ラブレーとは
フランソワ=ラブレーは、16世紀フランス=ルネサンスの喧騒と知的興奮のただ中を生きた、まさに巨人とも言うべき存在です。彼の名は、その不朽の傑作『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の物語と分かちがたく結びついていますが、その生涯は作家という一つの肩書に収まるものではありませんでした。彼は聖職者であり、卓越した医師であり、当代随一のギリシャ学者であり、そして何よりも、旧弊な権威や偽善を笑い飛ばす、飽くなき探求心と自由な精神の持ち主でした。彼の人生の軌跡をたどることは、宗教改革の嵐が吹き荒れ、人文主義(ヒューマニズム)の新しい光がヨーロッパを照らし始めた、激動の時代の精神史そのものを探訪する旅に他なりません。
謎に包まれた出自と修道院での青春:知的探求の始まり(1483年頃-1527年)
フランソワ=ラブレーの生涯の初期については、多くのことが謎のヴェールに包まれています。彼の正確な生年は確定しておらず、研究者の間でも1483年頃から1494年頃まで、様々な説が提唱されています。しかし、近年の研究では、1483年頃とする説が有力視される傾向にあります。彼の出生地は、フランス中西部のトゥーレーヌ地方、シノン近郊のラ=ドヴィニエールという名の荘園であったと広く信じられています。彼の父、アントワーヌ=ラブレーは、この荘園を所有する裕福な法律家であり、シノンの司法官を務めるなど、地方の名士でした。この恵まれた家庭環境が、若きラブレーが高度な教育を受けるための経済的基盤となったことは間違いありません。
彼の幼少期や初等教育に関する具体的な記録はほとんど残っていませんが、おそらくは家庭教師につくか、近隣の教会学校でラテン語の基礎を学んだものと推測されます。そして、青年期に達したラブレーは、聖職者としての道を歩むべく、フランシスコ会の修道院に入ります。彼が最初に入ったのは、故郷シノンからほど近いラ=ボメットの修道院であったと考えられています。その後、より学問的な環境を求めて、ポワトゥー地方のフォントネー=ル=コントにあるフランシスコ会修道院へと移りました。このフォントネー=ル=コントでの日々が、ラブレーの知的形成期において決定的に重要な意味を持つことになります。
16世紀初頭のヨーロッパは、人文主義(ヒューマニズム)の新しい波が押し寄せていた時代でした。人文主義者たちは、中世スコラ学の硬直した教義や形式的な論理学を批判し、古代ギリシャ=ローマの古典文献に直接立ち返ることで、人間そのものへの関心を復興させようと試みていました。特に、古代ギリシャ語の研究は、聖書の原典を読み解き、プラトンやアリストテレスの哲学を直接理解するための鍵として、最先端の学問と見なされていました。
ラブレーは、この新しい学問の潮流に強い情熱を燃やしました。彼はフォントネー=ル=コントの修道院で、同じく人文主義に傾倒する仲間たちと共に、ギリシャ語の学習に没頭します。その中心人物が、後に高名な法律家となるアンドレ=ティラクーや、ラブレーの生涯の友となるピエール=アミでした。彼らは、イタリアから最新の人文主義の書物を取り寄せ、夜を徹して読書と議論に明け暮れたと伝えられています。ラブレーは驚異的な語学の才能を発揮し、短期間のうちにギリシャ語を完全に習得しました。彼は、ホメロス、プラトン、プルタルコス、そして医学の父ヒポクラテスといったギリシャの賢人たちの著作を原典で読みこなし、その知識を貪欲に吸収していきました。
しかし、ラブレーたちのこうした知的探求は、保守的な修道院の神学者たちから強い警戒と敵意の目で見られていました。フランシスコ会は、托鉢修道会として清貧を重んじる一方で、神学的には保守的な傾向が強く、特にギリシャ語の研究を危険視する風潮がありました。ギリシャ語は、異端と見なされた東方正教会の言語であり、聖書のラテン語訳(ウルガタ)の権威を揺るがしかねないと考えられたからです。また、人文主義者たちが異教の古典文学に熱中することも、キリスト教の教えに背くものとして非難の対象となりました。
