ウルドゥー語とは
ウルドゥー語は、インド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語派に属する言語であり、その歴史は南アジアの豊かな文化的多様性と深く結びついています。 特に、16世紀初頭から19世紀半ばにかけてインド亜大陸の大部分を支配したムガル帝国の時代は、ウルドゥー語が形成され、洗練され、そして広範な地域で通用するリンガ・フランカ(共通語)としての地位を確立する上で、極めて重要な時期でした。 ムガル帝国という、多様な民族、文化、言語が交錯する巨大な政治的・文化的空間は、ウルドゥー語がその語彙を豊かにし、文学的な表現力を高め、社会の様々な階層に浸透していくための肥沃な土壌を提供したのです。この言語の発展は、単なる言語学的な現象にとどまらず、ムガル帝国時代の社会、文化、政治の変動を映し出す鏡であり、インド亜大陸におけるイスラム文化とヒンドゥー文化の融合の象徴でもあります。
ウルドゥー語の直接的な起源は、デリー周辺で話されていたカリーボーリーと呼ばれるインド・アーリア語派の口語方言に遡ります。 この言語は、文法的な構造においては土着のインド系言語を基盤としていますが、その語彙はペルシア語、アラビア語、そしてチュルク諸語から多大な影響を受けています。 この言語的融合のプロセスは、デリー・スルターン朝(1206年~1526年)の時代に始まりましたが、ムガル帝国の成立によってその流れは加速し、より洗練された形へと昇華していきました。 ムガル帝国の支配者たちは、中央アジア起源のティムール朝の末裔であり、彼らの母語はチャガタイ語(チュルク諸語の一つ)でしたが、宮廷の公用語として、また高度な文化・行政言語としてペルシア語を採用していました。 このペルシア語の圧倒的な影響力が、ウルドゥー語の性格を決定づける最も重要な要因となったのです。
「ウルドゥー」という名称自体が、この言語の成り立ちを象徴しています。この言葉は、チュルク語で「軍隊」や「野営地」を意味する「オルドゥ」に由来すると広く考えられています。 これは、デリー・スルターン朝やムガル帝国の多民族的な軍隊の駐屯地で、ペルシア語、アラビア語、チュルク語を話す兵士たちと、現地のインド系言語を話す人々との間でコミュニケーションを図るために生まれた混成言語であったという説に基づいています。 この「野営地の言語」は、当初は実用的なコミュニケーションの手段として生まれましたが、次第に都市の市場やスーフィー(イスラム神秘主義者)の集う場へと広がり、より広範な社会階層で話されるようになりました。 しかし、ウルドゥー語が単なる軍隊の俗語から、洗練された文学言語へと飛躍を遂げたのは、ムガル帝国の宮廷による庇護があったからに他なりません。 ムガル皇帝たちは、ペルシア語の文学や芸術の偉大なパトロンであると同時に、インドの土着文化にも深い関心を示し、両者の融合を促しました。 この文化的な統合政策が、ペルシア語の優雅さとインドの言語の生命力を兼ね備えたウルドゥー語の発展を力強く後押ししたのです。
ウルドゥー語の言語的基盤と形成過程
ウルドゥー語の誕生は、一つの出来事ではなく、数世紀にわたる言語的接触と文化融合の長いプロセスの結果です。その根幹をなすのは、インド・アーリア語族に属する言語であり、特にデリーとその周辺地域で話されていたカリーボーリー方言がその直接の祖先とされています。 この言語は、古くはシャウラセーニー・プラークリット、そしてアパブランシャといった中世インド・アーリア語から発展したもので、文法構造や基本的な語彙の多くはインド土着のものです。 したがって、ウルドゥー語は、その骨格においてはヒンディー語と共通の基盤を持っており、日常会話レベルでは両言語の話者は互いに意思疎通が可能です。 この共通の基層言語は、しばしばヒンドゥスターニー語と呼ばれます。
