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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

インディオとは わかりやすい世界史用語2271

著者名: ピアソラ
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「インディオ」とは

クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸の先住民を指して用いた「インディオ」という呼称は、歴史上最も広範囲に影響を及ぼした誤解の一つとして知られています。この言葉は、単なる地理的な誤認から生まれただけでなく、その後の数世紀にわたるヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化、先住民に対する支配、搾取、そして文化的変容のプロセスと深く結びついています。



呼称の誕生 ― 地理的誤認と15世紀ヨーロッパの世界観

1492年10月12日、クリストファー・コロンブスが現在のバハマ諸島に位置する島に上陸した際、彼は自らがアジア、すなわち「インディアス」(Indies)の東端に到達したと固く信じていました。この信念は、当時のヨーロッパにおける地理学的な知識の限界と、アジアへの西回り航路開拓という彼の航海の主目的に根差しています。15世紀のヨーロッパでは、「インディア」という言葉は、現在のインド亜大陸のみならず、中国、日本、東南アジアを含む広大な地域を漠然と指す総称として用いられていました。この地域は、香辛料、絹、金などの貴重な物産の供給源として、ヨーロッパ人の強い関心を集めており、コロンブスもまた、スペイン国王フェルナンド2世と女王イサベル1世の後援のもと、この富への直接的なアクセスを求めていました。

コロンブスが航海に際して携行したスペイン国王夫妻からのパスポートには、彼の航海が「インドの諸地域へ」向かうものであるとラテン語で記されていました。彼は、古代ギリシャの天文学者プトレマイオスの理論に基づきつつも、地球の円周を実際よりも大幅に小さく見積もっていました。彼が想定したカナリア諸島から日本までの距離は約4,440キロメートルでしたが、実際の距離はその4倍以上の約19,000キロメートルに及びます。この根本的な計算違いが、彼がアメリカ大陸をアジアの一部であると誤認する決定的な要因となりました。

彼が最初に遭遇したルカヤン人、タイノ人、アラワク人といった島々の住民たちを、コロンブスは「インディオ」(Indios)と名付けました。これはスペイン語で「インドの人々」を意味する言葉であり、彼がアジアに到達したという確信の直接的な現れでした。彼はヨーロッパへの帰還後、スペイン王室に宛てた書簡の中で、「33日間でカナリア諸島からインディアスへ渡った」と報告し、遭遇した人々を「インディオ」と記しています。この呼称は、コロンブスの1493年2月の有名な書簡によってヨーロッパ中に広まり、スペイン王国で急速に定着しました。

興味深いことに、16世紀初頭には、この地理的認識が誤りであり、コロンブスが到達した土地がヨーロッパ人にとって未知の「新世界」であることが判明した後も、スペインは公式にこの地域を「ラス・インディアス」(Las Indias、インド諸王国)と呼び続けました。そして、そこに住む人々を指す「インディオ」という呼称も、そのまま使用され続けたのです。この事実は、一度定着した言葉が、その前提となった事実が否定された後も、いかに強力に存続しうるかを示しています。イギリスやフランスといった他のヨーロッパ諸国も、後にアメリカ大陸で遭遇した先住民を英語の「Indians」やフランス語の「Indiens」と呼び、この誤解に基づく呼称は大陸全体に広がっていきました。

このように、「インディオ」という言葉は、コロンブスの個人的な地理的誤認に端を発しながらも、15世紀末のヨーロッパ人のアジアに対する強い憧憬と経済的野心、そして当時の不完全な世界観を色濃く反映したものでした。それは、アメリカ大陸の多様な民族や文化を「インドの人々」という単一のカテゴリーに押し込める、ヨーロッパ中心主義的な視点の最初の現れでもあったのです。

「インディオ」の法的・神学的定義 ― バリャドリッド論争

「インディオ」という呼称の定着は、単なる名付けの問題にとどまりませんでした。それは、スペインによるアメリカ大陸の植民地化と支配を正当化するための、法的および神学的な議論の出発点となりました。スペイン王室とカトリック教会は、「インディオ」とは何者であり、彼らに対してスペイン人はいかなる権利と義務を負うのかという問いに直面しました。この問いを巡る最も象徴的な出来事が、16世紀半ばにスペインのバリャドリッドで開催された神学論争です。