1523年、ついに事件が起こります。ソルボンヌ大学(パリ大学神学部)の神学者たちの指示を受けた修道院当局が、ラブレーとピエール=アミの部屋を捜索し、彼らが所有していたギリシャ語の書物をすべて没収したのです。これは、ラブレーにとって耐え難い屈辱であり、彼の自由な精神に対する抑圧でした。この経験は、彼の心に、権威主義的な神学者や偽善的な修道士たちに対する根深い不信感と反感を植え付けたことでしょう。その後の彼の著作に繰り返し登場する、ソルボンヌの神学者たち(「ソルボナグル」)や修道士たちへの痛烈な風刺は、この時の苦い経験にその源流を見出すことができます。
この知的弾圧事件の後、ラブレーはフランシスコ会での生活に限界を感じるようになります。彼は、より学問の自由が保障された環境を求め、有力な庇護者に働きかけました。幸いにも、彼の学識を高く評価していた近隣のマイユゼーの司教、ジョフロワ=デスティサックが手を差し伸べます。デスティサック司教の尽力により、ラブレーは教皇クレメンス7世からの許可を得て、1525年頃、より戒律が緩やかで学問研究が奨励されていたベネディクト会へと移籍することができました。彼はデスティサック司教の秘書として、その居城であるリグジェのサン=マルタン修道院に身を寄せます。
ベネディクト会での生活は、ラブレーに大きな自由をもたらしました。彼は司教の秘書としてポワトゥー地方を旅して回り、様々な階層の人々と交流し、豊かな自然や地方の伝承に触れる機会を得ました。この時期の経験は、彼の感受性を磨き、後の作品の舞台となるフランス各地の生き生きとした描写の源泉となったと考えられます。また、彼は法律や植物学、地理学など、関心の赴くままに様々な分野の書物を読み漁り、その百科全書的な知識をさらに深めていきました。
しかし、修道院という枠組みそのものが、もはやラブレーの飽くなき好奇心と自由な精神を収めきれる器ではなくなっていました。彼は聖職者としての生活に安住することなく、さらなる知の世界、特に彼がギリシャ語の文献を通じて深く魅了されていた医学の道へと進むことを決意します。1527年頃、ラブレーはベネディクト会の修道服を脱ぎ捨て、司教デスティサックのもとを離れます。これは、彼の人生における最初の、そして最も重要な転機でした。彼は修道院という閉ざされた世界から、より広く、より混沌とした俗世間へと、その一歩を踏み出したのです。
医師=人文主義者としての開花:リヨンでの出版活動と『パンタグリュエル』の誕生(1527年-1534年)
修道院を離れたラブレーが次に向かったのは、当時フランスで最も活気に満ちた学問の中心地の一つであったモンペリエでした。モンペリエ大学の医学部は、中世以来ヨーロッパで最も権威のある医学教育機関として知られており、アラビア医学の伝統を受け継ぎつつ、人文主義的なアプローチを取り入れた先進的な研究が行われていました。ラブレーは1530年9月17日にこの大学に正式に登録し、驚くべき速さで学業を進めます。わずか6週間後の11月1日には、彼は学士号を取得しました。これは、彼が修道院時代にすでに独学で相当な医学知識を身につけていたことを物語っています。
モンペリエでのラブレーは、単なる学生にとどまりませんでした。彼はその卓越したギリシャ語能力を活かし、ヒポクラテスやガレノスといった古代ギリシャ医学の大家の著作を原典で講義し、学生や教授たちから大きな称賛を博しました。当時、医学のテキストは不正確なラテン語訳やアラビア語経由の翻訳に頼ることが多かったため、原典に直接基づく彼の講義は画期的なものでした。彼は、解剖学の実習にも積極的に参加し、人体の構造を自らの目で確かめるという実証的な精神を重視しました。このモンペリエでの経験を通じて、ラブレーは単なる聖職者から、人文主義の精神を体現する科学者=医師へと、そのアイデンティティを確立していったのです。
1532年、ラブレーはさらなる活躍の場を求めて、フランス第二の都市であり、出版と商業の中心地として栄えていたリヨンへと移ります。リヨンは、イタリアとの交易路の結節点に位置し、ヨーロッパ中から様々な人々や情報、そして新しい思想が集まる国際都市でした。特に、印刷技術の発展に伴い、多くの優れた印刷業者が工房を構え、人文主義者たちの活動拠点となっていました。ラブレーは、このリベラルで知的な雰囲気に満ちた都市で、その才能を存分に開花させることになります。
