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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

ムガル絵画とは わかりやすい世界史用語2375

著者名: ピアソラ
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ムガル絵画とは

ムガル帝国時代の写本絵画は、16世紀から19世紀にかけてインド亜大陸で花開いた、世界で最も洗練された絵画芸術の一つです。この芸術形式は、ペルシャの伝統的な写本芸術を基盤としながらも、インド固有の芸術的感性やヨーロッパ絵画の技法を融合させることで、独自の様式を確立しました。ムガル帝国の歴代皇帝たちの庇護のもと、写本工房は芸術革新の中心地となり、歴史記録、文学作品、皇帝の伝記など、多岐にわたる主題が驚くべき精緻さで描かれました。



ムガル絵画の黎明期:バーブルとフマーユーンの時代

ムガル帝国の創始者であるバーブル(在位1526-1530年)は、中央アジアのティムール朝の血を引く君主であり、洗練された文化的素養を持つ人物でした。彼が著した回想録『バーブル・ナーマ』には、自然界の動植物や故郷フェルガナの風景に対する鋭い観察眼と深い愛情が記されています。バーブルはインドの征服後、現地の動植物相に強い関心を示し、それらを詳細に記録させました。この博物学的な探求心は、後のムガル絵画における自然主義的な描写の源流の一つとなります。しかし、バーブルの治世は短く、大規模な写本工房を設立するには至りませんでした。彼がティムール朝の首都ヘラートから持ち込んだとされるいくつかの写本は、後のムガル絵画の様式形成に影響を与えたと考えられています。特に、ヘラートで活躍したペルシャ絵画の巨匠ビフザードの作品は、バーブル自身も高く評価しており、その精緻な構図や鮮やかな色彩は、初期のムガル絵画における重要な手本となりました。
バーブルの後を継いだフマーユーン(在位1530-1540年、1555-1556年)の治世は、政情不安と亡命生活によって特徴づけられます。彼はシェール・シャー・スーリーとの戦いに敗れ、ペルシャのサファヴィー朝への亡命を余儀なくされました。しかし、この亡命期間が、ムガル絵画の直接的な起源を形成する上で決定的な役割を果たします。フマーユーンはサファヴィー朝のシャー・タフマースプ1世の宮廷で、当時最盛期を迎えていたペルシャの写本芸術に深く魅了されました。彼は、タフマースプの宮廷工房で活躍していた二人の高名な画家、ミール・サイイド・アリーとアブドゥル・サマドをインドに招聘します。この二人のペルシャ人画家が、ムガル帝国の宮廷工房の礎を築くことになります。
ミール・サイイド・アリーは、サファヴィー朝の洗練された様式を特徴とする画家でした。彼の作品は、優雅な人物描写、緻密な装飾文様、そして鮮やかで調和のとれた色彩で知られています。一方、アブドゥル・サマドは、より力強く写実的な描写を得意としていました。フマーユーンがデリーに帰還し、権力を回復した後、この二人の画家を中心に写本工房が設立されました。彼らはインド人の弟子たちにペルシャ絵画の技法と様式を教え込みました。この過程で、ペルシャの洗練された芸術性と、インド土着の芸術が持つ生命力や躍動感が融合し始めます。フマーユーンの時代に制作が開始された最も重要な写本の一つが、『ハムザ・ナーマ』(ハムザの物語)です。これは、預言者ムハンマドの叔父であるアミール・ハムザの冒険譚を描いた壮大な物語であり、その挿絵はムガル絵画の初期様式を代表する傑作とされています。綿布に描かれたこれらの大判の絵画は、ペルシャ様式の優雅さに加え、大胆な構図、力強い色彩、そして劇的な場面構成といった、後のムガル絵画につながる新しい要素を示しています。フマーユーンの早すぎる死により、『ハムザ・ナーマ』の完成は次の皇帝アクバルの時代に引き継がれることになりますが、その制作開始自体が、ムガル帝国における写本絵画という芸術形式の確立を告げる画期的な出来事でした。
アクバル時代の様式の確立と工房の発展

フマーユーンの跡を継いだアクバル(在位1556-1605年)の治世は、ムガル帝国が政治的、文化的に最も輝かしい発展を遂げた時代です。若くして即位したアクバルは、広大な帝国を統治するために、多様な宗教や文化を持つ人々を統合する必要性を深く理解していました。彼の寛容な宗教政策と、学問や芸術に対する旺盛な好奇心は、ムガル絵画が独自の様式を確立し、黄金時代を迎えるための肥沃な土壌となりました。
