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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / トルコ・イラン世界の展開

絹製品とは わかりやすい世界史用語2360

著者名: ピアソラ
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絹製品《イラン》とは

サファヴィー朝(1501年-1736年)の時代、イランの絹織物産業は芸術的、技術的にその頂点を迎えました。 この時代に生産された絹製品は、単なる衣料や装飾品にとどまらず、王朝の威信、経済力、そして国際的な影響力を象徴する重要な役割を担っていました。 王室の庇護のもと、熟練した職人たちが生み出した絹織物は、その精緻なデザイン、鮮やかな色彩、そして革新的な技術によって、当時の世界で最も価値のある奢侈品の一つとして広く知られていました。



歴史的背景:サファヴィー朝以前の伝統と王朝の成立

サファヴィー朝が16世紀初頭に権力の座に就いた時点で、イランの織物産業はすでに高度に発展していました。 古代アケメネス朝の時代から、イランは中国から伝わった絹の生産技術を独自に発展させ、優れた織物を生産する中心地として知られていました。 サーサーン朝時代には、イランの織物は世界的に名声を博し、王や商人からの贈答品として西方のローマ帝国などにもたらされていました。 その後、モンゴル帝国などの支配を経て、ティムール朝(1370年-1506年)の時代には、ヘラートなどの都市で宮廷工房が栄え、写本芸術と連携した精緻な織物が生み出されました。

サファヴィー朝の創始者であるシャー・イスマーイール1世(在位1501年-1524年)は、イランを再統一し、シーア派十二イマーム派を国教と定めることで、国家のアイデンティティを確立しました。 この政治的・宗教的な変革は、芸術分野にも大きな影響を与え、サファヴィー朝独自の様式が形成される基盤となりました。イスマーイール1世の時代には、すでにギーラーンやマーザンダラーンといった地域で絹や綿織物の工房が設立され、養蚕が奨励されていました。 しかし、スンニ派のオスマン帝国との対立は、イランの絹貿易に大きな打撃を与えました。 1514年のチャルディラーンの戦いでの敗北後、オスマン帝国のスルタン、セリム1世はイラン産絹の禁輸措置をとり、アナトリア半島における絹貿易を厳しく制限しました。 これにより、サファヴィー朝は経済的に大きな困難に直面し、絹の輸出路を西欧諸国に求めるようになります。

続くシャー・タフマースブ1世(在位1524年-1576年)の治世下で、芸術は再び隆盛期を迎えます。 彼は芸術の偉大な後援者であり、特にペルシャ細密画や書道、製本といった芸術が彼の庇護のもとで大きく発展しました。 この時代には、宮廷の需要に応えるための王立工房が設立され、タフマースブ1世の宮廷画家たちが描いたデザインが織物の意匠にも取り入れられるようになりました。 1566年にオスマン帝国のスルタン、セリム2世の即位式に派遣されたタフマースブ1世の使節団は、鳥や花、動物が刺繍された色とりどりの豪華な絹の衣装を身に着けていたと記録されており、当時の宮廷の華やかさを物語っています。

このように、サファヴィー朝は、それ以前から続くイランの豊かな織物生産の伝統を継承しつつ、国家の威信をかけた芸術振興策と、オスマン帝国との対立という国際情勢の中で、独自の絹織物文化を開花させていったのです。

シャー・アッバース1世の改革と絹産業の国家独占

サファヴィー朝の絹産業がその最盛期を迎えたのは、第5代シャーであるアッバース1世(在位1587年-1629年)の治世下でした。 彼はイラン近代史上最も偉大な統治者の一人とされ、強力な中央集権体制を築き、軍事、経済、芸術の各分野で大規模な改革を断行しました。 絹産業は、彼の経済改革の中核をなすものでした。
アッバース1世は、それまで独立した生産者が担っていた絹の生産と交易を、国家の完全な管理下に置く「国家独占」体制を確立しました。 彼は、生糸の主要な生産地であったカスピ海沿岸のギーラーン州とマーザンダラーン州を王領地とし、生産を直接管理下に置きました。 これにより、国は絹から得られる莫大な利益を独占し、国家財政を飛躍的に強化することに成功しました。