彼はまず、リヨンの市立大病院であるオテル=デュー=デュ=ポン=デュ=ローヌの常勤医師に任命されます。ここで彼は、貧しい人々や病に苦しむ人々の治療に日々従事しました。彼の医師としての評判は高く、その治療は患者たちから信頼を得ていたと伝えられています。彼は臨床の現場に立つ一方で、学術的な活動も精力的に続けました。彼は、リヨンで最も著名な印刷業者の一人であるセバスチャン=グリフの工房と緊密な関係を築き、人文主義者としての学識を活かした出版活動を開始します。
1532年、彼はヒポクラテスの『箴言』とガレノスの『医術』のギリシャ語原文に、自らラテン語訳と注釈を付した校訂版を出版します。これは、彼のギリシャ学者としての能力を世に示す記念碑的な仕事でした。さらに彼は、ジョヴァンニ=マナルディというイタリアの医師が書いた医学書簡集や、ラテン語の偽造遺言書といった、多彩なテーマの書物の校訂や出版にも関わりました。これらの仕事は、彼に学者としての名声をもたらしましたが、同時に、書物を通じてより広い読者層とコミュニケーションをとるという、新しい可能性に目を開かせたのかもしれません。
そして、同じく1532年の秋、リヨンの街角に、フランソワ=ラブレーの名を永遠に歴史に刻むことになる一冊の本が登場します。それは、『ディプソード王の息子、巨人パンタグリュエルの恐るべき偉業と驚くべき功績の年代記』と題された、奇妙で滑稽な物語でした。この本は、「アルコフリバス=ナジエ」というアナグラム(François Rabelais の文字を並べ替えたもの)の筆名で出版されました。
この物語は、当時リヨンの定期市で人気を博していた作者不詳の民衆本『巨人ガルガンチュワの偉大にして計り知れぬ年代記』の続編という体裁をとっていました。この民衆本は、アーサー王伝説に登場する巨人の物語を元にした、素朴で荒唐無稽な冒険譚でした。ラブレーは、この大衆的な物語の形式を巧みに借用し、その中に自らの百科全書的な知識、人文主義的な思想、そして痛烈な社会風刺を詰め込んだのです。
物語の主人公パンタグリュエルは、喉の渇きを引き起こす「ディプソード族」の王の息子として生まれた巨人です。彼はフランス各地の大学を遍歴し、あらゆる学問を修めた後、パリで生涯の友となるパニュルジュと出会います。パニュルジュは、機知に富む一方で、ずる賢く、借金まみれで、常に騒動を巻き起こすトリックスター的な人物です。物語は、パンタグリュエルとパニュルジュ、そしてその仲間たちが繰り広げる、滑稽で、グロテスクで、そしてしばしば猥雑な冒険の連続です。しかし、その馬鹿馬鹿しい表面の下には、中世的なスコラ学教育への痛烈な批判、パリ大学神学部(ソルボンヌ)の神学者たちへの辛辣な風刺、そして人間性の解放を謳う人文主義の理想が、生き生きと脈打っていました。
ラブレーが用いた言葉は、学術的なラテン語やギリシャ語の引用から、リヨンの街角で話されているものまで、あらゆる階層の言語が混然一体となった、前代未聞のものでした。彼は、言葉そのものの持つ物質性や響きを楽しみ、同義語の長大なリストを連ねたり、奇妙な造語を次々と生み出したりしました。この言語的な奔放さと、身体的な機能を臆面もなく描く「グロテスク=リアリズム」は、読者に強烈な衝撃と解放感を与えました。
『パンタグリュエル』は、出版されるやいなや、爆発的なベストセラーとなります。その人気は、ラブレー自身が「2ヶ月で聖書の9年分よりも多く売れた」と豪語するほどでした。学者や貴族といったエリート層だけでなく、字を読むことができる商人や職人といった幅広い層の読者が、この新しいタイプの物語に熱狂しました。ラブレーは、大衆的な娯楽と高度な知的遊戯を融合させることで、ルネサンス期における全く新しい文学の形を創造したのです。
しかし、その成功は同時に、危険をもたらしました。物語に含まれる教会や権威への風刺は、保守的な神学者たちの怒りを買うには十分でした。1533年、ソルボンヌ大学は『パンタグリュエル』を異端的な書物として正式に断罪します。この時、ラブレーはまだリヨンの医師として活動を続けていましたが、彼の周囲には、宗教的な弾圧の暗い影が忍び寄り始めていました。彼は、自らの言葉が持つ力を自覚すると同時に、その力がもたらす危険性をも痛感することになったのです。
