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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

ゴイセンとは わかりやすい世界史用語2583

著者名: ピアソラ
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ゴイセンとは

ゴイセンは、16世紀後半のネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを含む低地諸国)において、スペイン=ハプスブルク家の圧政とカトリック教会の強制に対して立ち上がった反乱者たちを指す呼称です。元々は「乞食ども」を意味する侮蔑的な言葉でしたが、反乱者たちはこれを誇りを持って自称し、やがてオランダ独立戦争(八十年戦争)を戦い抜く抵抗運動の象徴となりました。ゴイセンの活動は、陸上の「森のゴイセン」と、特に歴史的に重要な役割を果たした海上の「海のゴイセン」に大別されます。
呼称の起源

「ゴイセン」という名の誕生は、1566年4月5日の出来事に遡ります。この日、ネーデルラントの約250名の下級貴族たちが、ブリュッセルにあった摂政マルゲリータ=ディ=パルマの宮殿に行進し、スペイン国王フェリペ2世による過酷な異端審問の停止と、ネーデルラントの伝統的な諸特権の尊重を求める請願書を提出しました。
伝説によれば、この貴族たちの行列を見た摂政マルゲリータは不安を隠せませんでした。そのとき、彼女の側近であったシャルル=ド=ベルレーモン伯爵が、「陛下、このような乞食どもを恐れるに及びません」とフランス語で囁き、彼女を安心させようとしたと言われています。この侮蔑的な言葉が、請願のために集まっていた貴族たちの耳に入りました。
この出来事から三日後の4月8日、貴族たちは再び集まり、祝宴を開きました。その席で、指導者の一人であったブレデローデ伯ヘンドリックは、ベルレーモンの侮蔑的な言葉を逆手に取ることを提案します。彼は、自分たちが国王に忠誠を誓いながらも、国の自由のために「乞食」となることを宣言しました。そして、木製の乞食用の椀を掲げ、仲間たちと共に「国王万歳、乞食万歳!」と叫んだのです。彼らは、灰色の質素な服をまとい、首からは乞食の椀と財布を模したメダルを下げ、自らを「ゴイセン(乞食党)」と名乗るようになりました。
こうして、元々は貴族たちを貶めるための言葉であった「ゴイセン」は、圧政に抵抗する者たちの誇り高いシンボルへと劇的に転換しました。それは、スペイン王権の傲慢さに対する反骨精神の表明であり、ネーデルラントの自由のために財産や地位を犠牲にすることも厭わないという決意の象徴となったのです。この名は、やがて貴族だけでなく、スペインの支配に反抗するすべてのネーデルラントの愛国者を指す言葉として、広く使われるようになっていきました。
ネーデルラントの不満

ゴイセンの反乱が起こった背景には、16世紀半ばのネーデルラントに蓄積されていた、政治的、宗教的、そして経済的な三重の深刻な不満がありました。
政治的な対立=中央集権化への抵抗

ネーデルラント17州は、中世以来、それぞれが独自の法律、慣習、そして特権を持つ、半ば独立した共同体の連合体でした。ブルゴーニュ公、そしてその後を継いだハプスブルク家の君主たちは、これらの州の領主として君臨していましたが、その統治は各地の特権を尊重し、州議会や都市の代表者との協議を通じて行われるのが常でした。
しかし、ネーデルラントで生まれ育ち、現地の言葉や文化に精通していたカール5世とは対照的に、その息子であるフェリペ2世は、スペインで育ち、ネーデルラントの伝統や気風を全く理解しようとしませんでした。彼は、カスティーリャの絶対君主制をモデルとし、ネーデルラントをスペイン帝国の他の属領と同様に、マドリードから直接統治する中央集権的な体制を築こうとしました。
フェリペ2世は、ネーデルラントの統治を腹心のグランヴェル枢機卿に委ね、現地の高等貴族たちを統治の中枢から排除しました。オラニエ公ウィレム(沈黙公)、エフモント伯、ホールン伯といった有力貴族たちは、自分たちの伝統的な政治的役割が奪われたことに強く反発しました。さらに、フェリペ2世が計画した教区再編は、国王の息のかかった司教を増やすことで、教会組織を通じて中央の統制を強化しようとするものであり、これもまた地方の自治権を脅かすものとして、貴族と聖職者の双方から強い抵抗に遭いました。ゴイセンの反乱は、このようなスペイン王権による一方的な中央集権化政策に対する、ネーデルラントの伝統的な地方分権と自治を守るための戦いという側面を強く持っていたのです。
宗教的な抑圧

