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18_80 西アジア・地中海世界の形成 / ヘレニズム世界

パルティアとは わかりやすい世界史用語992

著者名: ピアソラ
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パルティアとは

パルティア(紀元前248年頃 - 紀元後224年)は、古代イランの王朝であり、アルサケス朝とも呼ばれます。この王朝は、中央アジアの遊牧民であるパルニ氏族の族長アルサケス1世によって建国されました。

パルティアの起源と建国

パルティアの起源は、イラン高原北東部に位置する一地方名に由来します。アルサケス1世(在位:紀元前247(8)年頃 - 紀元前211年頃)は、パルティア地方を征服し、アルサケス朝を創設しました。彼の後継者たちは、彼の名前を受け継ぎ、アルサケスという名を代々使用しました。



ミトラダテス1世と領土の拡大

ミトラダテス1世(在位:紀元前171年 - 紀元前138年)の時代に、パルティアは大幅に領土を拡大しました。彼はセレウコス朝からメディア、メソポタミア、バビロニアを奪い取り、パルティアの支配地はユーフラテス川の北からイラン高原にまで達しました。この時期、パルティアはシルクロード上の重要な交易路に位置し、商業と交易の中心地となりました。

パルティアとローマの対立

パルティアとローマは、西アジアで勢力を拡大する中で衝突しました。特にアルメニアやシリア、メソポタミアの支配を巡って争いが繰り広げられました。紀元前53年のカルラエの戦いでは、パルティア軍がローマ軍を撃破し、紀元前40年から紀元前39年にかけてはレヴァント地方を一時的に支配しました。しかし、その後のローマの反撃により、パルティアはシリアから撤退しました。

内部紛争と衰退

パルティアは、内部の紛争と王位継承を巡る争いに悩まされました。これにより、国家の安定が損なわれ、外国の侵略に対する防御が弱まりました。2世紀以降、ローマとの戦争が続き、メソポタミアとバビロニアにローマ軍が侵入し、首都セレウキアとクテシフォンが数度にわたり占領されました。

パルティアの滅亡

最終的に、パルティアはファールス地方のエスタフルの支配者アルダシール1世によって滅ぼされました。アルダシール1世は、分裂していたパルティアの王の一人アルタバノス4世を紀元224年に戦いで打ち破り、サーサーン朝を創設しました。

パルティアの文化と遺産

パルティアは、ペルシア、ギリシア、そして各地の文化から多くの要素を取り入れました。彼らの芸術、建築、宗教的信条、王権観は多様であり、ギリシア文化の影響を強く受けました。アルサケス朝の治世の前半には、宮廷はギリシア文化の要素を強く採用しており、王たちは「ギリシア愛好者」という称号をコインに刻みました。

パルティアの歴史的意義

パルティアの歴史は、古代イランの歴史において重要な位置を占めています。彼らの支配は、シルクロード上の交易と商業の発展に寄与し、東西の文化交流を促進しました。また、パルティアの軍事戦術や政治戦略は、後のサーサーン朝やイスラム時代のイランに影響を与えました。
パルティアの歴史は、ギリシアやローマ、中国の記録を通じて知ることができます。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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