庇護と逃亡の時代:ローマへの旅と『ガルガンチュワ』の執筆(1534年-1545年)
『パンタグリュエル』の成功とそれに伴うソルボンヌからの断罪は、ラブレーの人生を新たな段階へと導きました。彼はもはや単なる地方都市の医師=学者ではなく、その言動が宗教界や政治界から注目される著名な作家となったのです。この時期から、彼の人生は、有力な庇護者の保護を求めながら、宗教的迫害の危険から逃れるための、不安定な旅の連続となります。
ラブレーにとって最初の、そして最も重要な庇護者となったのが、ジャン=デュ=ベレー枢機卿でした。デュ=ベレーは、フランス国王フランソワ1世の信頼厚い外交官であり、人文主義に深い理解を示す開明的な聖職者でした。彼はラブレーの才能を高く評価し、自らの随行員としてローマへと伴うことを決めます。1534年1月、ラブレーはデュ=ベレー枢機卿の一行に加わり、初めてローマへと旅立ちました。
このローマへの旅は、ラブレーにとって計り知れない知的刺激となりました。彼は、古代ローマ帝国の遺跡を目の当たりにし、その壮大さに深い感銘を受けます。彼は、考古学者さながらに古代の碑文を収集し、ローマの地形を詳細に調査しました。この調査の成果は、後に『ローマ地誌』という学術書として結実します。また、彼はヴァチカンの図書館で貴重な写本を閲覧する機会を得て、ギリシャ医学に関する未知の文献を発見するなど、学者としての探求心を満たしました。さらに、枢機卿の随員として、彼は教皇庁の内部事情や、ヨーロッパ各国の外交官たちが繰り広げる複雑な政治的駆け引きを間近で観察することができました。この経験は、彼の人間観察眼をさらに鋭くし、後の作品における権力者たちの描写に深みを与えることになります。
1534年の夏、ラブレーはリヨンに戻りますが、フランスの宗教情勢は急速に悪化していました。同年10月、「檄文事件」が発生します。これは、プロテスタントの改革派が、カトリックのミサを偶像崇拝であると激しく非難する檄文(プラカード)を、パリや地方都市の各所に貼り付け、一部は国王フランソワ1世の寝室の扉にまで及んだという事件です。この事件は、これまで比較的寛容な態度をとっていたフランソワ1世を激怒させ、プロテスタントに対する大規模な弾圧の引き金となりました。人文主義者たちも、改革派との関連を疑われ、多くの者が逮捕されたり、国外へ逃亡したりしました。
この緊迫した状況の中、ラブレーは再びリヨンを離れ、身の安全を確保する必要に迫られます。そして、1534年の末か1535年の初め頃、彼は『パンタグリュエル』の前日譚にあたる物語、『巨人ガルガンチュワの比類なき生涯』を出版します。この作品もまた、「アルコフリバス=ナジエ」の筆名で発表されました。
『ガルガンチュワ』は、パンタグリュエルの父である巨人の誕生から教育、そして戦争での活躍までを描いた物語です。前作『パンタグリュエル』が、既存の民衆本を土台にした即興的な作品であったのに対し、『ガルガンチュワ』はより構成が練られ、ラブレーの思想が明確に打ち出された作品となっています。特に、物語の前半で描かれるガルガンチュワの教育の場面は、ラブレーの教育理念を表明する重要な部分です。ガルガンチュワは、当初、時代遅れのスコラ学の教師たちによって、意味のない暗記と非衛生的な生活を強いられますが、その後、人文主義者の教師ポノクラットのもとで、全く新しい教育を受けることになります。その教育は、古典の学習だけでなく、乗馬、水泳、剣術といった身体的な訓練、植物や星の観察といった自然科学の学習、そして音楽や芸術の実践など、人間のあらゆる能力を調和的に発達させることを目指す、まさにルネサンス的な全人教育の理想を描いたものでした。