この論争は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命により、アメリカ大陸における征服活動の是非を問うために開かれました。論争の中心となったのは、二人の対照的な思想家、フアン・ヒネス・デ・セプルベダとバルトロメ・デ・ラス・カサスでした。

人文主義学者であったセプルベダは、アリストテレスの「自然奴隷説」を援用し、「インディオ」は自らを統治する能力に欠けた「自然の奴隷」であると主張しました。彼は1544年の著書『デモクラテス・アルテル』において、「インディオ」はスペイン人に対して、子供が大人に、女性が男性に、そしてほとんど猿が人間に劣るのと同じくらい劣った存在であると記しました。彼は、「インディオ」が行うとされた偶像崇拝、人身御供、食人といった慣習を「自然に反する犯罪」と断じ、これらの野蛮な行為を根絶し、彼らをキリスト教文明に導くためには、武力による征服と支配が正当かつ道徳的な義務であると論じました。セプルベダの議論は、植民者(エンコメンデーロ)たちの立場を擁護し、彼らが「インディオ」を労働力として利用することを合理化する理論的支柱となりました。

一方、ドミニコ会修道士であり、長年アメリカ大陸で司教として活動したラス・カサスは、セプルベダの主張に真っ向から反対しました。彼は、「インディオ」が人身御供のような慣習を持っていたとしても、彼らは理性的能力を完全に備えた自由な人間であり、植民者と同等の配慮を受けるべき存在であると強く訴えました。ラス・カサスは、アリストテレスの言う「野蛮人」や「自然奴隷」の定義は「インディオ」には当てはまらず、彼らをキリスト教に導く手段は、武力や強制ではなく、平和的な説得でなければならないと主張しました。彼は、スペイン人が行っている残虐行為こそが非キリスト教的であり、「インディオ」の魂を救うという本来の目的を妨げていると告発しました。驚くべきことに、彼は人身御供でさえ、国家全体の福祉のために行われる場合、「最も価値あるものである人間の命」を捧げる行為として、一定の宗教的感情の表れであり、必ずしも不合理とは言えないとまで論じました。

バリャドリッド論争は、1550年と1551年の2回にわたって行われましたが、明確な勝者を出すことなく終わりました。しかし、この論争はヨーロッパの歴史上初めて、植民地化される人々の権利と処遇について公に議論された画期的な出来事であり、後の国際法や人権思想の形成に大きな影響を与えました。この論争を通じて、「インディオ」は単なる異教徒や未開の民ではなく、その人間性、理性、そして魂の救済が神学的に問われるべき対象として、ヨーロッパの知的世界に位置づけられることになったのです。セプルベダとラス・カサスの両極端な議論は、その後のスペイン植民地政策における「保護」と「搾取」という二つの相克する側面を象徴していました。

植民地統治下の「インディオ」 ― エンコミエンダ制とレパルティミエント制

バリャドリッド論争で交わされたような神学的な議論とは裏腹に、植民地の現場では、「インディオ」は過酷な経済的搾取の対象とされていました。そのための制度的枠組みとして中心的な役割を果たしたのが、エンコミエンダ制とレパルティミエント制です。

エンコミエンダ制は、16世紀初頭にスペイン王室によって導入された制度で、その名はスペイン語の「encomendar」(委託する)に由来します。この制度のもと、国王は征服者や入植者(エンコメンデーロ)に対し、特定の地域の「インディオ」の集団を「委託」しました。エンコメンデーロは、委託された「インディオ」から貢納(金、農産物など)や労働力を徴収する権利を与えられました。その見返りとして、彼らは「インディオ」を保護し、キリスト教の教義を授ける義務を負うとされていました。