ウルドゥー語をヒンディー語から区別し、その独自のアイデンティティを形成した決定的な要因は、イスラム世界の主要言語であったペルシア語とアラビア語からの大規模な語彙の借用です。 このプロセスは、11世紀初頭のガズナ朝による北インド侵攻に始まり、13世紀に成立したデリー・スルターン朝の時代に本格化しました。デリー・スルターン朝を構成したテュルク系やアフガン系の支配者たちは、行政と文化の言語としてペルシア語を導入し、これがインド亜大陸におけるペルシア語の威信を確立しました。 ムガル帝国もこの政策を継承し、ペルシア語は帝国の公用語として、宮廷、行政、外交、そして高級文化のあらゆる場面で用いられました。
このペルシア語の圧倒的な影響下で、デリー周辺の口語であったカリーボーリーは、膨大な数のペルシア語彙を取り込み始めました。 借用されたのは、単に個々の単語だけではありませんでした。詩的な表現、雅語、行政用語、法률用語、科学技術用語など、高度な概念を表す語彙群が体系的に導入され、ウルドゥー語の表現能力を飛躍的に高めました。 さらに、ペルシア語を通じて、イスラム教の宗教言語であるアラビア語からも多くの語彙が流入しました。 哲学、神学、科学、数学といった分野の学術用語の多くはアラビア語に由来します。 このようにして、ウルドゥー語は、インドの言語的基盤の上に、ペルシア・アラビア語彙という精緻な上部構造を築き上げていったのです。
チュルク諸語の影響も無視できません。 ムガル帝国の支配者層であるティムール朝はテュルク系であり、彼らの母語であったチャガタイ語もウルドゥー語に一定の影響を与えました。 「ウルドゥー」という言語名そのものがチュルク語の「オルドゥ(軍隊、野営地)」に由来するように、軍事関連の用語や日常生活に関わるいくつかの単語にチュルク語起源のものが見られます。 しかし、その影響の度合いはペルシア語やアラビア語に比べると限定的です。多くの場合、チュルク語の単語もペルシア語を経由して借用されました。
この言語形成のプロセスを説明する上で、かつて広く支持されていたのが「野営地言語説」です。 この説によれば、ウルドゥー語は、デリー・スルターン朝やムガル帝国の多国籍軍の野営地で、異なる言語を話す兵士たちが意思疎通のために作り出した混成語(ピジン言語)が起源であるとされます。 「ウルドゥー」という言葉の意味がこの説を裏付けているように見え、長らく通説とされてきました。しかし、近年の言語学研究では、この説に対して批判的な見解が強まっています。 言語学者のマックス・ミュラーが指摘したように、複数の言語を混ぜ合わせただけで新しい言語が生まれるというのは言語学的に見て単純すぎます。 また、ウルドゥー語の文法構造がカリーボーリーにしっかりと根差していることは、単なる混成語ではないことを示唆しています。 むしろ、ウルドゥー語は、既存のインドの言語が、支配階級の言語であるペルシア語の強い影響を受けて、語彙を大幅に借用しながら徐々に発展していったと考える方がより正確です。 つまり、野営地は言語接触の一つの場ではあったかもしれませんが、言語が「生まれた」場所ではなく、既存の言語が変容し、広まるための触媒として機能した場所と捉えるべきでしょう。