アクバルは、父フマーユーンが設立した宮廷工房を大幅に拡充しました。ミール・サイイド・アリーとアブドゥル・サマドの指導のもと、インド各地から才能ある画家たちが集められました。その数は100人を超えたと記録されています。これらの画家たちは、ヒンドゥー教徒が多数を占めており、彼らが持ち込んだグジャラートやラージャスターンなどの地域的な絵画の伝統が、ペルシャ様式と融合することで、ムガル絵画に新たな次元をもたらしました。この融合こそが、アクバル時代の絵画の最大の特徴です。ペルシャ絵画の持つ二次元的で装飾的な様式に、インド美術の伝統である自然主義的な描写、躍動感あふれる人物表現、そして鮮烈な色彩感覚が加わりました。
アクバル時代の工房では、分業制による効率的な制作システムが確立されていました。一葉の絵画を完成させるために、構図を担当する画家、彩色を担当する画家、そして肖像画や細部の仕上げを専門とする画家などが協力しました。皇帝自身が工房を頻繁に訪れ、画家たちの仕事ぶりを監督し、完成した作品を評価したと伝えられています。このような皇帝の直接的な関与が、画家たちの競争心を煽り、技術の向上と芸術的な革新を促進しました。
この時代に制作された写本は、その主題の多様性においても特筆に値します。父の代から続く『ハムザ・ナーマ』の制作が完了したほか、アクバル自身の伝記である『アクバル・ナーマ』、ペルシャの叙事詩『シャー・ナーマ』(王の書)、ヒンドゥー教の二大叙事詩である『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のペルシャ語訳写本(それぞれ『ラズム・ナーマ』、『ラーム・ナーマ』と名付けられた)など、数多くの壮大なプロジェクトが実行されました。特に『アクバル・ナーマ』の挿絵は、アクバル時代の様式を最もよく表しています。歴史的な出来事を記録するという目的から、戦闘場面、宮廷の儀式、狩猟の様子などが、ダイナミックな構図と写実的な細部描写をもって描かれています。無数の人物や動物が画面いっぱいに描かれ、出来事の熱気や混沌が観る者に伝わってきます。これは、静的で様式化されたペルシャ絵画には見られなかった新しい表現です。
また、アクバルはイエズス会の宣教師を通じてヨーロッパの絵画や版画に触れる機会を得ました。遠近法、陰影法(キアロスクーロ)、そして人物の立体的な表現といったヨーロッパ絵画の技法は、ムガル帝国の画家たちに大きな衝撃とインスピレーションを与えました。彼らはこれらの新しい技法を積極的に取り入れ、自らの作品に応用しようと試みました。例えば、背景に描かれる風景に奥行きが生まれ、人物の衣服の襞には陰影がつけられるようになりました。このように、アクバル時代の工房は、ペルシャ、インド、そしてヨーロッパという三つの異なる芸術的伝統が交差し、融合する坩堝となり、力強く、ダイナミックで、物語性に富んだ独自の「アクバル様式」を生み出したのです。この様式は、後のムガル絵画の発展の基礎を築く上で、決定的に重要な役割を果たしました。
ジャハーンギール時代の自然主義と洗練

アクバルの息子であるジャハーンギール(在位1605-1627年)の時代は、ムガル絵画がその頂点に達した時期と広く見なされています。父アクバルが工房の規模拡大と多様な主題の探求に力を注いだのに対し、ジャハーンギールはより個人的で内省的な芸術の庇護者でした。彼は自身を優れた美術鑑定家であると自負しており、一葉の絵画を見て、どの部分をどの画家が描いたかを見分けることができたと回想録『ジャハーンギール・ナーマ』に記しています。
ジャハーンギール時代の絵画の最大の特徴は、極めて高度な自然主義の追求にあります。彼は自然界のあらゆる事物に対して深い愛情と好奇心を抱いており、宮廷の画家たちに、珍しい動物、鳥、植物などを可能な限り正確に描くよう命じました。その結果、驚くほど写実的で、科学的な精密さすら感じさせる動植物画が数多く制作されました。これらの作品の中でも特に有名なのが、画家のマンスールによって描かれたものです。彼は「ナーディル・アル=アスル」(時代の驚異)という称号を与えられ、シベリアの鶴、ドードー鳥、シマウマなど、ジャハーンギールの宮廷にもたらされた珍しい生き物たちを、羽毛の一本一本、皮膚の質感まで緻密に描き出しました。これらの作品は、単なる記録画の域を超え、対象の内なる生命力までも捉えようとする芸術家の鋭い観察眼を示しています。
