代政党とは異なります。それは王権と教会の権威をめぐる激しい論争の中から、一つの思想的傾向として、あるいは政治的気質として、ほとんど自然発生的に姿を現しました。その誕生の物語を理解するには、まず王政復古後のイングランドが直面した状況を解き明かす必要があります。宗教と王位継承をめぐる根深い対立の構図です。
王政復古と宗教対立
1660年、イングランドに君主制が復活しました。清教徒革命とそれに続く共和政の時代が終わり、チャールズ2世が王位に就いたのです。この王政復古は内戦と混乱に疲弊した国民の多くに歓迎されました。伝統的な秩序と安定の回復が期待されたのです。しかし、それは決して過去への完全な回帰ではありませんでした。革命の経験は、国王の権力と臣民の権利、および議会の役割についての議論を以前よりはるかに先鋭化させていました。 王政復古後の政治体制の根幹は二つありました。一つは国王、貴族院、庶民院の三者による均衡の取れた統治という理念です。そしてもう一つが、イングランド国教会の再建でした。1661年から続いた「騎士議会」は熱心な王党派と国教会信徒が多数を占めていました。彼らは革命期に勢力を伸ばした清教徒、つまりプロテスタント非国教徒を弾圧します。そして国教会の優位を確立するため「クラレンドン法典」と呼ばれる一連の法律を制定しました。これにより公職や大学の地位は国教会信徒に独占され、非国教徒は市民社会の周縁へと追いやられました。 しかし、この国教会による支配体制は盤石ではありません。国内には依然として多くの非国教徒が存在しました。彼らは政治的権利を奪われながらも、商工業の世界などで着実に経済的な力を蓄えていたのです。そして、より深刻な脅威と見なされたのがカトリック教徒の存在でした。プロテスタントが多数を占めるイングランドにおいて、カトリックは危険な宗教と見なされています。それは外国勢力、特にフランスやスペインと結びつき、国家の独立と自由を脅かすと考えられていたからです。16世紀の宗教改革以来の反カトリック感情は国民の間に深く浸透していました。 このような宗教的な緊張関係の中で、王位継承問題が政治の最大の火種として浮上します。チャールズ2世には嫡出子がいませんでした。そのため王位継承者と目されていたのは弟のヨーク公ジェームズでした。問題は、このジェームズが公然たるカトリック教徒だったことです。国民の大多数は深刻な恐怖を抱きました。カトリック教徒の国王が即位すれば、イングランドは再びローマ教皇の支配下に置かれるのではないか。フランスのような絶対君主制が導入され、議会の自由や臣民の権利がすべて奪われるのではないか。そう考えたのです。
王位継承排除危機
この潜在的な危機が現実の政治対立として爆発するきっかけは、1678年に発覚した「カトリック陰謀事件」でした。これはタイタス=オーツという人物が捏造した陰謀説です。カトリック教徒がチャールズ2世を暗殺し、ヨーク公ジェームズを王位に就けようとしているという、全く根拠のない話でした。しかし、反カトリック感情が高まっていた当時のイングランドで、この陰謀説は燎原の火のように広まります。国中がパニックとヒステリーに陥りました。多くの無実のカトリック教徒が偽の証言に基づき逮捕され、処刑される事態にまで発展したのです。 この政治的混乱を巧みに利用したのがシャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーでした。彼はこの国民的な反カトリック感情を追い風に、ヨーク公ジェームズを王位継承から排除することを目的とする政治運動を組織します。これがイングランド史上初の本格的な政党政治の幕開けとなる「王位継承排除危機」(1679年から1681年)でした。 シャフツベリ伯とその支持者たちは、議会で「王位継承排除法案」を可決させることを目指します。彼らは国王の権力が神から直接与えられたものではなく、人民との契約に基づくと主張しました。したがって議会は国家の安全とプロテスタント宗教を守るため、正統な王位継承者であってもその権利を剥奪できると考えたのです。彼らは議会の主権を擁護し、カトリックの専制政治への抵抗を訴え、広範な国民の支持を集めようとしました。パンフレットや請願運動、大衆デモといった近代的な政治キャンペーンの手法が、この時に初めて大規模に用いられたのです。
「トーリ」と「ホイッグ」の誕生