16世紀のネーデルラントは、ヨーロッパにおける印刷と商業の中心地の一つであり、宗教改革の新しい思想が急速に広まる土壌がありました。当初はルター派や再洗礼派が影響力を持っていましたが、1540年代以降、フランスからジャン=カルヴァンの教えが伝わると、特に南部ネーデルラント(現在のベルギー)のワロン地域の都市部や、商工業が盛んなフランドル地方で、カルヴァン主義が爆発的に広まっていきました。
カルヴァン主義は、その厳格な教義と、長老制に基づく強固な教会組織によって、多くの市民や職人、そして一部の貴族の心を捉えました。彼らは、ローマ=カトリック教会の腐敗を批判し、聖書に基づいた純粋な信仰を求めました。
これに対し、敬虔なカトリック教徒であったフェリペ2世は、プロテスタンティズムを神に対する冒涜であり、国家の統一を脅かす危険な異端と見なしました。彼は、父カール5世が導入した異端審問の制度をさらに強化し、「血の勅令」と呼ばれる厳しい法令を用いて、プロテスタントを容赦なく弾圧しました。異端の疑いをかけられた者は、裁判なしに火刑や斬首に処せられ、その財産は没収されました。
この過酷な宗教弾圧は、プロテスタント信徒だけでなく、カトリック教徒の中からも多くの批判を呼びました。彼らは、たとえプロテスタントの教えに同意しなくとも、個人の良心の問題に国家が介入し、自国民をこれほど残忍に処罰することに強い嫌悪感を抱いたのです。1566年の貴族たちの請願も、直接的にはこの非人道的な異端審問の停止を求めるものでした。宗教的寛容を求める声が、宗派を超えて広まっていたのです。
経済的な危機

1560年代半ば、ネーデルラントは深刻な経済危機に見舞われました。バルト海での紛争により、ネーデルラントの経済を支える穀物の輸入が途絶え、食糧価格が高騰しました。加えて、イングランドとの羊毛貿易をめぐる対立が、主要産業であった毛織物業に大打撃を与え、アントワープなどの都市では多くの失業者を生み出しました。
このような経済的な苦境は、社会不安を増大させ、民衆の不満をスペイン政府へと向かわせました。重税を課しながら、民衆の生活を守ろうとしないスペインの統治に対する怒りが、宗教的な対立と結びつき、爆発寸前の状態に達していました。多くの人々にとって、カルヴァン主義の説教は、現世の苦しみからの解放と、より公正な社会への希望を与えるものとして響いたのです。
反乱の展開とゴイセンの活動

1566年の「乞食党」の結成と貴族たちの請願行動は、反乱の序章に過ぎませんでした。事態は、同年の夏に起こった「聖像破壊運動(ビルダーシュトルム)」によって、決定的に暴力的な段階へと移行します。
聖像破壊運動とアルバ公の恐怖政治

1566年8月、フランドル地方の野外で開かれたカルヴァン派の説教集会をきっかけに、興奮した民衆がカトリック教会を襲撃し、聖人像や祭壇、ステンドグラスといった「偶像」を破壊する運動が始まりました。この運動は、ネーデルラント全域に燎原の火のごとく広がり、数百の教会や修道院が破壊の対象となりました。これは、カトリック教会の権威と富に対する、積年の怒りが爆発したものでした。
この大規模な暴動の報に激怒したフェリペ2世は、ネーデルラントの反乱を徹底的に鎮圧するため、最も有能かつ冷酷な将軍として知られていたアルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドを、1万の精鋭部隊と共に派遣することを決定します。
1567年、ブリュッセルに到着したアルバ公は、摂政マルゲリータを事実上解任し、軍事独裁を開始しました。彼は、「騒擾評議会」という名の特別法廷を設置します。この法廷は、その過酷さから、ネーデルラントの人々から「血の評議会」と恐れられました。アルバ公は、聖像破壊に関与した者だけでなく、スペインの支配に批判的だった人々を次々と捕らえ、裁判なしで処刑していきました。その犠牲者は数千人に上り、その中には、カトリック教徒でありながらネーデルラントの自治を擁護していたエフモント伯やホールン伯といった大貴族も含まれていました。彼らの見せしめとしての処刑は、ネーデルラントの貴族階級に大きな衝撃を与えました。
オラニエ公ウィレムは、アルバ公が到着する直前にドイツの領地へと逃れ、難を逃れました。アルバ公はウィレムの財産を没収し、彼を反逆者として断罪しました。ここに至り、ウィレムはスペイン王権との和解の道を断念し、武力によってネーデルラントを解放することを決意します。アルバ公による恐怖政治は、反乱の火を消すどころか、むしろネーデルラントの人々をオラニエ公ウィレムの下での武装抵抗へと駆り立てる結果となったのです。
森のゴイセンと海のゴイセン

