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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

カリカットとは わかりやすい世界史用語2259

著者名: ピアソラ
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カリカットとは

1498年5月20日、ポルトガルの探検家ヴァスコ=ダ=ガマがインドのマラバール海岸に位置するカリカット(現在のコーリコード)に到達しました。 この出来事は、ヨーロッパとインドを結ぶ直接の海上交易路を開拓し、その後の世界史に大きな影響を与える画期的な瞬間でした。 当時のカリカットは、ザモリンとして知られる強力なヒンドゥー教徒の支配者の下で、インド洋交易の最も重要な中心地の一つとして繁栄していました。

カリカットの黄金時代:交易の中心地としての繁栄

ヴァスコ=ダ=ガマが到着した15世紀末、カリカットは「香辛料の街」として世界的に知られ、その黄金時代を迎えていました。 13世紀頃から港湾都市として台頭し、ザモリンの賢明な統治の下で、インド洋における経済的・政治的に優位な地位を確立していました。 その戦略的な立地は、東アフリカ、中東、東南アジアを結ぶ海上交易路の要衝となり、世界中から商人が集まる国際的な市場を形成していました。
カリカットの市場は、その豊かさと秩序ある運営で知られていました。 主な輸出品は、この地域で豊富に産出される黒胡椒、ショウガ、シナモン、カルダモンなどの香辛料でした。 特に黒胡椒は「黒い金」と呼ばれ、ヨーロッパで非常に高い需要がありました。 これらの香辛料は、単に食物の風味付けだけでなく、保存料や薬品、香料としても重宝されていました。 その他にも、この地域で産出されるチーク材などの木材も重要な輸出品でした。 一方、輸入品としては、グジャラートやベンガルからの米や織物、西アジアからの金銀や馬などがありました。
この活発な交易を支えていたのは、多様な商人コミュニティでした。 中東から来たアラブ人やペルシャ人の商人(パルデシと呼ばれる外国人商人)、地域のイスラム教徒商人であるマピッラ、そしてタミル系のチェッティ商人などが、カリカットの商業活動の主役でした。 特にアラブ商人は、長年にわたりインド洋の香辛料貿易を支配しており、カリカットのザモリンは彼らの利益を保護し、良好な関係を築いていました。 ザモリンの統治下では、交易の自由と安全が保障されており、これが多くの商人を惹きつける要因となっていました。 また、港にはシャーバンダル(港務長官)のような役人が置かれ、交易が円滑に行われるよう管理されていました。
15世紀初頭には、明の鄭和提督が率いる中国の巨大な艦隊も数回にわたりカリカットを訪れ、朝貢貿易を行っていました。 しかし、15世紀後半には、アラブ商人との対立の結果、中国商人はカリカットから撤退したとされています。 このように、ダ=ガマが到着する直前のカリカットは、アラブ商人が主導権を握る、非常に国際的でダイナミックな交易の中心地だったのです。



ザモリンの王国:政治と社会構造

カリカットを統治していたのは、ザモリン(サームティリ)の称号を持つ支配者でした。 ザモリンは「海の支配者」を意味し、マラバール海岸で最も強力な王として君臨していました。 ザモリンの王朝はネディイリップ・スワルーパムと呼ばれ、母系制の継承制度を採用していました。 この制度では、王の姉妹の息子が次の王位を継承するという独特の慣習がありました。
ザモリンの権力は、強力な軍事力、特に海軍力に支えられていました。 ザモリンの海軍は、マラッカールと呼ばれる世襲提督の一族に率いられ、インド洋における交易路の保護と支配に重要な役割を果たしていました。 陸軍は、ナーイル(ナーヤル)と呼ばれる戦士階級が中心となって構成されていました。 ザモリンはこれらの軍事力を背景に、14世紀から15世紀にかけて周辺地域への影響力を拡大し、コーチン王国などを従属させるなど、マラバール海岸の広大な領域を支配下に置いていました。
ザモリンの統治は、半封建的な中央集権体制と表現されます。 王は地域の首長たちの支持を得ながら王国を統治し、カリカットの港がその行政の中心でした。 また、ザモリンはヒンドゥー教の熱心な後援者であり、寺院や祭礼、特に12年に一度開催されるママンガムという盛大な交易と文化の祭典を支援していました。
社会は、厳格なカースト制度に基づいて構成されていました。 この階層は、食事、服装、習慣、作法など、人々の社会生活のあらゆる側面に反映されていました。 支配者階級であるザモリンやナーイル戦士、そして多様な商人コミュニティ、職人、漁師など、様々な集団が共存する多文化社会が形成されていました。