シャフツベリ伯の急進的な主張に、真っ向から反対する勢力が現れました。彼らは王位継承排除法案を危険な試みだと非難します。神聖で不可侵であるべき王位継承の原則を破壊し、国家の秩序を根底から覆すと考えたのです。彼らは、たとえ次期国王がカトリック教徒でも、その正統な継承権を人間、つまり議会が勝手に変更することは許されないと主張しました。王権は神に由来するものであり、臣民の義務は正統な君主に受動的に服従することだ、というのが彼らの信念でした。彼らはまた、イングランド国教会こそ国家安定の礎だと考えました。そしてシャフツベリ伯の背後には、国教会を転覆させようと企む非国教徒がいると警戒したのです。 こうしてイングランドの政治エリート層は二つの陣営に明確に分裂しました。王位継承排除法案をめぐる対立です。この中で互いを罵倒するための蔑称として「トーリ」と「ホイッグ」という言葉が生まれました。 「トーリ」という言葉は元々アイルランドのゲール語です。「追いはぎ」や「ならず者」を意味し、当時は国王の支配に抵抗するカトリック教徒のゲリラ兵を指しました。王位継承排除法案の支持者たちは、ヨーク公ジェームズの継承権を擁護する人々を、このアイルランドのカトリック教徒になぞらえ「トーリ」と呼んで侮辱したのです。それは彼らがカトリックの専制と絶対主義の手先だという非難を込めたレッテルでした。 一方、「ホイッグ」という言葉はスコットランドで使われていた言葉です。元々は馬を追う際の掛け声でしたが、やがて反体制的な長老派教徒の反乱分子を指す蔑称になりました。王位継承権の擁護者たちは、シャフツベリ伯とその支持者たちを危険な急進派とみなしました。かつての清教徒革命のように国王に反逆し、国教会を破壊しようとしていると考え、彼らを「ホイッグ」と呼んで非難したのです。 当初は互いを貶める悪口に過ぎませんでした。しかしこれらの言葉は、やがてそれぞれの陣営が自らのアイデンティティとして受け入れ、イギリスの政治史に深く刻まれることになります。王位継承排除法案に反対し、神授王権、正統な王位継承、およびイングランド国教会の権威を擁護した人々。それが最初の「トーリ党」でした。彼らは主に地方の地主階級ジェントリや国教会の聖職者たちによって構成されていました。土地に根差した伝統的な社会秩序と階層的な権威構造を重んじる、保守的な価値観を共有していたのです。彼らにとってホイッグ党の主張は、社会の安定を破壊し、内戦の悪夢を再び呼び起こしかねない無責任な扇動に他なりませんでした。 王位継承排除危機は最終的に国王側の勝利に終わります。チャールズ2世が議会を解散し、ホイッグ党の指導者たちを弾圧したのです。しかし、この危機を通じて生まれたトーリとホイッグという二つの政治的潮流は、その後150年以上にわたってイギリスの政治を規定し続けることになりました。
トーリ党の思想と原則
17世紀末に誕生したトーリ党は、近代的な政党綱領を持つ組織ではありません。それはむしろ一連の共通の信念、価値観、および気質によって結びついた緩やかな政治的連合体でした。その思想の根底には、秩序と権威、および伝統に対する深い敬意がありました。清教徒革命と王政復古という激動の時代を経て形成されたものです。トーリの思想は急進的な変革を志向するホイッグ党の思想とは対照的でした。既存の社会構造と制度を維持し、守ることの重要性を説いたのです。
神授王権と受動的服従
トーリ党の思想的支柱の第一は「神授王権」の理念でした。これは国王の権威が人民や議会から与えられたものではなく、神から直接授けられたものだという考え方です。したがって国王は神に対してのみ責任を負うとされます。この理念から、国王の権力は絶対的であり、臣民はそれに抵抗する権利を持たないという結論が導き出されます。 しかし17世紀後半のトーリたちが信奉した神授王権は、少しニュアンスが異なりました。17世紀初頭のジェームズ1世が主張したような無制限の絶対君主制とは違ったのです。彼らの多くは国王もまた神の法と王国の法に従う義務があると信じていました。彼らが強調したのは国王の権威の「起源」が神的であることです。その権力の「行使」が常に無制約であるということではありませんでした。 この神授王権の理念と密接に結びついていたのが「受動的服従」と「抵抗不可」の教義です。これは、たとえ国王が悪政を行い臣民の権利を侵害したとしても、臣民は決して武力で国王に抵抗してはならないという教えでした。ただその命令に従うか、あるいは良心に従って命令を拒否した場合は、その結果課される罰を甘んじて受け入れなければならないとされたのです。トーリにとって国王への反逆は、神の定めた秩序への反逆でした。それは社会を内戦と無政府状態に陥れる最も重い罪だったのです。彼らは1640年代の清教徒革命の悲劇を記憶していました。いかなる悪政も内戦の恐怖よりはましだと考えていたのです。 この教義は王位継承排除危機において強力な理論的根拠となりました。カトリック教徒であるヨーク公ジェームズの継承権を擁護するためです。たとえジェームズがカトリックをイングランドに再導入しようとしても、臣民にできることは祈ることだけだと彼らは主張しました。神が国王の心を変えてくれるのを待るしかない。彼の正統な権利を暴力で奪うことは許されない、と。