しかし、この制度は名目上の「保護」と「教化」とはかけ離れた実態を呈しました。土地の所有権は含まれていなかったにもかかわらず、実際にはエンコメンデーロが「インディオ」の住む土地を支配し、彼らを事実上の奴隷として酷使するケースが後を絶ちませんでした。「インディオ」は金鉱山やプランテーションでの過酷な強制労働に従事させられ、多くが過労、栄養失調、そして虐待によって命を落としました。この制度はまた、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘などの伝染病が先住民社会に壊滅的な打撃を与えるのを助長しました。免疫を持たない「インディオ」の人口は激減し、多くの共同体が崩壊の危機に瀕しました。

エンコミエンダ制の非人道的な実態は、ラス・カサスをはじめとする聖職者たちからの激しい批判を呼び起こしました。1511年、イスパニョーラ島のドミニコ会士アントニオ・デ・モンテシノスは、植民者たちの前で「彼ら(インディオ)は人間ではないのか? 理性的な魂を持っていないのか?」と問いかけ、その残酷な扱いを厳しく非難しました。こうした声に押される形で、スペイン王室は「インディオ」の処遇を規制する試みを始めます。

その最初の法典が、1512年に制定されたブルゴス法です。この法律は、「インディオ」の奴隷化を禁止し、キリスト教への改宗を奨励する一方で、エンコミエンダ制自体は合法的なものとして存続させました。法律は、労働時間、賃金(現物支給)、住居、食料供給などについて細かい規定を設け、妊娠4ヶ月以上の女性を重労働から免除し、エンコメンデーロが「インディオ」を殴打したり、「犬」と呼んだりすることを禁じました。しかし、本国から遠く離れた植民地において、これらの規定が遵守されることはほとんどありませんでした。

エンコミエンダ制の弊害を抜本的に改革しようとする動きは、1542年の「インディアス新法」の制定へと繋がります。ラス・カサスの強力な働きかけを受けてカルロス1世が発布したこの法律は、「インディオ」の奴隷化を全面的に禁止し、新たなエンコミエンダの授与を停止しました。さらに、既存のエンコミエンダも所有者が死亡した後は世襲を認めず、王室に返還されることと定められました。これは、植民地で強大な権力を持つようになったエンコメンデーロ層の力を削ぎ、王室の直接支配を強化する狙いもありました。

しかし、この新法は植民地のエンコメンデーロたちから猛烈な反発を受けました。ペルーでは反乱が起きて副王が殺害される事態にまで発展し、メキシコでも賢明な副王が反乱を避けるために法律の執行を見合わせました。この激しい抵抗に直面した王室は譲歩を余儀なくされ、1545年にはエンコミエンダの一代限りの世襲を認めるなど、新法の骨子を後退させました。

エンコミエンダ制が「インディオ」人口の激減などにより次第に衰退していく中で、それに代わる労働力徴発システムとして強化されたのがレパルティミエント制でした。この制度は、スペイン語で「分配」を意味し、植民地政府が「インディオ」の共同体に対し、一定期間、一定数の労働者を公的事業、鉱山、農場などに提供することを強制するものでした。ペルーではインカ帝国時代の労働奉仕制度「ミタ」の名で知られています。

レパルティミエント制は、労働者が特定の個人に所有されるわけではないという点で奴隷制とは異なるとされましたが、実態は過酷な強制労働であり、労働者はしばしば故郷から遠く離れた鉱山などに送られました。賃金が支払われることになっていましたが、その額は低く、しばしば支払われないこともありました。この制度もまた、「インディオ」の共同体を疲弊させ、人口流出を招く一因となりました。

エンコミエンダ制とレパルティミエント制は、スペイン植民地帝国が「インディオ」をどのように定義し、利用したかを如実に示しています。彼らは法的には国王の臣民であり、魂の救済を受けるべき存在とされながらも、経済的には帝国の富を支えるための安価で使い捨て可能な労働力として扱われたのです。この保護と搾取の間の深刻な矛盾が、植民地時代を通じて「インディオ」の置かれた状況を規定していました。