さらに、アッバース1世は国際貿易のルートを再編しました。彼は、当時ポルトガルが支配していたペルシャ湾の港を奪還し、海上交易路を確保しました。 これにより、オスマン帝国の支配地域を迂回して、イランの絹を直接ヨーロッパ市場へ輸出することが可能になりました。 この戦略は、宿敵オスマン帝国への経済的打撃となると同時に、イランに莫大な富をもたらしました。

1598年、アッバース1世は首都をガズヴィーンからイスファハーンへ遷都し、壮大な都市計画を実行します。 この新しい首都イスファハーンは、サファヴィー朝の政治、経済、そして文化の中心地として繁栄しました。 アッバース1世は、アルメニア人の織物職人たちをイスファハーン近郊のニュー・ジュルファ地区に移住させ、彼らの高度な技術と国際的な商業ネットワークを活用しました。 ニュー・ジュルファの職人たちは、国の監督のもとで、主に輸出向けの高級織物を生産する重要な役割を担いました。

アッバース1世の改革は、絹産業の組織化と効率化をもたらしただけではありませんでした。彼はインフラ整備にも力を注ぎ、国内の交易路を安全にするために道路やキャラバンサライ(隊商宿)を建設しました。 これにより、商人たちはより安全かつ迅速に商品を輸送できるようになり、国内経済全体の活性化にもつながりました。

シャー・アッバース1世の強力なリーダーシップと先見性のある政策によって、サファヴィー朝の絹は単なる商品から、国家の経済を支え、国際的な外交を有利に進めるための戦略的なツールへと昇華したのです。 彼の治世は、イランの絹が世界市場で不動の地位を築き、その名声を不朽のものとした黄金時代として記憶されています。

生産体制:宮廷工房と民間工房

サファヴィー朝の絹織物生産は、大きく分けて二つの体制によって支えられていました。一つはシャーの直接的な後援を受けた「宮廷工房」、もう一つはヤズドやカーシャーンといった伝統的な織物都市に拠点を置く「民間工房」です。

宮廷工房は、主にシャーや宮廷の高官たちのための最高品質の織物を生産する目的で設立されました。 これらの工房は、首都のタブリーズ、ガズヴィーン、そしてイスファハーンに置かれ、国が経済を中央集権化する過程で重要な役割を果たしました。 宮廷工房では、当代一流の芸術家やデザイナーが動員され、彼らの描いた精緻な下絵(カルトン)をもとに、熟練した職人たちが織物を製作しました。 このように、写本芸術家、細密画家、書家といった他の芸術分野の専門家と織物職人との密接な連携が、サファヴィー朝の織物デザインを芸術の域にまで高める原動力となりました。 宮廷工房で生産された絹織物は、シャーの権威と富を象徴するものであり、豪華な衣装(ハラート)や宮殿の装飾、さらには外国の君主や使節への贈答品として用いられました。

一方、ヤズドやカーシャーンといった都市では、古くからの伝統を受け継ぐ民間工房が活動を続けていました。 これらの工房は、宮廷工房のように国家の直接的な管理下にはありませんでしたが、国内市場や海外輸出向けの高品質な絹織物を生産し、サファヴィー朝の経済において重要な位置を占めていました。 特にヤズドとカーシャーンは、ビロード(ベルベット)やランパス織といった高級絹織物の生産で名高く、その製品はイラン国内だけでなく、国境を越えて広く取引されました。

民間工房の中には、ギーヤース・アッディーン・アリーのように、自身の工房を所有・運営し、シャー・アッバース1世の宮廷と特別な関係を築いた著名なデザイナーも存在しました。 ギーヤースは、小規模な人物文様や花文様を得意とし、その作品は高い評価を得ていました。17世紀以降、織物に作者の署名が入れられるようになるのは、こうしたデザイナーたちの社会的地位の向上を反映しています。