初期のウルドゥー語は、ヒンディー、ヒンダヴィー、デリーヴィ、レークタなど、様々な名称で呼ばれていました。 特に「レークタ」という名称は重要です。ペルシア語で「混ぜ合わされたもの」「砂を混ぜた漆喰」を意味するこの言葉は、ペルシア語の詩の形式に現地の言葉(ヒンダヴィー)を散りばめた詩のスタイルを指す言葉として使われ始めました。 13世紀後半の詩人アミール・ホスローは、ペルシア語とヒンダヴィーを巧みに織り交ぜた作品を残し、「ウルドゥー文学の父」とも称されていますが、彼自身が使った言葉は「ヒンダヴィー」でした。 「レークタ」という言葉が、やがてペルシア語の影響を強く受けたこの新しい文学言語そのものを指すようになり、18世紀後半になってようやく「ウルドゥー」という名称が一般的になりました。 この名称の変遷自体が、この言語が徐々にそのアイデンティティを確立していった過程を物語っています。
ムガル宮廷の役割と文学的庇護
ムガル帝国は、ウルドゥー語が単なる口語から洗練された文学言語へと昇華する上で、決定的な役割を果たしました。 帝国の宮廷は、文化と芸術の中心地であり、皇帝や高位の貴族たちは、学者、詩人、芸術家たちの寛大なパトロンとして振る舞いました。 この庇護政策が、ウルドゥー語による文学創作活動を活発化させ、その地位を飛躍的に高める原動力となったのです。
ムガル帝国の公用語は一貫してペルシア語でした。 バーブルに始まる初期の皇帝たちはペルシア文化に深く傾倒しており、宮廷ではペルシア語の詩や年代記が盛んに作られました。 しかし、帝国がインド亜大陸に深く根を下ろすにつれて、支配者層と被支配者層であるインドの民衆との間のコミュニケーションの必要性が高まりました。 この文化的・言語的な架け橋としての役割を担ったのが、ペルシア語の語彙を豊富に含みながらも、インドの言語構造を持つウルドゥー語(当時はヒンダヴィーやレークタと呼ばれていた)でした。
ムガル皇帝たち自身が、この新しい言語の発展に関心を示しました。アクバル帝(在位1556-1605)の時代には、宗教や文化の融合政策が推進され、多様な言語が宮廷で交わされました。 アクバルはサンスクリット語の古典をペルシア語に翻訳させるなど、インドの文化遺産にも敬意を払っており、このような開かれた文化環境が、言語の融合を促進しました。 シャー・ジャハーン帝(在位1628-1658)が首都をデリーに移し、シャー・ジャハーナーバード(現在のオールドデリー)を建設したことは、ウルドゥー語の発展における一つの転機となりました。 新しい首都の壮麗な市場は「ウルドゥー・エ・ムアッラー(高貴なる野営地)」と呼ばれ、ここが言語接触の中心地となり、デリー方言としてのウルドゥー語が形成される上で重要な役割を果たしたと言われています。
しかし、ウルドゥー語が宮廷で本格的に文学言語としての地位を得るのは、ムガル帝国の後期になってからです。特に、ムハンマド・シャー(在位1719-1748)の治世は、ウルドゥー詩が宮廷で花開いた時代として知られています。 彼の宮廷には多くのウルドゥー詩人が集い、ペルシア語詩に匹敵する芸術性を追求しました。この頃から、ウルドゥー語は単なる俗語ではなく、エリート層の言語としても認識されるようになっていきました。
ムガル帝国の衰退期、特に18世紀から19世紀にかけて、政治的な権力が失われていく中で、皮肉にもウルドゥー文学は黄金時代を迎えます。 帝国の権威が揺らぐ中、デリーやラクナウの宮廷は、失われゆく文化の最後の砦として、詩や音楽の庇護に一層力を注ぎました。この時代のデリーは、ペルシア語詩の伝統を受け継ぎつつ、独自のインド的スタイル(サブケ・ヒンディー)を確立した詩人たちの拠点でした。 そして、この土壌から、ミール・タキー・ミール(1723-1810)やミルザ・ガーリブ(1797-1869)といった、ウルドゥー詩の歴史における最高の巨匠たちが登場します。 彼らは、ウルドゥー語を用いて、愛の喜びと苦悩、人生の儚さ、哲学的な思索、そして衰退していく都市デリーへの哀愁といった普遍的なテーマを、かつてないほどの深みと洗練された表現で詠い上げました。