法的枠組みの変遷 ― ブルゴス法からインディアス新法へ

スペインによるアメリカ大陸の植民地化は、単なる軍事征服や経済的搾取だけでなく、複雑な法的・行政的システムの構築を伴うプロセスでした。その中心にあったのが、「インディオ」の地位と、スペイン人植民者と「インディオ」との関係を規定する一連の法律の制定です。これらの法律は、植民地経営の現実と、カトリック国家としての倫理的・宗教的要請との間で揺れ動くスペイン王室の姿勢を反映しています。

植民地化の初期段階で、征服者たちが「インディオ」に対して加えた残虐行為は、すぐにスペイン本国で問題となりました。特にドミニコ会を中心とする聖職者たちは、その非人道性を告発し、王室に改善を求めました。この動きが結実した最初の成果が、1512年に制定されたブルゴス法です。これは、ヨーロッパ人が新世界のために書いた最初の法典であり、「インディオ」の処遇に関する39の条文から構成されていました。

ブルゴス法は、「インディオ」を自由な人間であると宣言し、キリスト教の教義を教えられるべき存在と位置づけました。具体的には、労働は彼らの改宗を妨げない範囲で、耐えうるものでなければならないとし、彼ら自身の家と土地、そして自給のための時間を持つことを認めました。また、賃金は現金ではなく、衣服や家具で支払われるべきだと定められました。さらに、エンコメンデーロによる私的な処罰を禁じ、その権限を各町に設置された役人に限定しました。これらの条文は、当時の基準からすれば驚くほど啓蒙的であり、「インディオ」の基本的な福祉を確保しようとする王室の意図を示しています。しかし、前述の通り、この法律はエンコミエンダ制を公認するものであり、植民地での実効性も乏しいものでした。

「インディオ」保護の取り組みにおける次なる重要な一歩は、1542年のインディアス新法でした。この法律は、ラス・カサスらの長年にわたる精力的な活動の集大成であり、ブルゴス法よりもはるかに踏み込んだ内容を含んでいました。新法の最も画期的な点は、「インディオ」の奴隷化を、たとえそれが懲罰目的であっても、いかなる理由があっても禁止したことです。また、エンコミエンダの新規授与を禁じ、聖職者や王室役人が所有するエンコミエンダを即時返還させるなど、エンコメンデーロの既得権益に大きく切り込みました。そして、既存のエンコミエンダの世襲を認めず、所有者の死後は王室に帰属させると定めたことは、この制度の将来的な消滅を目指す明確な意思表示でした。

新法はまた、ペルーに副王を、リマとグアテマラにアウディエンシア(高等法院)を設置することを定め、植民地の行政・司法システムを強化しようとしました。これは、エンコメンデーロのような現地の有力者たちの力を抑制し、王権を隅々まで浸透させるという中央集権的な政策の一環でもありました。

しかし、新法の急進的な改革は、植民地の経済基盤をエンコミエンダに依存していた植民者たちの生活を根底から脅かすものでした。彼らは、「インディオ」の強制労働なしには植民地経営そのものが成り立たないと主張し、激しく抵抗しました。ペルーでの反乱と副王の死という事態を受け、王室は新法の一部の条項、特にエンコミエンダの世襲禁止規定を撤回せざるを得なくなりました。

ブルゴス法とインディアス新法は、スペイン植民地法制における二つの重要な画期です。これらの法律は、少なくとも理念の上では、「インディオ」を単なる征服の対象ではなく、保護されるべき国王の臣民として位置づけようとする試みでした。しかし、その施行を巡る困難は、本国の理想と植民地の現実との間に横たわる深い溝を浮き彫りにしました。経済的利益を追求する植民者たちの抵抗と、広大な植民地を実効的に支配することの難しさが、これらの人道的な意図を持った法律の効果を大きく減殺したのです。それでもなお、これらの法的な枠組みの存在は、ラス・カサスのような改革派が「インディオ」の権利を主張し続けるための根拠となり、植民地支配のあり方についてヨーロッパ社会に問いを投げかけ続ける上で重要な役割を果たしました。