世襲君主制と正統性
トーリ党が固守したもう一つの重要な原則は「世襲君主制」の神聖さでした。彼らは王位継承の順序が不変の法則であると信じていました。人間の都合や議会の決定によって変更できず、神の摂理によって定められたものだと考えていたのです。長子相続に基づく厳格な継承順位こそが、王位をめぐる争いを防ぎます。そして国家の安定を保証する唯一の方法だと考えられていました。 ホイッグ党が王位継承排除法案によってこの原則を覆そうとしたとき、トーリたちはそれを冒涜的な行為と見なしました。国家の根幹を揺るがすと考えたのです。彼らにとって議会が王位継承者を「選ぶ」ことは、君主制を事実上の選挙君主制に変えてしまいます。それはポーランドのような不安定な国家への道を開くものでした。貴族間の絶え間ない内紛に苦しむ国です。 この正統な血統へのこだわりは、トーリ党のアイデンティティの核心部分をなしました。彼らは自らを忠実な臣民であると規定したのです。王国の古来の国制とステュアート家の正統な血統を守る存在だと。この強い忠誠心は、後に名誉革命が起こった際に彼らを深刻なジレンマに陥れることになります。
イングランド国教会との一体性
トーリ党の思想を理解する上で、イングランド国教会への献身は極めて重要です。国王への忠誠心と同じくらい、あるいはそれ以上に大切でした。トーリにとって教会と国家は不可分の一体でした。国教会は単なる宗教組織ではありません。国家の道徳的・社会的な秩序を支える根幹的な制度だったのです。彼らはしばしば「教会と国王」というスローガンを掲げました。この二つの権威が相互に支え合っていることを強調したのです。 トーリの多くは「ハイ=チャーチ派」でした。国教会の教義や儀式を熱心に支持する人々です。彼らは司教による統治制度を神聖なものとみなし、荘厳な儀式や典礼を重んじました。カトリック教会に近いスタイルです。そして彼らは国教会以外のプロテスタント、つまり非国教徒やディセンターに対して極めて非寛容な態度をとりました。 トーリにとって非国教徒は危険な反乱分子でした。かつて国王を処刑し教会を破壊した清教徒革命の精神を受け継ぐ者たちだと考えたのです。彼らは非国教徒が主張する「良心の自由」を偽善的な口実だと考えました。それは宗教的・政治的な秩序を破壊し、無数の宗派の乱立と社会の分裂を招くだけだと。そのためトーリ党は審査法や自治体法といった法律を断固として擁護しました。非国教徒の公職からの排除を定めたこれらの法律は、国教会支配体制を守るための防波堤だったのです。 この強固な国教会中心主義は、トーリ党の支持基盤とも密接に関連していました。トーリ党の力は地方の教区を支配する国教会の聖職者と、彼らと密接な関係を持つ地方地主ジェントリの連合に根差していました。彼らは自分たちの地域社会における権威と影響力が、国教会の権威と一体であることを深く認識していたのです。ホイッグ党が都市の商人や非国教徒といった、より流動的で新しい社会階層に支持基盤を置いていたのとは対照的でした。 これらの原則、すなわち神授王権、受動的服従、世襲君主制、および国教会との一体性は、トーリ党の思想的骨格を形成しました。それは変化よりも安定を、個人の権利よりも共同体の秩序を、そして寛容よりも権威を重んじる、深く保守的な世界観でした。この世界観は1688年の名誉革命によって深刻な挑戦を受けることになります。
名誉革命とトーリ党の分裂
1685年、チャールズ2世が亡くなり、ジェームズ2世が即位しました。トーリ党がその継承を固守したヨーク公ジェームズです。当初トーリ党は歓喜に沸きました。彼らの長年の主張が実を結び、正統な国王が即位したのです。反逆的なホイッグ党の企みを打ち破って。ジェームズ2世もまた即位当初は約束をしました。臣民の権利と財産、およびイングランド国教会の地位を守ると。トーリ党が多数を占める「忠誠議会」が召集され、トーリ党の黄金時代が到来したかに見えました。 しかし、この蜜月関係は長くは続きませんでした。ジェームズ2世は単なるカトリック教徒ではありませんでした。彼はイングランドをカトリックに復帰させるという熱烈な野心を抱いていたのです。彼は自らの信念を、トーリ党が忠誠を誓う国教会体制よりも優先させました。この国王の行動はトーリ党を深刻な良心の危機へと追い込んでいきます。その存在意義そのものが問われる事態となったのです。
ジェームズ2世の親カトリック政策