肖像画の分野でも、ジャハーンギール時代には大きな進展が見られました。アクバル時代に確立された横顔の肖像画の形式は継承されつつも、より深い心理的な洞察が加えられるようになりました。画家たちは、皇帝や廷臣たちの外見的な特徴を捉えるだけでなく、その人物の内面性や性格までも表現しようと試みました。顔の微妙な陰影、眼差し、そして佇まいを通じて、モデルの威厳、思慮深さ、あるいは憂愁といった感情が巧みに描き出されています。アブル・ハサンやビシャン・ダースといった肖像画の名手たちが活躍し、彼らの作品はムガル肖像画の最高傑作として高く評価されています。特にビシャン・ダースは、ジャハーンギールによってペルシャのシャー・アッバース1世の宮廷に派遣され、サファヴィー朝の王族や高官たちの肖像画を制作しました。これらの作品は、異国の人物を客観的かつ鋭敏に捉えたものとして、歴史的にも美術的にも非常に価値が高いです。
また、ジャハーンギール時代には、寓意的な皇帝肖像画という新しいジャンルが生まれました。これらの絵画では、皇帝は単なる統治者としてではなく、世界の中心に立つ宇宙的な支配者、あるいは正義と平和の象徴として描かれます。例えば、地球儀の上に立つジャハーンギールが、宿敵であるサファヴィー朝のシャーを抱擁したり、貧しい羊飼いとライオンが平和に共存する王国を統治したりする姿が描かれます。これらの作品には、ヨーロッパの寓意画やキリスト教美術に見られる天使や光輪(ハロー)といったモチーフが取り入れられており、皇帝の権威を神格化する意図が明確に見て取れます。これは、ジャハーンギールの芸術的洗練と、自らの権威を視覚的に宣伝しようとする政治的意図が結びついた、この時代ならではの独創的な表現です。
工房の規模はアクバル時代よりも縮小されましたが、その分、選りすぐりの最高の画家たちが集められ、制作はより丁寧に行われました。分業制よりも、一人の画家が構図から仕上げまで一貫して担当することが多くなりました。色彩はより繊細で調和のとれたものが好まれ、筆致は極めて細やかになりました。絵画の余白には、しばしば精緻な金彩で装飾文様が描かれ、作品全体の豪華さと洗練度を高めています。このように、ジャハーンギール時代の絵画は、アクバル時代のダイナミズムとは対照的に、静謐さ、洗練、そして極限まで高められた自然主義的写実によって特徴づけられ、ムガル絵画の美学的な頂点を極めたのです。
シャー・ジャハーン時代の形式美と壮麗さ

ジャハーンギールの息子、シャー・ジャハーン(在位1628-1658年)の治世は、ムガル建築の黄金時代として知られています。タージ・マハルに代表されるように、彼の建築プロジェクトは、完璧なシンメトリー、高価な素材、そして壮麗な装飾を特徴としています。この建築に対する情熱と美意識は、彼の時代の写本絵画にも色濃く反映されています。
シャー・ジャハーン時代の絵画は、父ジャハーンギールの時代の自然主義的な探求から一転し、より形式的で壮麗な様式へと向かいました。絵画の主題は、皇帝の威厳と宮廷の栄華を賛美するものに集中するようになります。皇帝が公式な謁見(ダルバール)を行う場面、華やかな行列、あるいは豪華な庭園での宴などが好んで描かれました。これらの作品において、個々の人物の心理描写や自然の写実的な表現よりも、全体の構図の調和、色彩の豪華さ、そして儀式的な荘厳さが重視されました。
この時代の肖像画は、ジャハーンギール時代の内面的な深みをいくらか失い、より理想化され、類型的な表現へと変化しました。人物は厳格な横顔で描かれることがほとんどで、感情の機微は抑制されています。代わりに、衣装の豪華な刺繍、宝飾品の輝き、そして武器の精緻な装飾などが、驚くべき細密さで描き込まれました。これは、人物の内面性よりも、その社会的地位や富を強調するための表現でした。絵画は、皇帝を中心とする厳格な階級社会の秩序を視覚的に表現する役割を担うようになったのです。
技術的には、シャー・ジャハーン時代の画家たちは極めて高い水準に達していました。筆致はさらに細やかになり、金や銀の使用がより一層豪華になりました。色彩は宝石のように輝き、しばしばエナメルのような光沢を放っています。しかし、その技術的な完璧さの裏で、アクバル時代やジャハーンギール時代に見られたような生命感や自発性は影を潜め、ある種の冷たく硬質な印象を与えることも少なくありません。作品全体が、まるで宝石をちりばめた工芸品のような、完璧だが生命感に乏しい美しさを湛えています。
この時代の最も重要な写本プロジェクトの一つに、『パードシャー・ナーマ』(皇帝の書)があります。これは、シャー・ジャハーンの治世の公式な年代記であり、その挿絵はシャー・ジャハーン様式の典型を示しています。宮廷の儀式を描いた場面では、大勢の廷臣たちが、その地位に応じて厳格な序列に従って整然と配置されています。構図はしばしば静的でシンメトリーを基調としており、皇帝の絶対的な権威を強調しています。建築物の描写は正確で、大理石の透かし彫りや壁面の象嵌装飾などが、細部に至るまで忠実に再現されています。これらの絵画は、歴史的な記録であると同時に、ムガル帝国の栄華と秩序を後世に伝えるための壮大なプロパガンダでもありました。