シャー・アッバース1世の治世下では、アルメニア人コミュニティも織物生産において重要な役割を果たしました。 イスファハーンのニュー・ジュルファ地区に集められたアルメニア人の染織職人、織工、刺繍職人たちは、国家の監督のもとで主に輸出向けの奢侈織物を生産しました。 彼らの持つ国際的な商業網は、イランの絹をヨーロッパ市場へ届ける上で不可欠でした。

宮廷工房が芸術的な革新と最高品質の追求を主導し、民間工房がその技術を広く普及させ、多様な市場の需要に応えるという二本柱の生産体制が、サファヴィー朝の絹織物産業全体の繁栄を支えていたのです。

織りの技術と素材

サファヴィー朝の絹織物の卓越性は、その複雑で洗練された織りの技術に負うところが大きいです。職人たちは、様々な技法を駆使して、流麗なデザインと豊かな色彩を持つ、他に類を見ない織物を生み出しました。

ランパス織
サファヴィー朝で最も特徴的に用いられた技術の一つがランパス織です。 これは複合的な織物構造であり、地組織とは別の綴織(つづれおり)の緯糸(よこいと)を用いて文様を織り出す技法です。 この技術により、人物や花などの複雑なモチーフを、まるで絵画のように滑らかな線と繊細な色彩のグラデーションで表現することが可能になりました。 ランパス織の生地は、その柔軟性と表現力の高さから、主に衣服や家具調度品に用いられました。

ビロード
絹ビロードもまた、サファヴィー朝を代表する豪華な織物です。 ビロードには二つの主要な種類がありました。一つは、表面全体がパイル(輪奈)で覆われた「総パイルビロード」で、しなやかで贅沢な手触りが特徴です。 もう一つは、パイルを織り出す部分と平織りの地を残す部分を意図的に作り分けることで文様を浮かび上がらせる「浮き織りビロード(ヴォイデッド・ベルベット)」です。 この技法により、光沢のあるパイルとマットな地の対比が生まれ、立体的で深みのあるデザインが可能になりました。 特に、17世紀に制作された人物文様のビロードは、その精緻さと豪華さで知られています。


サファヴィー朝の織物の豪華さを一層際立たせたのが、金糸や銀糸を織り込んだ錦(ブロケード)です。 これらの金属糸は、絹や綿の芯糸に、金や銀の薄い帯を巻きつけて作られました。 金の効果を得るためには黄色い絹糸が、銀の効果を得るためには白い絹糸が芯として使われました。 これらの金属糸を経糸または緯糸として使用し、文様の表面に浮かせることで、織物にきらびやかな輝きと重厚な質感を加えました。 この技法で作られた織物は「ザリー」とも呼ばれ、ペルシャ語で金を意味する言葉に由来します。 ピスタチオグリーン、サーモンピンク、アリザリン(茜色)、クリーム、黄土色といった洗練された色彩のパレットに、金銀の輝きが加わることで、比類なき豪華さが生まれました。

素材と染色
サファヴィー朝の絹織物の品質は、良質な原材料と高度な染色技術に支えられていました。主要な原材料である生糸は、主にカスピ海沿岸のギーラーン地方で栽培されていました。

染色には、植物や昆虫から得られる天然染料が用いられました。例えば、赤色はラックカイガラムシやコチニールカイガラムシ、茜の根から、黄色はサフランやザクロの皮から、青色は藍から抽出されました。これらの染料を組み合わせることで、非常に多彩な色合いが生み出されました。染色は専門の職人によって行われ、鮮やかで堅牢な色を得るためには、媒染剤の使用や染色工程の厳密な管理など、高度な知識と経験が必要でした。 染料を定着させるためには、酢やクエン酸を用いた酸性浴が使われることがありました。
これらの高度な織りの技術と、厳選された素材、そして豊かな色彩を生み出す染色技術の組み合わせが、サファヴィー朝の絹織物を不朽の芸術品たらしめているのです。

デザインと図像学

サファヴィー朝の絹織物のデザインは、その時代の芸術的潮流、文学、宗教、そして宮廷文化を色濃く反映しており、非常に多様で象徴性に富んでいます。デザインは、宮廷の工房に所属する「ナクシュバンド」と呼ばれる専門の図案家によって作成されました。 彼らの目標は、織物の繰り返し単位の境界線を感じさせない、連続的で流れるようなパターンを作り出すことでした。