ジェームズ2世は即位後すぐに親カトリック政策を推し進め始めました。彼はまず国王の「免除権」を用います。これは国王が特定の法律の適用を特定の個人に対して免除する権限です。彼は審査法を無視し、多くのカトリック教徒を軍や政府の要職に任命しました。審査法はトーリ党にとって国教会体制を守る生命線でした。国王によるこの公然たる挑戦は彼らに大きな衝撃を与えました。 さらにジェームズ2世は国王が法律全体の執行を一時的に停止する「停止権」を持つと主張します。そして1687年、「信仰自由宣言」を発布しました。カトリック教徒と非国教徒の双方に完全な信教の自由を与えるというものです。表向きは「寛容」を掲げたこの宣言の真の狙いは明らかでした。カトリック教徒を公職に就け、その地位を確立することにあったのです。 この宣言はトーリ党の根幹を揺るがしました。彼らは非国教徒への寛容にさえ反対してきたのです。今や自分たちが忠誠を誓う国王が、最も敵視するカトリック教徒に完全な市民権を与えようとしています。さらに悪いことに、ジェームズ2世はこの宣言を全ての国教会の教会で読み上げるよう命じました。説教壇からです。これは国教会の聖職者たちへの強制でした。自らの信念に反する国王の違法な政策を、神聖な場所で公認するよう強いられたのです。 カンタベリー大主教ウィリアム=サンクロフトを含む7人の主教が、この命令には従えないとする請願書を国王に提出しました。するとジェームズ2世は激怒し、彼らを扇動文書誹毀罪で逮捕しロンドン塔に投獄しました。国教会の最高指導者たちが、国教会を守護するはずの国王によって投獄される。前代未聞の事態が発生したのです。
トーリ党のジレンマ
この一連の出来事を通じて、トーリ党は絶望的なジレンマに陥りました。彼らが掲げてきた二つの中心的な原則が完全な矛盾に陥ったのです。「国王への無条件の忠誠」と「イングランド国教会の擁護」です。彼らが忠誠を誓うべき正統な国王が、まさに彼らが命をかけて守るべき国教会を内側から破壊しようとしています。この矛盾にトーリ党はどう対処すればよいのでしょうか。 「受動的服従」と「抵抗不可」の教義に従うなら、彼らはただ耐え忍ぶしかありません。国王の行動に不満を抱きつつもです。しかしそれでは国教会が解体され、イングランドがカトリック国家になるのを座して見ていることになります。一方で、もし国教会を守るために国王に抵抗するなら、それは「反逆」の罪を自ら犯すことを意味します。彼らがホイッグ党を非難してきたその罪をです。それはトーリ党の存在意義そのものの自己否定に他なりませんでした。 この苦悩の中でトーリ党は分裂し始めます。一部の強硬なトーリはあくまで抵抗不可の原則に固執しました。ジェームズ2世の行動を批判しつつも、彼への忠誠を捨てようとはしなかったのです。しかしトーリ党の指導層の多くは、もはやジェームズ2世の行動を座視できないと考えるようになっていました。特に1688年6月のジェームズ2世への王子誕生は決定的な転機となりました。これによりカトリックの王朝がイングランドに永続する可能性が現実のものとなったからです。
名誉革命への参加と分裂
追い詰められたイングランドのプロテスタント貴族たちは、ついに最後の手段に訴えることを決意します。1688年6月30日、7人の有力者が連名で一通の書簡をオランダに送りました。トーリ党のダンビー伯も含まれていました。宛先はオランダ総督ウィレム3世、英語名ウィリアムです。彼はジェームズ2世の娘メアリーの夫であり、自身もジェームズ2世の甥にあたるプロテスタントの英雄でした。書簡はウィリアムに対し、軍隊を率いてイングランドに来航するよう懇願するものでした。「自由な議会」が召集されるまで、国民の権利と宗教を守ってほしいと。 かつて国王への抵抗をあれほど非難したトーリ党の指導者が、外国の君主に軍事介入を要請する。この劇的な方向転換は、彼らが直面したジレンマの深刻さを物語っています。彼らは自らの行動を「反逆」ではないと正当化しようとしました。あくまで無法な国王から「国制を救う」ための、やむを得ない措置であると。 1688年11月、ウィリアムは軍を率いてイングランドに上陸します。ジェームズ2世の軍は次々とウィリアム側に寝返りました。ジェームズ2世は戦わずしてフランスへ亡命します。血をほとんど流すことなく体制転換が達成されたため、この一連の出来事は「名誉革命」と呼ばれます。 しかし革命の成功は、トーリ党の分裂を決定的なものにしました。革命後に召集された仮議会では、空位となった王位をどうするかをめぐり激しい議論が交わされました。ホイッグ党はジェームズ2世が王位を「放棄」したため王位は「空位」となり、議会が新しい国王を選ぶ権利があると主張しました。そしてウィリアムとメアリーを共同統治者として即位させることを提案します。 これに対しトーリ党は再び深刻なジレンマに直面しました。彼らの多くはジェームズ2世の政策には反対でした。