「インディオ」への宣告 ― レケリミエントの象徴性

スペインによるアメリカ大陸征服の過程で用いられた、極めて象徴的かつ特異な文書が「レケリミエント」です。1513年にカスティーリャ王国の法学者フアン・ロペス・デ・パラシオス・ルビオスによって起草されたこの文書は、征服者が「インディオ」に遭遇した際に読み上げることを義務付けられた公式声明でした。その内容は、スペインによる征服と支配を神学的・法的に正当化するためのものでした。

レケリミエントは、まず世界の創造主である神について述べ、神がその代理人として聖ペテロを、そしてその後継者であるローマ教皇を全世界の支配者として任命したと説きます。そして、教皇がその権威に基づき、新世界の土地をスペイン国王に与えたと宣言します。この壮大な世界史と神の摂理の物語に基づき、文書は「インディオ」に対して、教会の至上権とスペイン国王の宗主権を認め、キリスト教の宣教師による布教を受け入れるよう要求します。

もし「インディオ」がこの要求を平和的に受け入れるならば、彼らは臣民として愛と慈悲をもって迎えられ、彼らの妻や子供、土地は自由なまま保たれ、キリスト教への改宗も強制されないと約束されました。しかし、もしこの要求を拒否したり、悪意をもって遅延させたりした場合には、悲惨な結末が待っていました。文書は、「神の助けを得て、我々は汝らの国に強力に侵入し、可能な限りのあらゆる方法で汝らに対して戦争を仕掛ける」と宣告します。そして、彼ら自身とその家族を奴隷とし、財産を奪い、あらゆる害と損害を与えることを宣言し、その結果生じる死と損失は、すべて要求を拒否した「インディオ」自身の責任であると結論づけていました。

レケリミエントは、スペインの征服活動に法的な体裁を与えるための道具でした。これを読み上げることで、征服者たちは自らの行為が、神の計画に逆らう者に対する正当な戦争であると主張することができたのです。しかし、その運用は極めて形式的で、しばしば茶番劇の様相を呈しました。この文書は、ほとんどの場合、「インディオ」が全く理解できないスペイン語やラテン語で読み上げられました。通訳がいないことも珍しくなく、時には誰もいない海岸に向かって船上から読み上げられたり、戦闘が始まる直前に戦場で早口で叫ばれたりすることもあったと言われています。

この文書の真の目的は、「インディオ」に内容を理解させ、同意を得ることではなく、スペイン人自身の良心を和らげ、征服という暴力的な行為を正当化することにあったのです。ラス・カサスをはじめとする批判者たちは、この手続きの偽善性を激しく非難しました。

レケリミエントは、「インディオ」という存在が、ヨーロッパ人の構築した法と神学の世界観の中に、いかに一方的に組み込まれていったかを象徴しています。彼らは、自らの歴史や文化、社会システムとは全く無関係な、キリスト教的世界史の物語の最後に登場する登場人物として扱われました。そして、その物語への参加を受け入れるか否かという、理解不能な選択を突きつけられ、その選択の結果として服従か破滅かの運命を宣告されたのです。「インディオ」という呼称が彼らの多様性を無視した一般化であったとすれば、レケリミエントは、その一般化された存在に対して、ヨーロッパ中心の法と秩序を一方的に押し付けるための究極的な象徴的装置であったと言えるでしょう。

コロンブス以前のアメリカ大陸 ― 多様な文明の存在

コロンブスが「インディオ」という単一の呼称で一括りにした人々は、実際には驚くほど多様な言語、文化、社会組織を持つ、数多くの異なる民族集団でした。彼が到達したカリブ海の島々から、北米の広大な平原、中央アメリカの密林、そしてアンデスの高峰に至るまで、アメリカ大陸にはヨーロッパ人の到来以前から、独自の高度な文明が栄えていました。これらの文明の存在は、「インディオ」を未開で野蛮な存在と見なすヨーロッパ人のステレオタイプがいかに事実に反するものであったかを示しています。