最後のムガル皇帝であったバハードゥル・シャー・ザファル(在位1837-1857)自身が、優れたウルドゥー詩人でした。 彼の宮廷は、政治的な実権を完全に失っていたにもかかわらず、ザウクやガーリブといった当代一流の詩人たちが集う、ウルドゥー文学の最後の輝かしい中心地でした。 ザファルは詩の競技会(ムシャーイラ)を主催し、自らも詩作に励みました。 彼の詩には、失われた帝国の栄光への郷愁と、一個人の深い悲しみが切々と詠まれており、ムガル時代の終焉を象徴する文学作品として高く評価されています。
このように、ムガル宮廷は、ウルドゥー語を行政言語として公式に採用することはなかったものの、その文化的な庇護を通じて、この言語を高度な芸術表現が可能な洗練された文学言語へと育て上げました。 皇帝や貴族がパトロンとなり、詩人たちが競い合う場を提供したことで、ウルドゥー語の語彙は洗練され、詩の形式は確立され、その社会的威信は不動のものとなったのです。ムガル宮廷という坩堝の中で、ウルドゥー語はインドとペルシアの文化遺産を融合させ、南アジアを代表する豊かな文学的伝統を築き上げることに成功したのです。
デカン高原におけるウルドゥー語の発展:ダッキニーの役割
ムガル帝国時代のウルドゥー語の発展を語る上で、北インドのデリーなどの中心地と並行して、あるいはそれに先駆けて、南インドのデカン高原で独自の発展を遂げた「ダッキニー・ウルドゥー」の存在は極めて重要です。 ダッキニーは、北インドのウルドゥー語(しばしばシュマーリー・ウルドゥーと呼ばれる)とは異なる特徴を持ち、独自の豊かな文学的伝統を築き上げました。そして、その成果は後に北インドのウルドゥー文学の発展にも大きな影響を与えることになります。
ダッキニーの起源は、14世紀に遡ります。デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の君主ムハンマド・ビン・トゥグルクが、1327年に首都をデリーからデカン高原のダウラターバードへ遷都したことが、その直接的なきっかけとなりました。 この大規模な遷都に伴い、デリーから多くの官僚、兵士、スーフィー、そして一般市民が南下し、彼らが話していたデリー周辺の口語(当時のヒンダヴィー)がデカン高原にもたらされました。 この北から来た言語は、デカン高原の土着言語であるマラーティー語、カンナダ語、テルグ語といったドラヴィダ語族や他のインド・アーリア語族の言語と接触し、その影響を受けながら独自の発展を遂げていきました。
14世紀半ばにトゥグルク朝から独立したバフマニー朝(1347-1527)、そしてその後継であるビジャープル王国、ゴールコンダ王国、アフマドナガル王国などのデカン・スルターン朝の時代に、ダッキニーは宮廷の庇護を受けて文学言語として大きく開花しました。 これらの王国の支配者たちは、北インドのムガル帝国と同様にペルシア語を公用語としていましたが、同時に地域に根差した文化の育成にも熱心であり、ダッキニー語による文学創作を奨励しました。 ゴールコンダ王国のスルタンであったムハンマad・クリー・クトゥブ・シャー(在位1580-1612)や、ビジャープル王国のアリー・アーディル・シャー二世(在位1656-1672)など、君主自らが優れたダッキニー詩人であった例も少なくありません。
ダッキニー文学は、北インドのウルドゥー文学が本格的に発展するよりも一世紀以上早く、15世紀から17世紀にかけてその黄金時代を迎えました。 その特徴は、ペルシア語やアラビア語の語彙を取り入れつつも、サンスクリット語や地域の土着言語に由来する単語をより多く保持しており、表現がより素朴で直接的である点にあります。 また、ペルシア文学の伝統的な詩形であるガザル(恋愛抒情詩)やマスナヴィー(物語詩)だけでなく、インド土着のテーマや物語、例えばヒンドゥー教の神話や民話なども積極的に取り入れられました。 スーフィーたちは、イスラムの神秘主義思想を民衆に分かりやすく伝えるために、このダッキニー語を積極的に用いて詩や散文を著しました。