アルバ公の弾圧から逃れた反乱者たちは、二つのグループに分かれて抵抗活動を続けました。それが「森のゴイセン」と「海のゴイセン」です。
「森のゴイセン」は、主に南部のフランドルやブラバント地方の森林や沼沢地を拠点としたゲリラ部隊でした。彼らは、故郷を追われた農民、職人、そして下級貴族たちで構成され、スペイン軍の小部隊や輸送隊を襲撃したり、王に忠誠を誓う聖職者や役人を標的にしたりしました。彼らの活動は、スペインの支配地域に絶え間ない混乱をもたらしましたが、組織化された軍事力とはなり得ず、その影響力は局地的なものにとどまりました。
一方、ネーデルラントの独立闘争において、より決定的で戦略的な役割を果たしたのが、「海のゴイセン」でした。彼らは、アルバ公の弾圧を逃れて海上に活路を見出した船乗り、漁師、商人、そして亡命貴族たちで構成された私掠船団でした。オラニエ公ウィレムは、1569年に彼らに私掠免許状を与え、スペインの船舶や、スペインに協力する都市の船を拿捕し、その積荷を没収する権限を認めました。これにより、海のゴイセンは、単なる海賊ではなく、オラニエ公の指揮下にある非正規の海軍としての性格を帯びるようになります。
海のゴイセンの艦隊は、イングランドのドーヴァーや、ドイツのエムデンといった、スペインの支配が及ばない港を拠点としました。彼らは、ネーデルラント沿岸の複雑な水路を知り尽くしており、喫水の浅い小型の高速船を駆使して、スペインの大型ガレオン船を翻弄しました。彼らの主な活動は、スペイン本国からネーデルラントへ送られる兵員や資金、物資を積んだ船を襲撃することでした。この海上封鎖は、アルバ公の軍隊を経済的に締め上げ、その活動を大いに妨害しました。
海のゴイセンは、その勇敢さで知られる一方で、その残忍さでも恐れられていました。彼らは、拿捕した船の乗組員、特にカトリックの聖職者に対しては容赦がなく、しばしば残酷な方法で殺害しました。1572年にブリールを占領した際には、ゴルクムの町で捕らえた19人のカトリック聖職者(ゴルクムの殉教者)を拷問の末に処刑するなど、その行動は宗教的憎悪に満ちていました。彼らの戦いは、自由のための聖戦であると同時に、カトリックに対する復讐戦でもあったのです。
ブリエルの占領とホラント=ゼーラントの反乱

