朝鮮戦争の開戦と特需
日本が不況におちいっていた1950年(昭和25年)1月、アメリカと韓国が
米韓相互防衛援助協定を、同年2月に中華人民共和国とソ連が
中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、米ソの対立は深まるばかりでした。
1950年6月25日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の先制攻撃により、北朝鮮軍と韓国軍の間で戦闘がはじまりました。北朝鮮軍は、ソ連の全面的援助を受け韓国軍を撃破し、ソウルを占領しました。同年7月には韓国軍を援助する
国連軍(アメリカ軍)が組織され、戦闘に入りました。これは6月に緊急招集された
国連安全保障理事会がソ連欠席のまま、朝鮮半島の国連軍の指揮をアメリカに委ねたためでした。
マッカーサーは指揮下の軍隊を朝鮮半島で使用する全面的権限を国連から与えられ、国連軍の最高司令官も兼任することになりました。9月15日、国連軍は仁川に上陸し、北朝鮮軍の退路を断ち敗走させ、二週間後にソウルと南朝鮮全域を確保しました。勢いにのった国連軍は、
北緯38度線を越え、北朝鮮の解放を目指すようになりました。しかし10月に、今度は北朝鮮側に、鴨緑江を越えて
中国人民義勇軍が参戦し、国連軍は中共軍により押し戻されました。
国連軍総司令官のマッカーサーはこの状況に対し強行案を考え、国連軍による中国沿岸の占領や中国本土爆撃を含む全面攻撃を示唆しましたが、これが全面戦争へ発展すると危惧したアメリカ大統領
トルーマンは、1951年4月にマッカーサーを突然解任し、同年7月にソ連の提案により
板門店で休戦会議がはじまり、1953年7月に
休戦協定が結ばれました。
この朝鮮戦争により、アメリカ軍を主体とする国連軍は日本から出動する際に、大量の物資やサービスをドルで調達し、
特需(特別需要)景気が起こりました。この特需による外貨不足解消により、繊維・金属・機械などの輸出が伸び、1951年(昭和26年)には鉱工業生産が戦前水準を超えました。
また、在日アメリカ軍の空白を埋めるため、7月8日にマッカーサーが吉田茂首相への書簡で
国家警察予備隊(7万5000人)の創設と、
海上保安庁の拡充(8000人)を指令しました。第3次吉田内閣はこれに応じ、8月1日に警察予備隊令を交付・施行し、8月23日に第一陣の7000人が入隊しました。
総司令部は、戦争直前の1950年(昭和25年)6月に日本共産党中央委員24名を追放し、機関紙『アカハタ』の発行停止と、同年7月に官公庁などから共産主義者を追放しました(
レッド=パージ)。逆に11月には、旧軍人3250人の公職追放解除が行われ、警察予備隊に旧軍人が応募することが許可されました。