ダッキニー文学の最も重要な功績の一つは、北インドのウルドゥー詩人たちに大きな刺激を与え、ウルドゥー語による詩作の可能性を示したことです。 17世紀末から18世紀初頭にかけて活躍したダッキニー詩人ワリー・ダッキニー(またはワリー・アウランガーバーディー、1667-1707)は、その画期的な人物として記憶されています。 1700年頃に彼がデリーを訪れ、自らのダッキニー語の詩集(ディーワーン)を披露したところ、それはデリーの詩壇に衝撃を与えました。 当時のデリーでは、詩作は依然としてペルシア語で行うのが主流であり、現地の言葉であるレークタはまだ洗練されていないと考えられていました。しかし、ワリーの作品は、レークタ(ダッキニー)がペルシア語に劣らない高度で芸術的な表現が可能であることを証明してみせたのです。
ワリーの成功に触発され、デリーの詩人たちはこぞって自分たちの母語であるレークタで詩作を始めました。 これは、ウルドゥー文学史における一大転換点であり、これ以降、ウルドゥー詩は急速な発展を遂げ、18世紀にはミール・タキー・ミールのような大家を生み出すに至ります。 つまり、デカンで育まれた文学的伝統が、ムガル帝国の心臓部であるデリーに逆輸入される形で、ウルドゥー文学全体の発展を促したのです。
アウラングゼーブ帝によるデカン征服(17世紀末)以降、デカン・スルターン朝が滅亡し、ムガル帝国の直接統治下に入ると、ダッキニーは徐々に北インドの標準的なウルドゥー語の影響を強く受けるようになり、その独自の文学言語としての性格は薄れていきました。 しかし、ハイデラバードなどを中心に話し言葉としては存続し、その語彙や表現は地域のウルドゥー語方言の中に生き続けています。 ダッキニーの歴史は、ウルドゥー語が単一の中心から放射状に広がったのではなく、複数の中心地で並行的に、そして相互に影響を与えながら発展してきた、複雑でダイナミックな歴史を持つことを示しています。
ウルドゥー詩の黄金時代と代表的詩人
ムガル帝国の政治的権威が衰退し始めた18世紀から、帝国が名実ともに終焉を迎える19世紀半ばにかけて、ウルドゥー文学、特に詩(シャーイリー)は、その芸術的な頂点を迎えます。 この時代は、しばしばウルドゥー詩の「黄金時代」と称され、後世に計り知れない影響を与えた数多くの偉大な詩人たちが輩出されました。 帝国の衰退という社会不安と混沌の中で、詩人たちは人間の内面世界に深く分け入り、愛、喪失、存在の儚さ、神との関係といった普遍的なテーマを、洗練された言語と形式を用いて表現したのです。この時代の中心地は、依然としてムガル帝国の首都であったデリーでしたが、アワド藩王国の首都ラクナウもまた、独自の文化と詩のスタイルを育む重要な中心地として台頭しました。
この黄金時代の幕開けを告げ、その後のウルドゥー詩の方向性を決定づけたのが、ミール・タキー・ミール(1723-1810)です。 「フダー・エ・スハン(詩の神)」と称されるミールは、その簡潔でありながら深い情感を湛えた作風で知られています。彼の詩の主題は主に愛の苦悩であり、報われない恋の痛み、別離の悲しみ、嫉妬といった感情が、抑制の効いた、しかし胸を打つ言葉で綴られます。 彼のガザル(恋愛抒情詩)は、平易な言葉遣いの中に深い哲学的な思索と人生への鋭い洞察を織り込み、ウルドゥー詩における抒情性の規範を確立しました。ナーディル・シャーによるデリー略탈やアフガン勢力の侵攻といった激動の時代を生きたミールの作品には、荒廃していく都市デリーへの哀惜の念も色濃く反映されており、「都市の悲劇を嘆く詩」というジャンルの代表的な作例ともなっています。