物語の後半では、隣国の王ピクロショールが仕掛けてきた理不尽な戦争に対し、ガルガンチュワがその知恵と力で勝利を収める様子が描かれます。この戦争の描写を通じて、ラブレーは侵略戦争の愚かさを批判し、平和と寛容の重要性を説いています。そして、戦争の勝利を記念して、ガルガンチュワは協力者であった修道士ジャンを讃え、彼の理想を体現する「テレームの僧院」を建設します。この僧院は、従来の修道院とは全く正反対の場所として描かれます。そこには壁がなく、美しく才能ある男女だけが入ることを許され、「汝の欲するところを為せ」という唯一の規則のもとに、人々は自由に学問や芸術を楽しみ、恋愛を謳歌します。このテレームの僧院の描写は、抑圧からの解放と人間性の全面的肯定という、ラブレーのユートピア思想の最も美しい表現と言えるでしょう。
しかし、このような理想を掲げた『ガルガンチュワ』もまた、ソルボンヌによって断罪される運命にありました。檄文事件以降の厳しい宗教的雰囲気の中で、ラブレーの立場はますます危険なものとなっていきました。1535年、彼は再びジャン=デュ=ベレー枢機卿を頼り、二度目のローマ旅行に同行します。この滞在中、彼は教皇パウルス3世に嘆願し、修道院を無許可で離れたこと、そして医師として活動したことに対する赦免を正式に得ることができました。これにより、彼は再び聖職者としての身分を回復し、ある程度の法的保護を得ることができたのです。
赦免を得たラブレーは、フランスに戻り、しばらくは庇護者たちの下を転々としながら、医師としての活動を続けました。彼は、パリのサン=モール=デ=フォッセのベネディクト会修道院に身を寄せたり、デュ=ベレー枢機卿の弟であるギヨーム=デュ=ベレーが統治するトリノに滞在したりしました。この時期、彼は公的な執筆活動を控えていましたが、その間も彼の巨大な物語の構想は、彼の頭の中で静かに熟成されていたに違いありません。彼は、医師として人体を解剖するように、社会のあらゆる階層を観察し、人間の愚かさと偉大さを見つめ続けていました。そして、フランソワ1世の妹であり、人文主義の庇護者であったマルグリット=ド=ナヴァールの保護を受け、彼はついに物語の続きを世に問う決意を固めるのです。
円熟期の葛藤と探求:『第三の書』と『第四の書』の航海(1546年-1552年)
1540年代に入ると、フランスの宗教的寛容の雰囲気は失われ、プロテスタントや改革派人文主義者に対する弾圧はますます厳しさを増していきました。このような困難な状況下で、ラブレーは自らの巨大な物語の続編を世に問うという、危険な賭けに出ます。しかし、もはや彼は匿名の戯作者ではありませんでした。彼は、国王フランソワ1世から正式な出版許可(国王特認)を得て、自らの本名であるフランソワ=ラブレーの名で作品を発表することを選びます。これは、自らの言葉に対する責任を引き受け、公然と論争の場に立つという、彼の覚悟の表れでした。
1546年、前作から10年以上もの歳月を経て、『パンタグリュエルの英雄的言行録 第三の書』が出版されます。この『第三の書』は、前二作とは大きくその趣を異にしています。巨人たちの荒唐無稽な冒険や、派手な戦闘シーンは影を潜め、物語は一つの中心的な問いを巡る、延々とした対話と議論によって構成されています。その問いとは、「パニュルジュは結婚すべきか否か?」というものです。
借金に追われる生活に嫌気がさしたパニュルジュは、結婚して身を固めようと考えますが、同時に、結婚したら妻に裏切られ、角を生やされるのではないかという恐怖に取り憑かれます。彼はこの問題を解決するために、神学者、裁判官、医師、哲学者、詩人、占い師など、ありとあらゆる専門家のもとを訪ねて助言を求めます。しかし、彼らの答えはどれも曖昧で、矛盾に満ちており、パニュルジュを満足させることはできません。例えば、裁判官ブリドワは、サイコロを振って判決を決めることで有名であり、その判断は神の意志に委ねられていると主張します。また、哲学者トルガナは、身振り手振りだけで難解な哲学的問答を繰り広げます。
これらのエピソードを通じて、ラブレーは、人間の知識の不確かさと、権威あるとされる専門家たちの言説の空虚さを徹底的に風刺します。神学も、法学も、医学も、哲学も、人生の根源的な問いに対して明確な答えを与えることはできないのです。物語は、パニュルジュが自らの運命を知るためには、「神の瓶(かめ)」の神託を求めて旅に出るしかない、という結論に達します。こうして、『第三の書』は、真理の探求という壮大な航海の序章として幕を閉じるのです。