シャー・ジャハーンはまた、ジャハーンギール時代に描かれた作品や、それ以前の時代の作品を集め、豪華なアルバム(ムラッカ)に仕立て直すことを好みました。これらのアルバムでは、異なる時代や様式の絵画が、美しいカリグラフィーの断片とともに、統一されたデザインの豪華な縁飾り(ハーシヤ)によってまとめられています。この縁飾り自体が芸術品であり、金彩で描かれた精緻な植物文様や幾何学文様は、シャー・ジャハーン時代の装飾への嗜好をよく表しています。
総じて、シャー・ジャハーン時代の絵画は、ムガル帝国の権力と富が頂点に達した時代の産物です。それは、ジャハーンギール時代の個人的な芸術的探求から、帝国の威光を公式に顕示するための、より公的で形式的な芸術へと移行したことを示しています。その壮麗さと技術的な完成度は比類のないものですが、同時に、来るべき時代の衰退を予感させるような、創造的な活力の減退も見て取ることができます。
[h1]アウラングゼーブ時代以降の衰退と地方様式の勃興[/h11]
シャー・ジャハーンの後を継いだアウラングゼーブ(在位1658-1707年)の治世は、ムガル絵画にとって転換期であり、衰退の始まりを告げる時代でした。厳格なスンニ派イスラム教徒であったアウラングゼーブは、音楽や絵画といった芸術に対してほとんど関心を示さず、奢侈を戒める宗教的信念から、宮廷の写本工房に対する庇護を大幅に縮小しました。彼の治世初期には、まだシャー・ジャハーン様式を引き継いだ肖像画や宮廷場面がいくつか制作されましたが、その数は少なく、質も次第に低下していきました。皇帝の関心を失った工房は活気を失い、多くの優れた画家たちが、新たな庇護者を求めて帝都を離れ、地方の諸侯の宮廷へと移っていきました。
アウラングゼーブ時代の絵画は、以前の時代の壮麗さや洗練さを失い、より簡素で硬直化した様式へと変化しました。色彩はくすみ、筆致は粗くなり、構図は単調になりました。主題も、皇帝の肖像画や戦闘場面、狩猟の場面などに限定されるようになります。特に晩年のアウラングゼーブを描いた肖像画は、質素な白い服をまとい、コーランを読む敬虔な老人の姿として描かれており、彼の禁欲的な人柄と、帝国の衰退を象徴しているかのようです。
宮廷工房の衰退は、皮肉なことに、インド各地における地方絵画様式の勃興を促す結果となりました。デリーを離れたムガル絵画の画家たちは、ラージャスターン(メーワール、ブーンディー、キシャンガルなど)やパンジャーブ丘陵地帯(バソーリー、グーレール、カーングラなど)のヒンドゥー教徒の小王国の宮廷に迎えられました。彼らはそこで、ムガル絵画の洗練された技術や自然主義的な描写法を、現地の伝統的な絵画様式と融合させました。こうして、「地方ムガル様式」あるいは「後期ムガル様式」と呼ばれる、多様で魅力的な絵画様式が花開いたのです。
ラージャスターン絵画は、ムガル絵画の影響を受けつつも、より大胆な色彩、叙情的な主題、そして象徴的な表現を特徴としています。クリシュナ神とラーダーの恋物語や、インドの古典音楽の楽調(ラーガ)を視覚化したラーガマーラー画などが好んで描かれました。一方、パンジャーブ丘陵地帯で発展したパハーリー絵画は、繊細な描線、優美な人物描写、そして詩情豊かな風景表現で知られています。特にカーングラ派の作品は、その叙情性と洗練された美しさで高く評価されています。これらの地方様式は、ムガル絵画という共通の源流を持ちながらも、それぞれの地域の文化や美意識を反映して、独自の発展を遂げました。
18世紀に入ると、ムガル帝国の政治的権威は急速に失墜し、ナーディル・シャーによるデリー略奪(1739年)などの事件を経て、その力はデリー周辺に限定されるようになります。この時代のムガル皇帝たち、例えばムハンマド・シャー(在位1719-1748年)などは、芸術の庇護を試みましたが、かつての栄華を取り戻すことはできませんでした。ムハンマド・シャーの時代には、一時的に絵画制作が活気を取り戻し、宮廷生活の快楽的な側面を描いた作品が生まれましたが、その様式はシャー・ジャハーン時代の壮麗さを模倣したものであり、新たな創造性には乏しいものでした。