しかし「国王は不正を行わない」という法原理や、世襲君主制の神聖さという原則から、議会が国王を廃位させるという考えを受け入れることができませんでした。一部のトーリは、ジェームズ2世は依然として正統な国王であり、ウィリアムは単に「摂政」として統治すべきだと主張しました。また別のトーリは、ジェームズ2世は自ら国を「去った」のであり、王位は自動的に次の継承者である娘のメアリーに移ったと主張し、ウィリアムが王位に就くことに反対しました。 最終的に多くのトーリは譲歩します。ウィリアムが、王位が与えられないなら軍と共にオランダに帰ると圧力をかけたためです。国の安定を優先し、不本意ながらもウィリアムとメアリーを共同統治者として承認することに同意しました。しかし一部の強硬なトーリ、特にカンタベリー大主教サンクロフトを含む聖職者たちは、新しい国王に忠誠を誓うことを拒否しました。ジェームズ2世への忠誠の誓いを破れないとして、その地位を追われたのです。彼らは「不宣誓派」と呼ばれました。そしてジェームズ2世とその子孫(ジャコバイト)を正統な君主と見なし続ける、トーリ党内の分派を形成しました。 名誉革命はトーリ党にとって自己矛盾に満ちた経験でした。彼らは自らが掲げた原則(抵抗不可)を破って革命に参加し、もう一つの原則(国教会の擁護)を守りました。および彼らが神聖視した正統な血統を、議会の決定が覆すという現実を受け入れざるを得ませんでした。この経験はトーリ党の思想に大きな変容を迫ります。そしてその後の党の歴史に、ジャコバイティズムという癒えない傷を残すことになったのです。
18世紀のトーリ党
名誉革命はイギリスの政治の枠組みを根本的に変えました。国王の権力は権利の章典などの法律によって大きく制限されます。そして議会、特に庶民院が国家統治の中心的な役割を担うようになりました。この新しい「革命体制」の中で、トーリ党は困難な課題に直面します。自らのアイデンティティと政治的立場を再定義するという課題です。18世紀を通じてトーリ党は長い不遇の時代を経験しました。野党として過ごし、ジャコバイティズムの嫌疑に苦しめられながらも、やがて新しい時代の保守主義へと脱皮していくことになります。
アン女王の治世とトーリ党の最後の輝き
ウィリアム3世とメアリー2世の統治時代(1689年から1702年)、トーリ党はどこか信頼の置けない党派と見なされがちでした。革命の原則に完全にはコミットできないと。彼らの多くはウィリアムが進めた対フランス戦争に批判的でした。そして「土地利益」つまり地主階級を代表して、戦争による重税に不満を表明しました。 しかし1702年にアンが女王として即位すると状況は一変します。メアリーの妹です。アン女王自身が敬虔な国教会信徒であり、強いトーリ的信条の持ち主でした。彼女の治世(1702年から1714年)はトーリ党にとって18世紀における最後の、および最も輝かしい黄金時代となりました。 ロバート=ハーレイやヘンリー=シンジョン(後のボリングブルック子爵)といった有能なトーリの政治家が政権の中枢を担い、党の政策を推し進めます。彼らは国教会の優位性を強化しようとしました。「機会的国教遵守」を禁止する法律を制定するなどです。これは非国教徒が公職に就くために年に一度だけ国教会の聖餐を受ける慣行でした。また対外的にはスペイン継承戦争の終結を目指しました。ホイッグ党が熱心に推進してきた戦争です。トーリ党は戦争が国家に重い負債をもたらし、その利益はホイッグ党と結びついた金融業者や商人に独占されていると批判しました。そして「土地利益」の代弁者として平和の実現を訴えたのです。1713年、彼らはついにユトレヒト条約を締結し、長く続いた戦争に終止符を打ちました。これはトーリ党の外交政策の大きな勝利でした。 しかし、このトーリ党政権の成功には影が差していました。アン女王の健康問題と、その後継者問題をめぐる党内の深刻な対立です。1701年の王位継承法は、アン女王の死後、王位はドイツのハノーファー選帝侯家に継承されることを定めていました。ステュアート家の血を引く最も近いプロテスタントの親戚です。しかしトーリ党員の中には、このハノーファー家への継承に強い抵抗を感じる者が少なくありませんでした。彼らの心の中には、依然として正統な君主への思いがくすぶっていたのです。フランスに亡命しているジェームズ2世の息子、ジェームズ=フランシス=エドワード=ステュアート(「老僭王」)こそが血統上の正統な君主であると。 政権の指導者であったボリングブルックは、アン女王の死が近づくにつれ、このジャコバイト派の感情を利用しようと画策したとも言われています。ハノーファー家への継承を阻止し、老僭王をプロテスタントに改宗させることを条件に王位に就けようと。しかし彼の計画は実現しませんでした。党内の意見の不一致と、1714年8月のアン女王の突然の死によってです。