人物文様
サファヴィー朝の織物、特にシャー・アッバース1世の治世に作られたものの中で最も注目すべきは、人物を描いたデザインです。 これらのデザインの多くは、当時の写本挿絵(ミニアチュール)の構図や主題に大きく依拠しています。 描かれたのは、狩猟、鷹狩り、庭園での詩の朗読といった、宮廷の理想化された娯楽の場面です。
さらに、ニザーミーの『ハムサ(五部作)』に登場するホスローとシーリーンやライラとマジュヌーンといった有名な恋物語の登場人物、あるいはフェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王書)』に登場する英雄ルスタムの戦闘場面など、ペルシャ文学の物語が主題として頻繁に取り上げられました。 これらの伝説上の人物は、しばしば当時のサファヴィー朝の流行の服装で描かれました。 例えば、男性は「タージ・ハイダリー」と呼ばれる、中央に細長い棒状の芯を持つ独特のターバンを巻いた姿で表現されています。 このターバンの12の襞(ひだ)は、サファヴィー朝が国教としたシーア派十二イマーム派の12人のイマームを象徴しており、王朝のイデオロギーを示す重要な要素でした。 17世紀初頭以降になると、このタージ・ハイダリーは、より幅広で楕円形のターバンに取って代わられ、織物に描かれる人物の服装もその流行を反映して変化していきました。
女性は、長いスカーフの上に「チャハール=カド」と呼ばれる小さな四角い頭巾を頭頂部につけた姿で描かれています。 ヨーロッパ風の服装をした女性像も見られ、これは当時の国際的な文化交流を反映していると考えられます。

花鳥文様と動物文様
人物文様と並んで人気があったのが、様式化された花々と、鹿、兎、鳥といった繊細な動物を組み合わせたデザインです。 特に、「グル・ウ・ブルブル」として知られる、薔薇と小夜啼鳥(ナイチンゲール)を組み合わせたモチーフは、ペルシャ芸術において愛と美の象徴として好まれ、織物にも頻繁に用いられました。
これらのデザインは、全体に広がる複雑な格子状のパターンから、列状に配置された単一の繰り返しモチーフまで、様々な構成で見られます。 動物たちが描かれた狩猟文様の絨毯は、サファヴィー朝の芸術的達成の頂点を示すものとして高く評価されています。

アラベスクと幾何学文様
イスラム美術の伝統的な要素であるアラベスク(唐草文様)や幾何学文様も、サファヴィー朝の織物デザインの重要な構成要素でした。 特に絨毯のデザインにおいて、中央に大きなメダリオンを配置し、その周囲を流麗なアラベスクや蔓草文で埋め尽くす構成は、ティムール朝の様式を発展させたもので、サファヴィー朝の絨毯の典型的な特徴となりました。

これらの多様なデザインは、単なる装飾にとどまらず、物語、詩、宗教的象徴、そして宮廷の理想といった豊かな文化的背景を織り込んでいます。サファヴィー朝の絹織物を鑑賞することは、当時のイラン社会の精神世界を垣間見ることでもあるのです。

絹製品の種類と用途

サファヴィー朝時代に生産された絹製品は、その形状、技術、用途において非常に多岐にわたっていました。これらは宮廷生活のあらゆる場面を彩り、また社会的な地位を示す重要な指標でもありました。

衣服
絹は、宮廷の男女の衣服に最も好まれた素材でした。 残された絵画や現存する衣服から、当時の服装をうかがい知ることができます。基本的な構成は、複数の衣服を重ね着するスタイルでした。

男性の服装は、まず肌着としてチェックやストライプ柄の繊細な生地で作られたシャツを着用し、その下にズボンを履きました。 その上に、木綿のベスト(アルハーロク)を着て、さらに「カバー」と呼ばれるローブを羽織りました。 ローブは体にフィットするように裁断され、前で合わせるか、横で留める形式でした。 冬には、毛皮の裏地をつけたローブや羊皮のマントが防寒着として用いられました。 腰には幅広の帯(サッシュ)を締めましたが、これはシャー・アッバース1世の時代に特に流行し、金糸で豪華に装飾されたものが好まれました。