中央アメリカのメソアメリカ地域では、マヤ文明が紀元前2000年頃から長きにわたり繁栄していました。マヤ文明は、特に天文学、数学、そして文字の分野で驚異的な成果を上げていました。彼らは、極めて正確なカレンダーシステムを複数開発しました。その天体観測技術は高度であり、肉眼と簡単な道具だけで、太陽年の一年の長さをヨーロッパのグレゴリオ暦よりも正確に測定し、日食や金星の動きを予測することができました。

数学の分野におけるマヤ文明の最も重要な貢献の一つは、世界で最も早い時期に「ゼロ」の概念を独立して発明したことです。彼らは20進法を用い、点(1を表す)、棒(5を表す)、そして貝殻の形をした記号(0を表す)の3つの記号を組み合わせて、非常に大きな数を扱うことができました。この高度な数学的知識は、彼らの精密な天文学的計算や、壮大なピラミッド神殿や宮殿の建設を支える基礎となりました。また、彼らは絵文字と表音文字を組み合わせた複雑な象形文字体系を発達させ、石碑や書物に自らの歴史、神話、天文学的知識を記録しました。

メキシコ中央高原では、14世紀から16世紀初頭にかけてアステカ帝国が強大な勢力を誇っていました。首都テノチティトランは、湖上に浮かぶ壮麗な都市で、最盛期には20万人以上の人口を擁し、当時のヨーロッパのどの都市よりも大規模で整然としていました。アステカ社会は、戦士と聖職者が支配階級を形成する厳格な階層社会でした。彼らは広範な交易網を築き、精巧な金細工や色彩豊かな羽毛製品など、優れた工芸品を生み出しました。

南米のアンデス山脈地帯では、15世紀にインカ帝国が急速に拡大し、南北4000キロメートルに及ぶ広大な領域を支配しました。インカ帝国の社会構造は高度に組織化されており、神の化身とされた皇帝(サパ・インカ)を頂点とする中央集権的な統治体制が敷かれていました。帝国は、クスコを首都とし、優れた道路網(カパック・ニャン)を整備して、広大な領土の隅々まで人、物資、情報を迅速に伝達するシステムを構築しました。

インカ社会の基盤となっていたのは、「アイリュ」と呼ばれる血縁に基づく共同体でした。アイリュは土地を共同で所有し、農作業を行いました。インカ帝国は、このアイリュを基盤として、「ミタ」と呼ばれる労働奉仕制度を確立しました。これは、共同体の成員が一定期間、道路建設、建築、鉱山労働などの公共事業に従事する義務を負うもので、スペイン人が後に導入した強制労働のミタ制(レパルティミエント制)の原型となりました。インカ帝国は文字を持たなかったものの、「キープ」と呼ばれる結び目のついた紐を用いて、人口、税、貯蔵物資などの統計情報を記録・管理する独自のシステムを発達させました。

これらの三大文明以外にも、北米には多様な文化を持つ数多くの部族が暮らし、アマゾンの熱帯雨林や南米南端のパタゴニアに至るまで、人々はそれぞれの環境に適応した独自の生活様式を築いていました。言語だけでも、コロンブス以前のアメリカ大陸には2000以上が存在したと推定されています。

このように、コロンブスが遭遇したのは、決して均質で未開な「インディオ」の世界ではありませんでした。それは、独自の歴史を歩み、高度な知識体系と複雑な社会を築き上げてきた、多様性に満ちた文明の世界だったのです。しかし、「インディオ」という一つのレッテルは、この豊かで複雑な現実を覆い隠し、ヨーロッパによる征服と支配を正当化するための単純化されたイメージを助長する役割を果たしました。

「インディオ」という概念がもたらした影響

「インディオ」という呼称とその背後にある概念は、アメリカ大陸の先住民社会と、彼らに対するヨーロッパ人の認識の双方に、深く永続的な影響を及ぼしました。この言葉は、単なる誤解から生まれた分類名にとどまらず、植民地社会の構造を規定し、人々のアイデンティティを形成し、そして数世紀にわたる差別と偏見の根源となる、強力なイデオロギー的装置として機能しました。