ハノーヴァー朝と「トーリの追放」
1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒがジョージ1世として即位し、ハノーヴァー朝が始まりました。新しい国王はトーリ党を全く信用していませんでした。彼らの指導者たちが自らの王位継承を妨害しようと陰謀を企てていたことを知っていたからです。ジョージ1世はホイッグ党こそが信頼できる唯一の党派だと判断しました。革命体制とハノーヴァー朝の王位継承を支える存在だと。そして政権のあらゆる要職からトーリ党員を追放しました。 さらに1715年にスコットランドで大規模なジャコバイトの反乱が起こります。するとトーリ党全体に強い嫌疑がかけられました。反逆者への共感を抱いているのではないかと。ボリングブルックをはじめとする一部のトーリ指導者が実際に反乱に加担し大陸へ亡命したことで、この嫌疑は決定的なものとなりました。 こうしてトーリ党は長い「政治の荒野」をさまようことになります。1714年から約半世紀にわたり中央政界から完全に排除されたのです。この時代、ロバート=ウォルポール卿を中心とするホイッグ党が長期安定政権を築き上げました。国王の信任を背景にです。これは「ホイッグ優位」の時代として知られています。 中央政界から締め出されたトーリ党は、議会で万年野党の立場に甘んじるしかありませんでした。政府のあらゆる政策に反対する存在です。彼らはウォルポール政権の腐敗や増大する国債を非難しました。および国王がイギリスよりもハノーファーの利益を優先していると攻撃したのです。「カントリー党」の伝統的なレトリックを用いました。彼らの支持基盤は依然として地方のジェントリや国教会の聖職者たちでした。彼らは中央のホイッグ支配に強い不満を抱いていました。しかしジャコバイティズムの汚名を着せられていた彼らに、政権を奪還する力はありませんでした。 この不遇の時代に、トーリ党の思想家として活動したのがボリングブルックでした。かつて政権を追われた人物です。彼は『党派に関する論考』や『愛国王の理念』といった著作を著しました。その中で新しい政治理念を提唱します。トーリとホイッグという党派対立そのものを乗り越え、党派的利益ではなく国家全体の利益のために尽くす「愛国王」の下で、全ての有徳な人々が結集すべきであると。彼の思想は当時の政治状況を打開するには至りませんでした。しかし後の世代のトーリ、特にジョージ3世の政治思想に大きな影響を与えることになります。
ジョージ3世とトーリ党の復活
トーリ党が長い冬の時代を終え、再び政治の中央舞台に復帰するきっかけは1760年のジョージ3世の即位でした。イギリスで生まれ育った最初のハノーヴァー朝の国王です。彼は祖父や曾祖父とは異なり、ホイッグ党の一党支配を快く思っていませんでした。彼はボリングブルックの『愛国王の理念』に影響を受け、自らを特定の党派を超える存在と位置づけます。および党派にとらわれず有能な人物を登用し、自ら政治を主導しようとしました。 ジョージ3世は「国王の友」と呼ばれる政治家グループを形成します。国王個人に忠誠を誓う人々です。彼は長年続いたホイッグ優位の体制を切り崩しにかかりました。この過程で、かつてのトーリ党員やその子孫たちが、徐々に政府の役職に復帰する道が開かれます。彼らはもはやかつてのようなジャコバイトではありませんでした。ハノーヴァー朝の正統性を完全に認めた上で、国王の権威を尊重し安定した統治を支える、新しいタイプの保守主義者となっていたのです。 そして1770年にノース卿が首相に就任すると、事実上のトーリ党政権が復活したと見なされるようになりました。ノース卿政権はアメリカ植民地との対立が激化する中で、国王ジョージ3世の意向を強く反映します。そして植民地に対する強硬な政策を推し進めました。しかしこの政策は悲惨な結果を招きます。アメリカ独立戦争の勃発と、その敗北です。 アメリカの喪失はノース卿政権と、それを支えた国王の政治指導に深刻な打撃を与えました。しかしこの危機の中から新しい指導者が登場します。トーリ党を近代的な保守党へと生まれ変わらせる人物です。それがウィリアム=ピット(小ピット)でした。 1783年、わずか24歳で首相に就任したピットは、新しい時代の要請に応える政策を打ち出しました。彼はかつてのトーリ党の伝統である「国王への忠誠」と「国教会の擁護」を堅持します。しかし同時にアダム=スミスの経済思想を取り入れ、行財政改革や自由貿易を推進したのです。彼は古いトーリの地主階級だけでなく、新しい商工業者階級からの支持も集めることに成功しました。産業革命によって勃興しつつあった階級です。 