オランダ独立戦争の転換点となったのは、1572年4月1日の出来事でした。この年、イングランドのエリザベス1世は、スペインとの関係改善を図るため、イングランドの港に停泊していた海のゴイセンの艦隊に退去を命じました。ウィレム=ファン=デル=マルク提督に率いられた約25隻の船団は、新たな拠点を求めてネーデルラント沿岸をさまようことを余儀なくされます。
そして4月1日、彼らは偶然にも、マース川の河口に位置する港町ブリール(現在のブリエル)が無防備であることに気づきます。スペインの守備隊は、ユトレヒトで起こった反乱を鎮圧するために出払っていました。海のゴイセンはこの好機を逃さず、町を急襲し、ほとんど抵抗を受けることなく占領に成功しました。彼らは町の城壁に、オラニエ公の旗であるオレンジ、白、青の三色旗を掲げました。これは、反乱軍がネーデルラントの領土内に、初めて恒久的な拠点を確保した瞬間でした。
ブリールの占領成功のニュースは、瞬く間にネーデルラント全土に広まりました。アルバ公の圧政と重税に苦しんでいたホラントとゼーラントの諸都市は、これを機に次々と反乱に立ち上がり、スペインの守備隊を追放して、オラニエ公ウィレムを正統な総督(スタットハウダー)として承認しました。数ヶ月のうちに、ホラント州のほとんどの主要都市(アムステルダムを除く)が反乱軍の側に寝返りました。
このホラントとゼーラントの反乱は、ゴイセンの闘争の性格を根本的に変えました。彼らはもはや、海をさまよう亡命者の集団ではなく、解放区を拠点とし、組織化された抵抗運動の中核をなす陸海軍となったのです。オラニエ公ウィレムは、亡命先のドイツからホラントに戻り、反乱の指導者としてその指揮を執りました。海のゴイセンの艦隊は、反乱州の正規海軍へと再編され、スペイン軍による海上からの攻撃を防ぎ、反乱都市への補給路を確保するという、極めて重要な役割を担うことになります。
スペインの反撃とゴイセンの抵抗

ホラントとゼーラントの反乱に対し、アルバ公は猛烈な反撃を開始しました。彼は、メヘレンやズトフェンといった都市を占領し、住民を虐殺することで、他の都市に見せしめとしました。しかし、この恐怖政治は、反乱都市の抵抗の意志をくじくどころか、むしろ絶望的なまでの覚悟を固めさせる結果となりました。
ハールレムの包囲とアルクマールの解放

1572年12月、アルバ公の息子ドン=ファドリケが率いるスペイン軍は、ホラント州の主要都市ハールレムの包囲を開始しました。ハールレムの市民は、ケナウ=ハッセラールという勇敢な女性に率いられた市民兵と共に、7ヶ月間にわたって英雄的な抵抗を続けました。しかし、食糧が尽き、外部からの援軍も絶たれた結果、1573年7月、ハールレムはついに降伏します。スペイン軍は、降伏の際の約束を破り、守備兵や市民数千人を処刑しました。
ハールレムでの勝利に勢いを得たスペイン軍は、次に北ホラントの小都市アルクマールへと向かいました。しかし、アルクマールの市民は、ハールレムの悲劇を繰り返すまいと、徹底抗戦を決意します。彼らは、オラニエ公の許可を得て、最終手段に打って出ました。それは、町の周囲の堤防を決壊させ、自らの土地を水浸しにすることでした。この水攻めによって、スペイン軍は包囲を続けることが不可能となり、ついに撤退を余儀なくされました。アルクマールの勝利は、「勝利はアルクマールに始まる」という言葉を生み、反乱軍に大きな希望を与えました。
ライデンの解放

オランダ独立戦争におけるゴイセンの抵抗を象徴する最も劇的な出来事が、1574年のライデン包囲戦とその解放です。ライデンは、ホラント州の中心に位置する重要な大学都市であり、スペイン軍にとって、この都市を落とすことは反乱の心臓部を叩くことを意味しました。
1573年10月から始まった包囲は、一度中断された後、1574年5月に再開され、町は完全に孤立しました。食糧はすぐに底をつき、市民は飢餓と疫病によって次々と倒れていきました。数ヶ月の間に、人口の3分の1近くが命を落としたと言われています。スペイン軍は降伏を勧告しましたが、市長ピーテル=ファン=デル=ウェルフは、「我々が飢えているなら、この左腕を食え。だが降伏はしない」と述べ、市民を鼓舞したと伝えられています。
絶望的な状況の中、オラニエ公ウィレムは、アルクマールで成功したのと同じ、大胆な作戦を決断します。それは、マース川とエイセル川の堤防16ヶ所を破壊し、ホラント州南部一帯を広範囲にわたって水没させ、海のゴイセンの艦隊を内陸のライデンまで到達させるというものでした。これは、豊かな農地を犠牲にする、まさに乾坤一擲の賭けでした。
1574年8月、堤防は破壊され、海のゴイセンの提督ルイ=ド=ボイソが率いる、平底の小舟約200隻からなる艦隊が、ライデンを目指して進み始めました。しかし、水位の上昇は遅く、風向きも悪かったため、艦隊の進軍は困難を極めました。彼らは、水没した土地に点在するスペイン軍の砦を一つ一つ攻略しながら、少しずつ前進しました。
ライデン市内の飢餓は限界に達していました。しかし、10月2日の夜、風向きが変わり、強い北西の風が吹き始めました。これにより、北海の水が内陸へと一気に流れ込み、水位が急上昇しました。この突然の洪水に驚いたスペイン軍は、パニックに陥り、陣地を放棄して逃走しました。
10月3日の朝、海のゴイセンの艦隊は、ついにライデンの城壁に到達しました。彼らは、パンとニシンを飢えた市民に配り、町の解放を祝いました。伝説によれば、オラニエ公ウィレムは、この英雄的な抵抗に報いるため、ライデン市民に、税の免除か大学の設立かを選ばせ、市民は大学を選んだと言われています。こうして設立されたライデン大学は、その後、ヨーロッパにおけるカルヴァン主義神学と人文科学研究の中心地として、世界的な名声を得ることになります。
ライデンの解放は、ゴイセンの不屈の精神と、ネーデルラントの地理的特徴を最大限に利用した戦術の輝かしい勝利でした。それは、スペインの無敵艦隊でさえも、ネーデルラントの「水」という将軍には勝てないことを証明したのです。
ゴイセンの遺産