第一に、「インディオ」という単一のカテゴリーは、アメリカ大陸に存在した何百もの異なる民族の文化的多様性と固有のアイデンティティを抹消する効果を持ちました。マヤ、アステカ、インカ、タイノ、チェロキー、ナバホといった、それぞれが独自の言語、宗教、社会制度、歴史を持つ人々が、すべて「インディオ」という一つの枠の中に押し込められました。この一般化は、彼らをヨーロッパ人とは異なる、均質で劣った「他者」として定義することを容易にし、植民地支配者が彼らを一括して管理・支配することを可能にしました。この過程で、多くの民族固有の名称や自己認識は軽視され、あるいは失われていきました。

第二に、「インディオ」という身分は、スペイン植民地社会における法的な地位と社会階層を決定づけるものでした。植民地社会は、「カスタ制」として知られる複雑な人種的階層秩序に基づいて構築されました。その最上位にはヨーロッパ生まれのスペイン人(ペニンスラール)が、次いで植民地生まれのスペイン人(クリオーリョ)が位置し、その下にメスティーソ(スペイン人とインディオの混血)、ムラート(スペイン人とアフリカ人の混血)、サンボ(インディオとアフリカ人の混血)などが続き、「インディオ」とアフリカ系奴隷は社会の最下層に置かれました。

「インディオ」であることは、特定の法的義務と制限を課されることを意味しました。彼らは国王の臣民として一定の保護を受ける一方で、貢納の義務を負い、エンコミエンダ制やレパルティミエント制のもとで強制労働に従事させられました。興味深いことに、この制度は意図せざる結果をもたらしました。エンコミエンダ制の対象は法的に「インディオ」に限られていたため、スペイン人との混血によって生まれたメスティーソは、この強制労働の義務から免除されました。このことは、一部の先住民が「インディオ」としてのアイデンティティを放棄し、メスティーソとしてのアイデンティティを受け入れる誘因となり、先住民共同体の解体を間接的に促進する一因ともなりました。

第三に、「インディオ」という概念は、ヨーロッパ人の中に、アメリカ大陸先住民に対する固定的でしばしば否定的なステレオタイプを植え付けました。バリャドリッド論争におけるセプルベダの議論に見られるように、「インディオ」はしばしば、理性を欠き、怠惰で、野蛮な慣習にふける存在として描かれました。これらのステレオタイプは、彼らに対する過酷な搾取や暴力、そして彼らの文化や宗教を破壊する行為を正当化するために利用されました。一方で、ラス・カサスのように、「インディオ」を無垢で純粋な「高貴な野蛮人」として理想化する見方も存在しましたが、これもまた彼らの現実の姿を正確に捉えたものではなく、ヨーロッパ人の視点からの一方的な投影であることに変わりはありませんでした。

第四に、「インディオ」という外部から押し付けられた呼称は、長い時間をかけて先住民自身によって内面化され、新たな集合的アイデンティティの形成に影響を与えました。当初はそれぞれの民族としてのアイデンティティを強く持っていた人々も、スペイン植民地体制下で共通の被支配者としての経験を共有する中で、「インディオ」という共通の立場を意識するようになりました。これは、植民地支配に対する抵抗や反乱において、異なる民族グループが連帯する際の基盤となることもありました。

「インディオ」という言葉は、コロンブスの地理的な誤りから生まれた単純な誤称ではありません。それは、アメリカ大陸の植民地化という歴史的プロセスの中で、極めて強力な社会的・政治的・文化的機能を果たした概念でした。この言葉は、多様な人々を単一の劣ったカテゴリーに押し込め、植民地社会の階層秩序を正当化し、経済的搾取を合理化し、そしてヨーロッパ人の自己認識を形成するための鏡として機能しました。その起源にある誤解と、その後に付与された複雑な意味合いの総体が、「インディオ」という言葉の歴史的な重みを形作っているのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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