さらに1789年にフランス革命が勃発すると、ピット政権は国内の急進主義的な運動を厳しく弾圧しました。革命思想がイギリスに波及することを警戒したのです。エドマンド=バークが『フランス革命の省察』で展開した保守主義の思想が、ピットの新しいイデオロギー的基盤となりました。伝統や秩序、既存の制度を尊重し、急進的な変革の危険性を警告する思想です。フランス革命の恐怖は多くの土地所有貴族や中間層をピット政権の支持へと向かわせました。秩序と安定の守護者としてです。こうしてピットの下でトーリ党はその姿を変えていきました。単なる国王の支持勢力や地方の地主の代弁者から、国民的な「保守」勢力へと。国家の伝統的な制度、財産、および宗教を、内外の急進主義から守ることを使命とする存在になったのです。
近代保守党への変容
19世紀に入るとイギリスは産業革命の進展によって、かつてないほどの経済的・社会的変革の時代を迎えます。新しい工業都市の出現、工場労働階級の増大、および中産階級の台頭は、18世紀までの土地所有者中心の社会構造を根底から揺るがしました。および政治の世界にも新たな課題を突きつけます。フランス革命とナポレオン戦争という巨大な嵐を乗り切ったトーリ党は、この新しい時代に対応するため、自らを再び変革していくことを迫られました。それは古い「トーリ」の殻を破り、近代的な「保守党」へと脱皮する過程でした。
ナポレオン戦争後の反動と「リベラル・トーリ」
ナポレオン戦争の終結(1815年)はイギリスに勝利の栄光をもたらしました。しかし同時に深刻な経済不況と社会不安をもたらします。復員した兵士たちによる失業、穀物価格の変動、および劣悪な労働条件。これらに苦しむ労働者たちの不満は、急進的な政治改革を求める運動となって噴出しました。 リヴァプール伯を首相とするトーリ党政権は、この社会不安に極めて強硬な姿勢で臨みます。彼らは国内の騒乱をフランス革命の再来と恐れました。および抑圧的な政策を次々と実行します。集会の自由を制限する「六法」の制定(1819年)や、マンチェスターでの「ピータールーの虐殺」(1819年)などです。後者は改革を求める民衆の集会を軍隊が弾圧した事件でした。この時代、トーリ党は変化を拒み、既存の秩序を力で維持しようとする反動的な勢力の代名詞と見なされました。 しかし1820年代に入ると、トーリ党内から新しい世代の政治家たちが台頭します。彼らはこうした単純な反動政策からの転換を模索し始めました。ジョージ=カニング(外相)、ロバート=ピール(内相)、ウィリアム=ハスキソン(商務相)といった人々です。彼らは「リベラル・トーリ」と呼ばれ、時代の変化に合わせた穏健でプラグマティックな改革の必要性を認識していました。 ピールは首都警察の創設や刑法の合理化など、近代的な行政改革を断行しました。ハスキソンはピットの自由貿易の理念を受け継ぎ、関税の引き下げを進めます。カニングはヨーロッパの反動的な神聖同盟とは一線を画しました。ラテンアメリカ諸国の独立を承認するなど、イギリスの国益を重視したより自由主義的な外交を展開したのです。 彼らの改革は、トーリ党が単なる抑圧と反動の党ではないことを示そうとする試みでした。新しい時代の要請に応える能力があることを証明しようとしたのです。そしてこのリベラル・トーリの改革の中でも、最も象徴的で、かつ党のアイデンティティを揺るがす大きな決断がありました。宗教的差別の緩和です。1828年、トーリ党政権は審査法と自治体法を廃止しました。長年党是としてきた法律です。これによりプロテスタント非国教徒に完全な市民権を認めました。さらに翌1829年、ピールと首相のウェリントン公爵は「カトリック解放法」を成立させます。アイルランドの内戦の危機を前に、党内の猛烈な反対を押し切っての決断でした。カトリック教徒の政治参加への道がこうして開かれたのです。 これらの改革は、トーリ党が大きく舵を切ったことを意味しました。かつての国教会絶対の原則から、より寛容で多元的な社会を受け入れる方向へです。しかしそれは同時に、党内の強硬な「ウルトラ・トーリ」たちの激しい反発を招きました。党の分裂を深める結果ともなったのです。
第一次改革法とピールの「タムワース宣言」