1576年のヘントの和約によって、ネーデルラント17州は一時的に団結し、スペイン軍の撤退を要求しましたが、宗教的な対立から、南部諸州(カトリック)と北部諸州(プロテスタント)は再び分裂します。1579年、北部7州はユトレヒト同盟を結成し、事実上の独立国家ネーデルラント連邦共和国の基礎を築きました。
この新しい共和国の建国過程において、ゴイセン、特に海のゴイセンが果たした役割は計り知れません。彼らは、反乱の初期段階において、スペインの圧倒的な軍事力に対して抵抗の火を灯し続け、ブリールの占領によって闘争の転換点を作り出しました。彼らが確保したホラントとゼーラントの解放区は、オランダ共和国の揺りかごとなりました。彼らの海上での活躍は、後の強力なオランダ海軍の礎を築き、17世紀の「黄金時代」におけるオランダの海上覇権へと繋がっていきます。
「ゴイセン」という言葉は、オランダの歴史と国民意識の中に深く刻み込まれています。それは、外国の圧政に対する抵抗、自由と独立への渇望、そして逆境に屈しない不屈の精神の象徴です。毎年4月1日には、ブリエルの町でゴイセンによる町の解放を祝う祭りが盛大に行われ、その歴史的記憶が受け継がれています。
また、ゴイセンのメダルに刻まれたスローガン「国王に忠実、乞食になるまで」は、後に「トルコ人になる方が、教皇派になるよりましだ」という、より過激なスローガンへと変化しました。これは、同じ一神教でありながらカトリック教会とは敵対していたオスマン帝国に、スペインと戦う同盟者としての期待を寄せたものであり、当時のゴイセンの反カトリック感情の激しさを示しています。

ゴイセンは、16世紀ネーデルラントのスペイン支配に対する抵抗運動の中から生まれた、多様な人々の集団でした。その名は、支配者による侮蔑の言葉を、誇りある抵抗のシンボルへと転換させた彼らの反骨精神を物語っています。政治的自由、宗教的寛容、そして経済的安定を奪われたネーデルラントの人々の不満が、彼らを武装闘争へと駆り立てました。
特に「海のゴイセン」は、その神出鬼没の私掠活動によってスペインの軍事行動を妨害し、ブリールの占領によってオランダ独立戦争の決定的な転機をもたらしました。彼らの英雄的な抵抗は、アルクマールやライデンの解放といった奇跡的な勝利を生み出し、絶望の淵にあった反乱軍を鼓舞し続けました。その活動は、時に残忍で無慈悲な側面も持ち合わせていましたが、彼らの不屈の闘いがなければ、ネーデルラント連邦共和国、すなわち現代オランダ国家の誕生はあり得なかったでしょう。
ゴイセンの物語は、抑圧された民衆が、自由を求めて強大な帝国に立ち向かった、ヨーロッパ史における最も劇的なエピソードの一つです。「乞食」を自称した彼らの闘いは、国家の独立と個人の尊厳を勝ち取るための、長く困難な道のりの始まりを告げるものでした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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