この作品は、その哲学的で内省的な内容から、前二作のような大衆的な人気を得ることはできませんでしたが、その知的深度と人間心理への鋭い洞察は、ラブレーの作家としての円熟を示しています。しかし、その出版は、再びラブレーを窮地に陥れます。出版直後から、ソルボンヌの神学者たちはこの本を激しく攻撃し、異端の疑いで告発しました。特に、作中で展開される運命や自由意志に関する議論が、プロテスタント的な思想に近いと見なされたのです。国王の出版許可があったにもかかわらず、ラブレーの身には危険が迫っていました。彼はパリを離れ、ドイツの自由都市メッスへと亡命し、しばらくの間、市の公式医師として糊口をしのぎました。
1947年に国王フランソワ1世が崩御し、アンリ2世が即位すると、フランスの政治情勢は変化します。ラブレーの庇護者であったジャン=デュ=ベレー枢機卿は一時的に権力を失いますが、ラブレーは新たな庇護者を見つけます。それは、ギーズ家の出身で、後に枢機卿となるシャルル=ド=ロレーヌでした。彼の保護の下、ラブレーは再びローマへと赴き、デュ=ベレー枢機卿のもとに復帰します。
そして1548年、彼はリヨンで『第四の書』の一部とされる11章分を先行出版します。この部分出版は、読者の反応を探り、当局の警戒を和らげるための慎重な試みであったと考えられます。そして、周到な準備の末、1552年、ついに完成版の『パンタグリュエルの英雄的言行録 第四の書』が、国王アンリ2世の出版許可を得て刊行されました。
『第四の書』は、『第三の書』で予告された「神の瓶」を求める航海の物語です。パンタグリュエルと仲間たちの一行は、奇妙な島々を次々と訪れ、そこに住む異様な住人たちと遭遇します。この航海の形式は、ラブレーが同時代に大きな注目を集めていたジャック=カルティエらによる新大陸発見の航海記から着想を得たものと考えられます。しかし、パンタグリュエルたちの航海は、地理的な探検であると同時に、人間の愚かさと狂気が作り出した様々な社会や制度を巡る、風刺的な旅でもあります。
彼らが訪れる島々は、当時の社会に対する痛烈な寓意に満ちています。例えば、「訴訟に明け暮れる人々が住む島」は、終わりなき訴訟合戦に血道を上げる法曹界への風刺です。「教皇かぶれの島」と「教皇もどきの島」では、それぞれプロテスタントとカトリックの狂信者たちが滑稽に描かれます。「フワフワ山」に住む人々は、何も食べずに風を食べて生きており、空虚な名声や噂に生きる人々を象徴しています。
中でも最も有名なエピソードの一つが、「凍った言葉」の島です。パンタグリュエル一行は、冬の寒さで凍りついてしまった言葉が、春になって溶け出し、あたりに響き渡るという不思議な現象に遭遇します。彼らは、凍った言葉を手に取り、耳元で温めると、そこから様々な音や言葉が聞こえてくるのを発見します。この幻想的なエピソードは、言葉の持つ物質性や、時間が経ってから明らかになる真実など、多層的な解釈を誘う、ラブレーの想像力の頂点を示すものと言えるでしょう。
しかし、この『第四の書』もまた、出版直後から激しい非難にさらされました。ソルボンヌだけでなく、今度はパリ高等法院までもがこの本を禁書とし、販売を差し止めました。作中の教皇や教会制度に対する風刺が、あまりにも露骨で危険だと判断されたのです。ラブレーは再び異端の嫌疑をかけられ、彼の立場は極めて危うくなりました。彼は、庇護者であるオデット=ド=コリニー枢機卿(ガスパール=ド=コリニー提督の兄)に宛てた序文の中で、自らの作品が誤解され、悪意ある解釈をされていることへの憤りと悲しみを表明しています。彼は、自らの笑いが、破壊のための笑いではなく、真理を覆い隠す偽善や狂信を打ち破るための、健全な笑いであることを必死に訴えようとしたのです。
最後の謎:『第五の書』とラブレーの死(1553年-1564年)