19世紀半ば、イギリス東インド会社がインドにおける支配的な勢力となると、ムガル絵画は新たな庇護者を見出すことになります。イギリス人たちは、インドの珍しい動植物、風景、そして人々の生活様式に興味を抱き、現地の画家にそれらを描かせました。こうして生まれたのが「カンパニー・スタイル」と呼ばれる絵画です。これらの作品は、ムガル絵画の伝統的な技法を用いながらも、ヨーロッパの博物画や風景画の影響を受け、水彩画のような透明感のある色彩や、より科学的な正確さを持った描写を特徴としています。主題も、伝統的な宮廷絵画から、建築物、職業、祭り、動植物図鑑など、より多様で記録的なものへと変化しました。これは、ムガル絵画の伝統が、新たな時代の需要に適応しようとした最後の試みでした。しかし、写真技術の導入などにより、その役割も次第に失われ、1857年のインド大反乱とムガル帝国の滅亡とともに、写本絵画の偉大な伝統は事実上、その幕を閉じたのです。
主題とジャンル:歴史、文学、肖像、自然

ムガル帝国の写本絵画は、その主題の多様性において際立っています。皇帝たちの個人的な関心や、帝国の政治的・文化的要請を反映して、様々なジャンルの作品が制作されました。
歴史記録と皇帝伝: ムガル絵画の最も重要な機能の一つは、歴史的な出来事を記録し、皇帝の功績を後世に伝えることでした。その代表例が、アクバル時代の『アクバル・ナーマ』やシャー・ジャハーン時代の『パードシャー・ナーマ』です。これらの公式年代記には、皇帝の即位式、戦闘、外交使節の謁見、狩猟、建築現場の視察といった、帝国の重要な出来事が詳細な挿絵とともに記録されています。これらの絵画は、単なるイラストレーションではなく、出来事の重要性を強調し、皇帝の権威を正当化するための視覚的な物語として機能しました。画家たちは、史実の正確さを期すために、しばしば出来事の目撃者から聞き取りを行ったり、実際の場所を取材したりしたと伝えられています。
文学作品の挿絵: ペルシャ文学はムガル帝国の宮廷文化において中心的な位置を占めており、多くの古典文学作品が豪華な挿絵入り写本として制作されました。フェルドウスィーの叙事詩『シャー・ナーマ』(王の書)、ニザーミーの『ハムサ』(五部作)、そしてサーディーやハーフィズの詩集などが好んで描かれました。これらの作品は、英雄的な物語、ロマンチックな恋愛、そして道徳的な教訓を、色彩豊かな絵画として視覚化する機会を画家に与えました。また、アクバル帝の寛容な宗教政策のもと、ヒンドゥー教の二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がペルシャ語に翻訳され、壮大な挿絵入り写本が制作されたことは特筆に値します。これは、異なる文化間の対話と融合を促進しようとするアクバルの意図を反映したものでした。
肖像画: 肖像画はムガル絵画において極めて重要なジャンルでした。アクバル時代に確立された、厳格な横顔で人物を描く形式は、モデルの威厳と地位を強調するのに効果的でした。ジャハーンギール時代には、この形式的な側面に加え、人物の内面性や心理を捉えようとする試みがなされ、ムガル肖像画は頂点を迎えます。皇帝、皇族、高位の廷臣たちの肖像画は、個人の記録としてだけでなく、宮廷内の序列や人間関係を示す政治的な意味合いも持っていました。また、ジャハーンギール時代に登場した寓意的な皇帝肖像画は、皇帝を神格化し、その支配の正当性を宇宙的な規模で主張する、独創的なプロパガンダ芸術でした。
自然界の描写(動植物画): ムガル絵画の自然主義的な側面を最もよく示しているのが、動植物を描いた作品です。特に博物学的な好奇心が旺盛だったジャハーンギールは、宮廷画家のマンスールらに、珍しい鳥や動物、花などを極めて精密に描かせました。これらの作品は、科学的な正確さと芸術的な美しさを兼ね備えており、対象の形態だけでなく、その質感や生命感までも見事に捉えています。これらの絵画は、皇帝のコレクションの一部として珍重されるとともに、自然界の創造主の偉大さを讃えるという意味合いも持っていました。
宮廷生活と日常生活: 上記の主要なジャンルに加えて、宮廷での生活の様々な場面も描かれました。音楽や舞踊の宴、庭園でのくつろぎのひととき、女性たちの私的な空間であるゼナーナ(後宮)の様子などです。これらの作品は、ムガル帝国の宮廷文化の洗練された側面を垣間見せてくれます。また、後期ムガル時代やカンパニー・スタイルになると、聖者や職人、商人といった一般の人々の生活や、祭り、儀式なども描かれるようになり、主題の幅はさらに広がりました。
これらの多様な主題は、ムガル絵画が単なる装飾芸術ではなく、帝国のイデオロギー、歴史認識、文化的関心、そして美意識を映し出す、多機能的なメディアであったことを示しています。
制作技術と材料:顔料、筆、紙、そして工房

ムガル絵画の驚くべき精緻さと輝くような色彩は、画家たちが用いた高品質な材料と、世代から世代へと受け継がれた高度な制作技術の賜物です。写本絵画の制作は、多くの専門職人の共同作業によって行われる、時間と手間のかかるプロセスでした。