最も重要な装身具はターバンでした。初期にはシーア派の象徴である「タージ・ハイダリー」が用いられましたが、17世紀にはより大きく丸みを帯びたターバンが主流となり、鳥の羽飾り(アイグレット)で飾られることもありました。
女性の服装も、床に届く長さのシャツとズボンを基本とし、その上にローブを重ねました。 頭には長いスカーフを巻き、その上に小さな頭巾をつけました。
これらの衣服には、ランパス織、ビロード、金襴といった最高級の絹織物が惜しみなく使われ、革新的な色の組み合わせと人物や花鳥の文様が、豪華で優雅な外観を生み出しました。

絨毯
サファヴィー朝は、ペルシャ絨毯の歴史における黄金時代と見なされています。 この時代の絨毯は、もはや単なる床の敷物ではなく、独立した芸術作品としての地位を確立しました。 宮廷工房では、最高の素材と技術を用いて、王宮の謁見室やレセプションホール、あるいは宮廷が支援する宗教施設のために絨毯が織られました。 また、外国の君主への外交的な贈り物としても重要な役割を果たしました。
素材には羊毛だけでなく、高級品には絹が用いられました。 特にカーシャーン産の絨毯は、絹のパイル(毛足)を用いたことで知られています。 さらに豪華な絨毯には、金糸や銀糸が織り込まれ、光り輝く効果を生み出しました。 これらの金属糸を用いた絹絨毯は、後にヨーロッパで「ポロネーズ」という誤った名称で呼ばれることになりますが、そのきらびやかさはサファヴィー朝の芸術の精華を象徴するものでした。
デザインは、中央にメダリオンを配したものが主流で、その周りを複雑なアラベスク、花、動物のモチーフが埋め尽くすという精緻な構成が特徴です。 ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されている「アルダビール絨毯」(1539年制作)は、この時代の絨毯製作の技術と芸術性の高さを物語る最も有名な作例の一つです。

その他の織物
衣服や絨毯のほかにも、絹織物は様々な形で利用されました。壁掛けや屋外での集まりの際に使用されるスクリーン(幕)として、大きなサイズのビロード織物が使われることがありました。 また、家具の張り地やクッションカバー、テントの内装など、宮廷生活のあらゆる場面で豪華な絹織物が用いられ、空間を彩りました。
これらの多様な絹製品は、サファヴィー朝の宮廷文化がいかに洗練され、豪華絢爛であったかを物語る貴重な証拠です。

国際貿易と経済的影響

サファヴィー朝、特にシャー・アッバース1世の治世下において、絹はイラン経済の根幹をなす最も重要な商品でした。 絹貿易の国家独占は、王朝に莫大な富をもたらし、その経済的・政治的基盤を強固なものにしました。

ヨーロッパとの貿易
シャー・アッバース1世は、オスマン帝国の支配下にある陸路を避け、ペルシャ湾経由の海上ルートを開拓することで、ヨーロッパ市場との直接貿易を推進しました。 イランの絹は、イギリスからタイに至るまで、広範な国際市場で取引されるようになりました。 ヨーロッパの商人、特にイギリス東インド会社やオランダ東インド会社の商人たちは、イランの絹を買い付け、ヨーロッパの宮廷や貴族社会に供給しました。 当時のヨーロッパでは、ペルシャ産の豪華な絹織物や絨毯は、富と洗練の象徴として非常に高い人気を博しました。
この貿易において、ニュー・ジュルファに移住させられたアルメニア人商人が果たした役割は極めて重要でした。 彼らは独自の国際的な商業ネットワークを持ち、イランの絹をヨーロッパへ、そしてヨーロッパの銀をイランへともたらす仲介役を担いました。 このユーラシア大陸をまたぐ交易は、サファヴィー朝の経済に不可欠なものでした。