『第四の書』を巡る激しい論争の渦中にあったラブレーですが、彼の庇護者たちの尽力により、彼は聖職者としての地位を確保し、比較的穏やかな晩年を送ることができたようです。1551年、彼はシャルル=ド=ロレーヌ枢機卿の計らいにより、ムードンとサン=クリストフ=デュ=ジャンベという二つの教区の主任司祭に任命されます。彼が実際にこれらの教区で司祭としての務めを果たしたかどうかについては議論がありますが、少なくともこれにより、彼は安定した収入と社会的な地位を得ることができました。
そして、1553年、フランソワ=ラブレーはこの世を去ります。彼の正確な死亡日や場所、そしてその最期の様子については、確かな記録は残っていません。パリで亡くなったと一般的には考えられていますが、それも伝説の域を出ないものです。彼の死に際して、「幕を引け、茶番は終わった」「私は大いなる『多分』を探しに行く」といった、機知に富んだ言葉を残したという逸話が伝えられていますが、これらも後世の創作である可能性が高いです。彼の生涯は、その始まりと同じように、多くの謎を残したまま終わりを告げたのです。
しかし、ラブレーの物語は、彼の死と共に終わったわけではありませんでした。彼の死から約9年後の1562年、パンタグリュエルの航海の続きを描いたとされる『鳴り響く島の書』と題された16章からなる本が出版されます。そしてさらにその2年後の1564年、それを含む形で『パンタグリュエルの英雄的言行録 第五の書』の完全版が出版されました。
この『第五の書』は、パンタグリュエル一行がついに旅の目的地である「神の瓶」の神殿に到着し、そこで神託を授かるまでを描いています。彼らは、「猫もどき」と呼ばれる偽善的な裁判官が住む島や、「鳴り響く島」と呼ばれる、鳥に姿を変えられた聖職者たちが住む島などを経て、光の国にある神殿にたどり着きます。そして、巫女バクブクに導かれ、神聖な瓶のもとへと進み出ます。パニュルジュが「結婚すべきか?」と問いかけると、瓶の中から「飲め!」(TRINC!)という一言だけが響き渡ります。この神託を、巫女バクブクは「飲みなさい。知識と真理を」と解釈します。つまり、答えは外部の権威に求めるものではなく、自らが行動し、経験し、学ぶことによってのみ得られるのだ、というのです。物語は、パンタグリュエルたちが故郷へと帰還することを決意する場面で、壮大な結末を迎えます。
しかし、この『第五の書』が、本当にラブレー自身の筆によるものなのかどうかは、16世紀以来、長きにわたって文学史上最大の論争の一つとなっています。その文体や構成が、前四作、特に『第三の書』や『第四の書』と比べて、やや精彩を欠き、風刺が直接的で芸術的な洗練に劣ると感じる研究者は少なくありません。特に、カトリック教会に対する攻撃が非常に辛辣かつ露骨になっている点も、ラブレー本人の手によるものとすることに疑問を呈する根拠とされています。
現在、多くの研究者は、『第五の書』はラブレーが残した草稿やメモをもとに、彼の死後、別の編集者が手を入れて完成させたものであろうと考えています。その編集者は、ラブレーの弟子筋の人物か、あるいはプロテスタントの思想に強く傾倒した人物であった可能性が指摘されています。彼らは、ラブレーの未完の構想を、自らの宗教的・政治的なメッセージを込める形で再構成したのかもしれません。
この真作性に関する論争は、いまだに完全な決着を見ていません。しかし、たとえ『第五の書』がラブレー一人の手によるものでなかったとしても、それが彼の思想の延長線上にあり、彼の壮大な物語の掉尾を飾るにふさわしい結論を提示していることは確かです。外部の権威に盲従するのではなく、自らの理性と経験を通じて真理を探求せよ、というメッセージは、ラブレーが生涯をかけて訴え続けた人文主義の精神そのものでした。
フランソワ=ラブレーの生涯は、中世の黄昏と近代の黎明が交錯する、激動の時代そのものを映し出す鏡でした。彼は、修道士として神に仕え、医師として人間に仕え、そして作家として言葉に仕えました。彼の巨大な物語は、その百科全書的な知識、奔放な想像力、そして何よりも人間という存在への尽きることのない愛情と好奇心の結晶です。彼の笑いは、単なる破壊や否定のためのものではなく、偽善の仮面を剥ぎ、硬直した権威を打ち破り、その向こうにある生命力に満ちた真実を賛美するためのものでした。