支持体(紙): ムガル絵画の支持体には、主に手漉きの紙が用いられました。紙は、まず数枚を糊で貼り合わせて厚みと強度を持たせ、その後、瑪瑙(めのう)や貝殻などで表面を磨き上げ、滑らかでインクや顔料が滲まないように加工されました。この磨きの工程は、細密な描線を描き、顔料を均一に塗るために不可欠でした。初期の『ハムザ・ナーマ』のように、綿布が支持体として使われることもありましたが、これは例外的でした。
下絵と転写: まず、主となる画家(マスター・アーティスト)が、木炭で大まかな構図(タルフ)を描きます。この下絵は皇帝の承認を得た後、より細い線で清書されます。この下絵を別の紙に写し取るために、しばしば「パウンス」という技法が用いられました。これは、下絵の線に沿って無数の小さな穴を開け、その上から炭の粉を叩いて、下の新しい紙に点線で構図を転写する方法です。その後、画家はこの点線をつなげて、最終的な線画(チフラ)を完成させます。
顔料: ムガル絵画の鮮やかな色彩は、主に天然の鉱物や植物、あるいは人工的に作られた顔料によって生み出されました。
鉱物顔料: 最も高価で珍重されたのは、ラピスラズリから作られるウルトラマリンブルーでした。その他にも、辰砂から作る朱色(ヴァーミリオン)、孔雀石から作る緑色、雌黄や石黄から作る黄色など、様々な鉱物が顔料として用いられました。鉛から作られる白(鉛白)は、他の色と混ぜて明度を調整したり、ハイライトを入れたりするために広く使われました。
植物顔料: 藍から採れるインディゴブルーや、様々な植物の煮汁から作られる黄色や茶色などがありました。
その他の顔料: ランプの煤から作る黒(ランプブラック)や、インド特有の顔料である「インディアン・イエロー」は、マンゴーの葉だけを与えられた牛の尿から作られるという、特殊な製法で知られています。金や銀も、粉末状にしてアラビアガムと混ぜ、絵具として使用されました。特に金は、衣装の文様、宝飾品、背景の装飾などにふんだんに使われ、作品に豪華さを与えました。
これらの顔料は、乳鉢で細かくすり潰され、展色材であるアラビアガムの水溶液と混ぜて絵具として使用されました。
筆と彩色: 彩色(アマル)には、非常に細い筆が用いられました。筆は、リスや子猫の尻尾の毛など、極めて柔らかくしなやかな動物の毛から作られました。画家たちは、この細い筆を使い、点描や短い線を幾重にも重ねるようにして、繊細なグラデーションや陰影を生み出しました。この骨の折れる作業によって、ムガル絵画特有の滑らかで深みのある色彩が実現されました。金で描かれた部分は、瑪瑙の先端で磨くことで、輝くような光沢が出されました。
工房システム: アクバル時代に確立された宮廷工房(キターブハーナ)では、高度な分業制が敷かれていました。紙を作る職人、カリグラファー(書家)、構図を専門とする画家、彩色を専門とする画家、肖像画を専門とする画家、そして縁飾りを描く装飾画家などが、それぞれの専門技術を活かして協力しました。写本の制作は皇帝が直接監督し、画家たちはその功績に応じて報酬や称号を与えられました。このシステムにより、高品質な作品を効率的に大量生産することが可能となり、ムガル絵画の黄金時代を支えました。ジャハーンギール時代には、分業制よりも一人の巨匠が作品全体を手がけることが増えましたが、工房という制作の場は依然として重要でした。
この一連の複雑で緻密なプロセスが、数世紀を経た今日でも色褪せることのない、ムガル絵画の類まれな美しさを生み出したのです。
ムガル絵画と他文化との交流:ペルシャ、インド、ヨーロッパ

ムガル絵画は、孤立した環境で生まれた芸術ではなく、様々な文化との交流と融合の中から生まれたハイブリッドな芸術形式です。その様式の根底には、ペルシャ、インド、そしてヨーロッパという三つの主要な芸術的伝統が存在します。
ペルシャからの遺産: ムガル絵画の直接的な起源は、ティムール朝およびサファヴィー朝のペルシャ写本絵画にあります。ムガル帝国の創始者たちが中央アジアのティムール朝の末裔であったことから、ペルシャ文化への深い敬意と憧憬が宮廷文化の基盤となっていました。初期のムガル絵画は、その様式、技法、主題の多くをペルシャから受け継いでいます。
様式: 優雅で装飾的な人物描写、鮮やかで調和のとれた色彩計画、二次元的で平坦な空間表現、そして画面を斜めに横切るような高瞰的な視点などは、ペルシャ絵画から受け継がれた特徴です。
技法: 細密な描線、鉱物顔料の使用、そして写本という形式自体がペルシャの伝統です。