外交の道具としての絹
絹製品は、単なる貿易品であるだけでなく、サファヴィー朝の外交政策における強力な武器でもありました。 シャーは、ヨーロッパ諸国の君主や使節に対して、最高級の絹織物や絨毯を外交的な贈り物として贈りました。 これらの贈り物は、サファヴィー朝の富と文化的優越性を示すことで、相手国に強い印象を与え、良好な関係を築く上で効果的な手段となりました。 特に、オスマン帝国に対抗するための同盟国をヨーロッパに求める上で、絹は重要な役割を果たしたのです。

経済への影響
絹貿易によってもたらされた富は、国家財政を潤し、アッバース1世による軍制改革や壮大な首都イスファハーンの建設といった大規模な国家プロジェクトを可能にしました。 絹産業の発展は、養蚕農家、糸紡ぎ職人、染色職人、織工、デザイナー、商人など、多くの人々に雇用機会を提供し、経済全体の活性化に貢献しました。 イスファハーン、カーシャーン、ヤズドといった都市は、織物産業の中心地として大いに繁栄しました。
シャー・アッバース1世は、インフラを整備し、国際貿易を奨励し、絹産業を育成することで、国内の絹織物に対する需要をも喚起しました。 彼の宮廷の華やかさは、臣民や外国からの訪問者に強い印象を与え、消費ブームを引き起こしたと指摘されています。
このように、絹はサファヴィー朝の経済的繁栄の原動力であり、イランを世界の舞台における主要なプレイヤーの一人へと押し上げる上で、決定的な役割を果たしたのです。

衰退

サファヴィー朝の絹織物産業の黄金時代は、シャー・アッバース1世の死(1629年)を境に、徐々に陰りを見せ始めます。

アッバース1世の死後、サファヴィー朝の中央集権体制は次第に弱体化し、シャーの権威は名目的なものとなっていきました。 地方の統治者が力を増し、国内の政治的安定が損なわれたことが、経済活動にも悪影響を及ぼしました。
経済的には、宮廷が後援する工房での生産は減少し、民間部門が再び独立性を強めていきました。 しかし、17世紀後半になると、近隣諸国からのイラン産絹に対する需要が徐々に減少し始めました。 ヨーロッパ諸国が独自の絹織物産業を発展させ、またインドなど他の生産地との競争が激化したことも一因と考えられます。 支配者層の腐敗や交易路の安全性の低下も、貿易の衰退に拍車をかけました。
芸術的な面では、17世紀末から18世紀初頭にかけて、生産される織物の質に変化が見られます。 職人たちは、衰退しつつある政権の経済状況や変化する市場の嗜好に合わせて、美的基準や製作方法を簡略化せざるを得なくなりました。 かつての精緻で革新的なデザインは影を潜め、より静的で硬直化した構図のものが増えていきました。
そして1722年、アフガン勢力の侵攻によって首都イスファハーンが陥落し、サファヴィー朝は事実上崩壊します。 この政治的混乱は、イランの絹織物産業に決定的な打撃を与えました。

後世への遺産

サファヴィー朝は滅びましたが、その絹織物が後世に与えた影響は計り知れません。サファヴィー朝の織物や絨毯は、イラン織物芸術の頂点として賞賛され続けています。 そのデザインやパターンは、後のガージャール朝(1789年-1925年)の織物にも受け継がれ、イランの芸術的伝統の核を形成しました。
サファヴィー朝の絹製品は、世界中の博物館や個人コレクションに収蔵され、その美しさと技術の高さは多くの人々を魅了し続けています。 メトロポリタン美術館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館、ルーブル美術館など、世界有数の美術館がサファヴィー朝の優れた絹織物を所蔵しており、それらはイスラム美術の中でも特に重要な作品群と位置づけられています。
また、サファヴィー朝が確立した絹貿易のルートと、イラン産絹製品の国際的な名声は、その後のイランの経済と文化にも長く影響を及ぼしました。彼らが築いた東洋と西洋を結ぶ経済的・文化的架け橋としての役割は、歴史的に大きな意義を持っています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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