ミールと並び称される18世紀の巨匠が、ミルザー・ムハンマド・ラフィー・サウダー(1713-1781)と、フワージャ・ミール・ダルド(1721-1785)です。 サウダーは、ガザルだけでなく、カシーダ(頌詩)やハジウ(風刺詩)の分野で特に優れた才能を発揮しました。彼の風刺詩は、衰退するムガル社会の腐敗や偽善を痛烈に批判し、社会批評としての詩の可能性を切り開きました。 一方、ダルドはスーフィー(イスラム神秘主義者)の家系に生まれ、その詩は深い精神性と神秘主義的な思想に貫かれています。彼の作品は、世俗的な愛を超えて、神との合一を目指す精神的な探求をテーマとしており、ウルドゥー詩に哲学的な深みを与えました。
19世紀に入ると、ウルドゥー詩は史上最も偉大な詩人とされるミルザー・アサドゥッラー・ハーン・ガーリブ(1797-1869)の登場によって、新たな高みへと到達します。 ガーリブは、ムガル帝国がイギリスの植民地支配下で完全に形骸化していく時代を生きました。彼の詩は、その複雑な知性、哲学的な懐疑主義、そして独創的な比喩表現によって特徴づけられます。 ガーリブは、伝統的な詩の主題である愛や神について詠う際にも、既存の枠組みにとらわれず、常に新しい視点や解釈を提示しようと試みました。彼の詩句は多義性に富み、表層的な意味の奥に、存在の矛盾や人間に対する深い洞察が隠されています。彼はペルシア語詩にも精通しており、その学識を背景に、ウルドゥー語の表現の可能性を極限まで広げました。 ガーリブはまた、優れた散文作家でもあり、彼が友人たちに宛てた書簡は、生き生きとした口語体で書かれ、近代ウルドゥー散文の基礎を築いたと評価されています。
ガーリブの同時代人であり、最後のムガル皇帝バハードゥル・シャー・ザファルの詩の師でもあったシェイク・ムハンマド・イブラーヒーム・ザウク(1789-1854)や、モーミン・ハーン・モーミン(1800-1851)も、この時代の重要な詩人です。 ザウクは、言語の技巧や音韻の美しさを追求した作風で知られ、宮廷詩人として高い評価を得ました。 モーミンは、心理描写の巧みさで知られ、特に恋愛における複雑な感情の機微を繊細に描き出しました。
これらの詩人たちが集い、互いの作品を披露し、批評し合った場が「ムシャーイラ」と呼ばれる詩の朗誦会でした。 ムシャーイラは、ムガル後期のデリーやラクナウの文化生活において中心的な役割を果たし、詩人たちの創作意欲を刺激し、聴衆の文学的素養を高める上で不可欠な存在でした。 皇帝から庶民まで、様々な階層の人々がムシャーイラに参加し、ウルドゥー詩は宮廷文化であると同時に、都市の共有財産でもあったのです。 このようにして、ムガル帝国末期の混沌とした時代の中で、ウルドゥー詩は文化的なアイデンティティの拠り所として、また時代の苦悩を表現する媒体として、比類なき輝きを放ったのです。
ムガル帝国の衰退とウルドゥー語の遺産
18世紀半ば以降、ムガル帝国の政治的・軍事的な力は急速に衰え、その広大な領土は地方勢力やヨーロッパの植民地会社によって蚕食されていきました。 しかし、帝国の政治的衰退とは裏腹に、その文化的影響力、特に言語の領域における遺産は、形を変えながらも生き続け、南アジアの近代史に深い刻印を残すことになります。ウルドゥー語は、ムガル文化の最も重要な継承者の一つとして、帝国の終焉後も発展を続け、新たな社会的・政治的役割を担っていくことになりました。
