◯人物
17歳の時にプラトンが創設した学園アカデメイアに学び、師プラトンの元で20年学ぶ。次第にプラトンのイデア論に批判的になり、彼の死後アテネを去って、後に東方遠征などで名を馳せるアレクサンドロスの家庭教師を務める。このアレクサンドロスの援助を受け、アテネに戻り学園リュケイオンを創設。しばしば学園周辺の並木道を散歩しながら弟子たちに講義し、こうした由来からアリストテレス学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた(逍遥は、気ままにあちこちを歩きまわる、心を俗世間の外に向けることなどを意味する)。
◯主著
『自然学』『形而上学』『ニコスマス倫理学』『政治学』『詩学』
「すべての人は生まれながらに知ることを欲する。」(『形而上学』)
「友人は第二の自己」(『ニコスマス倫理学』)
◯思想
プラトンのイデア論は、現実の個物に内在しているイデア(本質)の超越的な性質を区別し、そのイデアのみで成立する世界(イデア界)を想定するものだった。アリストテレスは、このイデアの超越的な性質に反対する。なぜなら、個物に内在するイデアとイデア界に存在するイデアを分けて考えてしまうと、唯一普遍の実在であるはずのイデアが二つ、三つと数多く存在してしまうことになり、これはいたずらな重複に過ぎないからである。
このようにしてアリストテレスは(イデアのような)超越的な実在を認めず、真の実在・実体は現実にある個物であるとした。現実の個物という実体は、質料(ヒュレー)と形相(エイドス)から成り立つ。形相とは、その個物が「何であるか」を規定するものであり、例えば机には机という形相が備わっている。対して質料はその個物を構成する素材であり、机は木や金属などの質料から成り立っている。具体的な個物はこの形相と質料の合成体であるが、その在り方は、どのようになっているか。ここで用いられる概念が可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)である。可能態とはそこから変化できる可能性を含んでいる状態であり、現実態とはその可能性の内一つ、ある形相を実現し現実の個物へと変化した状態のことである。例えば、木の種はは机や椅子、家屋、その種の成長する樹木といった可能性を秘めた可能態であるが、この種が成長しやがて机になった時、これはその内に含まれていた机という形相を実現した現実態であると言うことが出来る。この時、ある質料の中には実現しうる形相をしか含んでいない。つまり、ラベンダーの種がひまわりや空気清浄機の形相を可能態として含んでいる、というようなことは有り得ないのである。
※蛇足ではあるが、このようにして実現された個物はやはり更なる可能態として、何らかの形相を実現しうるが、このように更なる高次の形相を考えていくと、やがてそれ以上変化することのない、つまり質料と結びつかない究極・純粋な形相を考えなければならないが、これはアリストテレスによれば神であり、全ての質料の究極の目的としてあるという。同様に、質料を持った個物はそれ自体何らかの形相を実現している現実態であると言えるので、その個物になる前の質料を考えることができるが、そのような形相と結びつかない最下の質料は第一質料と呼ばれる。
以上述べたのがアリストテレスの形而上学(存在そのもの・存在一般を研究する学問)であるが、以下では彼の倫理学に触れておく。アリストテレスによれば、人間が実現すべき徳は二種類に分けられる。一つは習性的徳と呼ばれるもので、人間の行動や態度の善さに関わる徳である。すなわち、人間の生におけるあらゆる場面で欲求や感情を抑え、中庸(メソテース)を選ぶ習慣を身に付けることで、性格の善さを実現することができるのである。ここで言われる中庸とは、欲求や感情による選択を必要とする場面で、過不足の両極端を避けて適切な中間を選ぶことであり、例えば勇気は無謀と臆病の中間を判断し選択することによって得られる習性的徳であり、この判断の基準となるのが中庸である。具体的内容としては勇気や節制、友愛、正義等が挙げられる。もう一つは知性的徳と呼ばれるもので、文字通り人間の知性あるいは理性の働かせ方に関わる徳である。これには、真理の純粋な観想(テオーリア)、正しい論理・推論を用いる学問、知恵、思慮、技術などが挙げられる。
しかし、このような徳はそもそも何のために実現されるべきであるのか。それはアリストテレスによれば、幸福という究極の最高善を追求するためである。すべてのものは自己に固有の能力を発揮することに善さがあり、人間に固有の能力とは徳をそなえた魂を活動させることであるが、このことが幸福にほかならないのである。アリストテレスはとりわけ、理性を働かせて真理を純粋に見る観想的生活に最高の幸福があるとした。
ただ、このような観想的生活は、個人のうちには実現されない。というのも、アリストテレスによれば人間とは「社会(ポリス)的動物」なのであって、人間は共同体・社会・国家を離れては生きられないし、徳の実現も不可能だからである。ここから、アリストテレスの倫理学は政治学の要素を帯びてくるようになる。すなわち、観想的生活を可能にするような国家とはどのようなものなのかを模索していく。
アリストテレスによれば、国家は人間の生活を満たす完全な自足の条件をそなえ、その自足性を最高度に実現させなければならない。このために国家は全体的正義を行わなければならない。全体的正義とは徳の全体がそなわり、正しい行為を行う状態にあることであるが、これとは別にアリストテレスより相対的なは部分的正義を考えた。この正義は配分的正義と調整的正義、交換的正義に区別される。各人の業績や能力に応じて、地位や報酬を正しく配分することが配分的正義で、各人の損益が平等になるように調整するのが調整的正義、異なる商品などを交換する場合、それぞれの価値や分量などが等しくなるようにするのが交換的正義である。例えば、野球選手でも一軍と二軍ではその給与に差があるが、これは能力の差に基づいている、つまり配分的正義に基づいているといえる。他方、全く同じ状況で同じ罪を犯しても、社会的地位や能力に応じて罰の重さが増減してはならない。信号無視をすれば誰であれ等しく罰金7000円を払わなければならないが、これは調整的正義に基いていると言えるのである。
以上のような正義を実現した国家においてこそ、人間は理想の観想的生活を送ることが出来るのである。「国家の目的と目標は善良な生活であり、社会生活の制度はそのための手段である」。
※ちなみに、アリストテレスはより具体的に政治形態を三つ挙げ、それぞれの特徴を分析したことでも知られる。政治形態には君主制・貴族制・共和制があるが、それぞれの長所・短所は次のようになる。まず君主制は、ただ一人の支配者である君主が有能であれば国家は目覚ましく発展していくが、君主が無能であったり権力に溺れたりする時、国家は独裁制(僭主政)に陥り、衰退していく。次に貴族制は権力が分散するため、独裁を未然に防ぐことができるが、ともすれば権力闘争・派閥争いに没頭し、堕落した寡頭制のもとで国家は衰退する。共和制は安定性が高く公平な政治形態であるが、民衆が私利私欲に走ったり無責任な扇動家に左右されるといったように堕落すれば、衆愚制(アリストテレスの言葉を用いれば民主制)に堕落する。アリストテレスが最も重視したのは共和制であるが、その国家運営は奴隷制度を前提したものであり、現代的な観点からすれば批判を免れないであろう。