主題: 『シャー・ナーマ』などのペルシャ古典文学の挿絵は、ムガル帝国の工房でも繰り返し制作されました。 フマーユーン帝によってインドに招聘されたミール・サイイド・アリーとアブドゥル・サマドという二人のペルシャ人画家は、このペルシャの遺産をムガル帝国の工房に直接移植する上で決定的な役割を果たしました。
インド土着の伝統との融合: ムガル絵画がペルシャ絵画の単なる模倣に終わらず、独自の様式を確立できたのは、インド古来の芸術的伝統と融合したからに他なりません。アクバル帝の工房には、グジャラート、ラージャスターン、グワーリヤルなど、インド各地から集められたヒンドゥー教徒の画家が多数在籍していました。彼らが持ち込んだ要素は、ムガル絵画に新たな生命力とダイナミズムを吹き込みました。
自然主義と写実性: インド美術には、古くから自然や人間を生き生きと写実的に捉える伝統がありました。この傾向が、ペルシャ様式の装飾性と結びつき、ムガル絵画特有の自然主義的な描写を生み出しました。
躍動感と物語性: アジャンター石窟寺院の壁画などに見られるように、インド美術は物語をダイナミックに語ることを得意としていました。『アクバル・ナーマ』に見られるような、混沌とした戦闘場面や群衆の表現には、このインド的な物語性の伝統が色濃く反映されています。
色彩感覚: ラージャスターン絵画などに見られる、朱色や黄色といった原色を大胆に用いる色彩感覚は、ムガル絵画のパレットをより豊かで力強いものにしました。
ヨーロッパ絵画からの影響: アクバル帝の治世以降、ムガル帝国の宮廷はイエズス会の宣教師などを通じて、ヨーロッパの絵画や銅版画と接触する機会を得ました。これらの西洋美術は、ムガル帝国の画家たちに大きな技術的革新をもたらしました。
遠近法と空間表現: ヨーロッパ絵画の線遠近法や空気遠近法は、ムガル絵画に奥行きと立体的な空間の感覚をもたらしました。背景の風景がより自然に描かれるようになり、ペルシャ絵画の平坦な空間表現からの脱却を促しました。
陰影法(キアロスクーロ): 光と影を用いて対象の立体感を表現する陰影法は、特に人物の衣服の襞や顔のモデリングに取り入れられ、人物描写にリアリズムを与えました。
モチーフと図像: キリスト教美術に見られる天使(プット)、光輪(ハロー)、雲の表現などが、ムガル絵画に借用されました。特にジャハーンギール時代の寓意的な皇帝肖像画では、これらのモチーフが皇帝の神性を強調するために効果的に用いられました。
ムガル帝国の画家たちは、これらの外来の要素を単に模倣するのではなく、自らの芸術的伝統の文脈の中で巧みに消化し、再解釈しました。例えば、ヨーロッパの遠近法を取り入れつつも、ペルシャ絵画由来の高瞰的な視点を維持することで、画面に多くの情報を盛り込むというムガル絵画独自の空間表現を創造しました。このように、ムガル絵画の歴史は、異なる文化が出会い、互いに影響を与え合いながら、新たな芸術を生み出していく創造的なプロセスの見事な実例なのです。
主要な画家たちとその個性

ムガル絵画の発展は、皇帝の庇護のもとで活躍した数多くの才能ある画家たちの個性と技術革新によって支えられていました。彼らの多くは工房で共同作業を行いましたが、特に優れた画家は皇帝から高い評価を受け、その名は記録に残されています。
ミール・サイイド・アリーとアブドゥル・サマド: この二人のペルシャ人画家は、ムガル絵画の創始者として知られています。ミール・サイイド・アリーは、サファヴィー朝の洗練された様式をインドにもたらし、その優雅な描線と緻密な構成は初期の工房の模範となりました。一方、アブドゥル・サマドは、フマーユーンと若きアクバルに絵画を教え、工房の監督者として多くのインド人画家を育成しました。彼の作風は力強く、後のアクバル様式のダイナミズムの基礎を築いたとされています。
ダサワントとバスワン: アクバル時代の工房で最も傑出した二人のヒンドゥー教徒の画家です。ダサワントは、低いカーストの出身でありながらその才能をアクバルに見出され、宮廷画家となりました。彼の作品は、極めて独創的で表現力豊かな構図を特徴とし、特に『ラズム・ナーマ』(マハーバーラタのペルシャ語訳)の挿絵でその才能を発揮しました。彼の描く場面は、しばしば幻想的で超自然的な力に満ち溢れています。一方、バスワンは、ヨーロッパ絵画の技法を巧みに取り入れたことで知られています。彼は遠近法や陰影法を理解し、人物の心理描写にも長けていました。彼の作品は、ダサワントの情熱的な表現とは対照的に、より理知的で観察に基づいた写実性を持っています。