ヴァスコ=ダ=ガマの到来と最初の接触

1497年7月8日、ヴァスコ=ダ=ガマはポルトガル王マヌエル1世の命を受け、4隻の船と170人の乗組員を率いてリスボンを出航しました。 その目的は、オスマン帝国やヴェネツィア商人が支配する従来の陸路を迂回し、香辛料の産地であるインドへ直接到達する海上ルートを発見することでした。 アフリカ大陸南端の喜望峰を回り、東アフリカのマリンディで水先案内人を雇った後、モンスーンの風に乗ってインド洋を横断し、1498年5月20日にカリカット近郊のカッパドに到着しました。
ダ=ガマ一行は、ザモリンの使者によって丁重に迎えられ、3000人もの武装したナーイル兵士による壮大な行列を伴って王との謁見に臨みました。 ザモリンは、金の刺繍が施された白いキャラコ布をまとい、貴重な宝石で身を飾ってダ=ガマを迎えました。 ダ=ガマは、自分たちがキリスト教徒と香辛料を探しに来たと述べ、ポルトガル王からの使者であると伝えました。
しかし、この最初の出会いは、すぐに緊張をはらんだものとなります。ダ=ガマがマヌエル1世からの贈り物としてザモリンに献上した品々(緋色の布4着、帽子6個、珊瑚の枝、砂糖、油、蜂蜜など)は、カリカットの富裕な王の目にはあまりにも些細なものに映りました。 ザモリンは感銘を受けず、これが両者の関係に影を落とす一因となりました。
さらに深刻だったのは、交易を巡る対立でした。カリカットで長年交易を支配してきたアラブ商人たちは、ポルトガル人を新たな競争相手とみなし、敵意を抱きました。 彼らはザモリンに対し、ダ=ガマは王の使者ではなく、ただの海賊に過ぎないと示唆しました。 ザモリンは、ダ=ガマに対し、他の商人と同様に金で商品を買い付け、所定の関税を支払うよう要求しました。 金や銀を持たず、物々交換を想定していたダ=ガマはこの要求を拒否し、両者の関係はさらに悪化しました。
結局、ダ=ガマはザモリンとの通商条約を結ぶことに失敗しました。 彼は1498年8月にカリカットを離れる際、ザモリンの要求に腹を立て、数人のナーイルと16人の漁師を力ずくで船に連れ去りました。 この行為は、その後のポルトガルとカリカットの関係に長く続く敵意の種を蒔くことになりました。

歴史的意義とその後

ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達は、単なる探検の成功以上の意味を持っていました。それは、ヨーロッパによるアジアへの植民地主義時代の幕開けを告げる出来事でした。 ポルトガルは、この航海によって得られた富(持ち帰った香辛料の価値は、遠征費用の60倍以上だったと言われます)を元手に、インド洋の香辛料貿易の独占を目指して、次々と艦隊を派遣するようになります。
ダ=ガマの2度目の航海(1502年)では、彼は武力を行使してカリカットの港を砲撃し、イスラム商人を排除するようザモリンに要求しました。 これを皮切りに、ポルトガルはカリカットのライバルであったコーチンやカンナノールと同盟を結び、ザモリンとの間で長年にわたる戦争を繰り広げました。 ポルトガルは、カルタスと呼ばれる航海許可証制度を導入し、武力によってインド洋の交易を支配しようと試みました。
ヴァスコ=ダ=ガマが訪れた15世紀末のカリカットは、自由で開かれた交易によって繁栄を謳歌する、国際色豊かなコスモポリタン都市でした。 ザモリンの統治の下、多様な文化と宗教が共存し、経済的な活気に満ち溢れていました。しかし、ヨーロッパ勢力の到来は、この古くからの交易システムを根底から揺るがし、カリカットとマラバール海岸の歴史を大きく変えていくことになったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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