カトリック解放をめぐる混乱で弱体化したトーリ党政権は、1830年に総辞職しホイッグ党に政権を明け渡しました。ホイッグ党政権が掲げた最大の課題は選挙制度の抜本的改革でした。産業革命によって変化した社会の実態に合わせ、不合理で腐敗した制度を改めることです。 トーリ党はこの「第一次選挙法改正」に激しく抵抗しました。国制の根幹を破壊するものだと考えたのです。彼らは「腐敗選挙区」の存在も国制の多様性の一部だと主張しました。人口がほとんどいない選挙区です。それを人口比という画一的な原理で再編することは財産権の侵害であり、やがては民主主義の暴走につながると警告しました。しかし改革を求める国民の声は圧倒的でした。貴族院の抵抗も国王の圧力によって覆され、1832年、ついに第一次改革法は成立します。 この敗北はトーリ党にとって壊滅的な打撃でした。改革後の最初の総選挙で党の議席は激減し、もはや政治勢力として消滅の危機に瀕したのです。この絶望的な状況の中から党を再建し、新しい時代に適合させるという重責を担ったのがロバート=ピールでした。 1834年12月、ピールは自らの有権者に向けて公開書簡を発表します。「タムワース宣言」として知られるものです。これは近代保守党の創立マニフェストとも言える、極めて重要な文書でした。 この中でピールは1832年の改革法を、最終的で不可逆的な「国制の解決」として受け入れると明言しました。彼はもはや失われた過去を取り戻そうとする無益な抵抗はやめると宣言します。および新しい政治の枠組みの中で、保守主義の原則を追求していくと述べたのです。 そして彼は新しい「保守主義」の理念を定義しました。それは証明された弊害を反映し、時代の変化に対応するための「慎重な改革」を受け入れるものであると。しかしそれは同時に、国家の古来の制度や、宗教と財産という社会の二本の柱を「保守する」ことを中核的な使命とする。つまりピールの保守主義とは、盲目的な反動ではありませんでした。「変化を通じて保存する」という、新しい時代の保守哲学だったのです。 このタムワース宣言によって、ピールは党の名称も事実上転換させました。「トーリ」から、より近代的で包括的な響きを持つ「保守党」へと。彼は古いトーリの地主階級だけでなく、都市の中産階級にもアピールしました。改革によって選挙権を得た人々です。彼らが秩序と安定を望む、本質的に「保守的」な存在であることを見抜いていました。ピールは保守党を再生させるための明確なビジョンを提示したのです。単なる反動勢力から、責任ある統治能力を持つ国民的な政党へと。
穀物法廃止と党의 再分裂
ピールの指導の下、保守党は着実に力を回復します。および1841年の総選挙で勝利し、ピールは再び首相の座に就きました。彼の第二次政権は近代保守党政権の最初の輝かしい成功例となりました。所得税の導入による財政再建や、さらなる関税引き下げなど、有能で効率的な行政を特徴としました。 しかしピール政権は、その成功の絶頂において再び党を二分する深刻な対立に直面します。その原因となったのが「穀物法」の廃止問題でした。穀物法は外国産の安い穀物の輸入を制限する法律です。国内の穀物価格を一定水準に保つためのもので、地主階級の利益を守るトーリおよび保守党の伝統的な政策の象徴でした。 しかし1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生すると、食料価格の高騰が深刻な社会問題となります。ピールは穀物法の廃止こそが唯一の解決策だと確信するに至りました。人道的な見地と、自由貿易こそが国家の繁栄につながるという経済的信念からです。 この決断は保守党の支持基盤である地主階級への裏切り行為と見なされました。ベンジャミン=ディズレーリといった若手議員に率いられた党内の保護貿易派は、ピールに対して激しい反乱を起こします。「カントリー党」の伝統を掲げてです。彼らはピールが党の最も神聖な原則を捨て、敵の主張に屈したと非難しました。敵とはホイッグ党や、リチャード=コブデンら急進派の産業資本家です。 1846年、ピールはホイッグ党の支持を得て穀物法廃止法案を可決させることに成功しました。しかしその直後、彼は内閣不信任を突きつけられ辞職に追い込まれます。自党の反乱派とホイッグ党の連合によってでした。 穀物法廃止は保守党に深刻な分裂をもたらしました。カトリック解放以来の、あるいはそれ以上に深刻なものです。ピールと彼に従った「ピール派」の議員たちは党を離脱します。およびやがてホイッグ党や急進派と合流し、後の「自由党」の母体の一部となっていきました。一方、ディズレーリとダービー伯に率いられた保守党の主流派は議会の少数派に転落し、再び長い野党の時代へと入っていきます。 しかしこの分裂は、長い目で見れば避けては通れない道でした。保守党が古い地主階級の利益団体から、より幅広い国民各層の利益を代表する近代的な政党へと完全に脱皮するためにです。ピールは党を去りました。しかし彼がタムワース宣言で示した「慎重な改革」と「責任ある統治」という理念は、ディズレーリという全く異なるタイプの指導者に受け継がれます。および新たな形で、ヴィクトリア朝後期の保守党の新しいアイデンティティを形作っていくことになるのです。トーリ党の歴史はここで一つの大きな区切りを迎え、保守党の新しい時代が始まります。