ムガル帝国の衰退期において、ウルドゥー語はペルシア語に代わる主要な文学言語としての地位を確立しました。 帝国の中心であったデリーがナーディル・シャーの侵攻(1739年)などで荒廃すると、多くの詩人や学者たちが、アワド藩王国の首都ラクナウなど、比較的安定していた地方の宮廷に避難しました。 ラクナウは、デリーとは異なる洗練された文化を育み、ウルドゥー語の発展における第二の中心地となりました。ラクナウ派の詩は、言語の技巧、修辞的な装飾、洗練されたマナーを重視する傾向があり、デリー派の持つ素朴さや哲学的な深みとは対照的なスタイルを確立しました。 このように、帝国の政治的な断片化は、ウルドゥー語の文化的な中心地の多様化を促し、言語の表現にさらなる豊かさをもたらしたのです。
19世紀に入り、イギリス東インド会社がインド亜大陸における支配的な勢力となると、行政言語の転換が図られました。1837年、東インド会社は、長らくムガル帝国の公用語であったペルシア語を廃止し、北インドのいくつかの地域で英語と共にウルドゥー語を公用語として採用しました。 これは、ウルドゥー語の歴史における画期的な出来事でした。宮廷の文学言語であったウルドゥー語が、初めて広範な地域の行政・司法の言語としての地位を与えられたのです。 この決定は、ウルドゥー語がすでに北インドの広範な地域でリンガ・フランカとして機能していた現実を反映したものでした。 この公用語化により、ウルドゥー語による散文、特に公文書や教科書、新聞などの実用的な文章の需要が急増し、近代的な散文スタイルの発展が大きく促進されました。
しかし、このウルドゥー語の公用語化は、後に「ヒンディー・ウルドゥー論争」として知られる言語的な対立の火種を生むことにもなります。 ウルドゥー語がペルソ・アラビア文字で書かれ、ペルシア語・アラビア語彙を多用するのに対し、ヒンディー語の推進者たちは、同じヒンドゥスターニー語をデーヴァナーガリー文字で表記し、語彙の源泉としてサンスクリット語を重視するよう主張しました。 この言語をめぐる対立は、19世紀後半から20世紀にかけて、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の宗教的・文化的なアイデンティティの分離と密接に結びついていきました。ウルドゥー語はイスラム教徒の文化の象徴と見なされるようになり、一方でヒンディー語はヒンドゥー教徒のアイデンティティと結びつけられる傾向が強まりました。
1857年のインド大反乱の後、イギリス政府がムガル帝国を正式に滅ぼし、インドを直接統治下に置くと、ウルドゥー語はムガル宮廷という最後のパトロンを失いました。 しかし、すでにウルドゥー語は、行政、教育、出版の世界に深く根を下ろしており、その生命力を失うことはありませんでした。むしろ、新しい社会状況の中で、詩人や作家たちは、近代的な思想やナショナリズム、社会改革といった新しいテーマを取り上げ、ウルドゥー文学の新たな地平を切り開いていきました。
ムガル帝国が残したウルドゥー語という遺産は、1947年のインド・パキスタン分離独立によって、決定的な形で二つの国家に分かち持たれることになります。ウルドゥー語はパキスタンの国語となり、国民統合の象徴としての役割を担うことになりました。 一方、インドにおいても、ウルドゥー語は憲法で定められた22の公用語の一つとしてその地位を認められ、特にウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、デリー、テランガーナ州など、かつてのムガル文化の中心地であった地域で、今なお多くの人々によって話され、豊かな文学活動が続けられています。
ウルドゥー語はムガル帝国の産物であり、その文化的なるつぼの中で育まれた言語です。 ペルシア語の洗練とインドの言語の活力が融合して生まれたこの言語は、帝国の宮廷で磨かれ、詩人たちの手によって芸術の高みへと引き上げられました。 ムガル帝国が歴史の舞台から姿を消した後も、ウルドゥー語は南アジアの文化的多様性と歴史的遺産を体現する存在として生き続けています。