マンスール: ジャハーンギール帝から「ナーディル・アル=アスル」(時代の驚異)の称号を授けられた、ムガル絵画史上最高の動植物画家です。彼の作品は、科学的な精密さと芸術的な感性が完璧に融合しています。鳥の羽毛一枚一枚、花の繊細な花弁、動物の毛並みの質感までを、驚くべき観察眼と筆致で描き出しました。彼の描いたシベリア鶴やドードー鳥の絵は、生物学的にも貴重な記録となっています。彼の作品は、自然界の美と神秘に対するジャハーンギール帝の深い愛情を象徴しています。
アブル・ハサン: ジャハーンギールが最も寵愛した画家であり、「ナーディル・アッ=ザマーン」(時代の驚異)の称号を与えられました。彼は幼い頃から工房で育ち、その才能を早くから開花させました。彼の専門は肖像画と寓意画であり、ジャハーンギール時代の洗練された宮廷様式を確立しました。彼の描く皇帝の肖像は、威厳に満ちていると同時に、人間的な深みも感じさせます。また、地球儀の上に立つ皇帝を描いた寓意画など、皇帝の神格化を目的とした独創的な作品を数多く生み出しました。
ビシャン・ダース: ジャハーンギール時代のもう一人の肖像画の名手です。彼は、人物の外見だけでなく、その内面や性格までをも鋭く捉える能力に長けていました。ジャハーンギールによってサファヴィー朝の宮廷に派遣され、シャー・アッバース1世とその廷臣たちの肖像画を描いたことで特に有名です。彼の作品は、異文化の人物に対する客観的かつ洞察に満ちた視線を示しており、歴史資料としても非常に価値が高いです。
ゴーヴァルダン: シャー・ジャハーン時代に活躍した画家で、聖者や音楽家、そして一般の人々を主題とした作品で知られています。彼の描く人物は、理想化された宮廷人とは異なり、個性と人間味にあふれています。特に、ヒンドゥー教のサードゥー(修行僧)やイスラム教のスーフィー(神秘主義者)を描いた作品は、深い精神性を感じさせます。彼はまた、色彩の濃淡を巧みに用いて、夜の場面や光の効果を表現することにも長けていました。
これらの画家たちの個性豊かな活動が、ムガル絵画に多様性と深みを与え、単一の様式に留まらない豊かな芸術世界を創造したのです。
後世への影響と遺産

ムガル絵画の伝統は、19世紀半ばにムガル帝国が滅亡するとともに途絶えましたが、その芸術的遺産はインド亜大陸の美術に深く、永続的な影響を与えました。
地方絵画様式の発展: アウラングゼーブ帝の時代に宮廷工房が縮小されると、多くの画家が地方の宮廷に移り住みました。彼らが持ち込んだムガル絵画の洗練された技術と自然主義は、ラージャスターンやパンジャーブ丘陵地帯の土着の絵画伝統と融合し、ラージプート絵画(ラージャスターニー絵画、パハーリー絵画など)として知られる、数多くの魅力的な地方様式を生み出しました。これらの様式は、ムガル絵画の写実性と、インドの伝統的な叙情性や象徴性を組み合わせたものであり、インド美術史において重要な位置を占めています。特に、クリシュナ神の物語などを主題とするカーングラ派の絵画は、その優美さと詩情において、ムガル絵画の影響が最も洗練された形で現れた例と言えます。
カンパニー・スタイルの誕生: 18世紀後半から19世紀にかけて、イギリス東インド会社の役人や商人たちが新たな芸術の庇護者となりました。彼らは、インドの動植物、風景、建築、人々の風俗などを記録するために、現地の画家を雇いました。こうして生まれた「カンパニー・スタイル」は、ムガル絵画の細密な描画技術と、ヨーロッパの水彩画や博物画の様式を融合させたものです。主題は伝統的な宮廷絵画から、より客観的で記録的なものへと変化しましたが、その根底にはムガル絵画から受け継がれた技術がありました。
近代インド美術への影響: 20世紀初頭、イギリス植民地支配下で西洋美術教育が主流となる中、一部のインドの芸術家や知識人たちは、自国の芸術的伝統を見直し、新たな国民的アイデンティティを模索する動きを見せました。この「ベンガル・ルネサンス」と呼ばれる運動の中心人物であったアバニンドラナート・タゴールは、西洋の写実主義と、ムガル絵画やラージプート絵画、そして日本の絵画に影響を受けた、詩的で情緒豊かな独自の画風を確立しました。彼は、ムガル絵画の繊細な描線や淡い色彩の「ウォッシュ」技法を取り入れ、インド近代美術の基礎を築きました。このように、ムガル絵画は、近代以降のインドの芸術家たちにとって、インスピレーションの源泉であり、乗り越えるべき偉大な伝統として存在し続けました。
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・ムガル絵画とは わかりやすい世界史用語2375

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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