日本国憲法の制定
五大改革指令が幣原首相に伝えられた1945年(昭和20年)10月11日、マッカーサーは日本側に憲法の自由主義的改革を要請しました。これにより、10月13日に憲法調査方針が決定され、10月27日に松本烝治国務相を中心とした
憲法問題調査会が発足しました。しかし松本案では統治権を依然として天皇に置き、天皇の存在を神聖にして不可侵としていたことが毎日新聞のスクープによりGHQに伝わり、極東委員会が活動を開始するまでに総司令部主導のもと憲法を作る決意を固めました。
総司令官マッカーサー、民政局長
ホイットニーのもとで、民政局次長
ケーディスらが中心となり起草された
マッカーサー草案が2月13日に日本側に提示され、主な骨子として、象徴天皇制と戦争放棄の2点が強調されました。総司令部は、敗戦後日本を取り巻く厳しい国際情勢の中で、日本が天皇制を維持するためにはこうした憲法改正が必要であると内閣を説得しました。
内閣は、英文草案の翻訳が完了した部分から、順次閣議にかけ、同年3月5日閣議決定しました。この憲法改正案は、翌日アメリカ政府と極東委員会に届けられました。これを受け取った極東委員会は、新憲法草案に関して、日本の議会にかけられる前に、ポツダム宣言に反していないか十分検討するという立場をとりました。これに対しアメリカ政府とGHQのマッカーサーは、極東委員会の検討がポツダム宣言の「日本国国民の自由に表明せる意思」に干渉するものとして反論し、両者は極東委員会の干渉を排することに成功しました。
このマッカーサー草案は、民間人の高野岩三郎・杉森孝次郎・森戸辰男・鈴木安蔵らの憲法研究会が発表した「
憲法草案要綱」を参考にし、これには主権在民・天皇の国家的儀礼行為・寄生地主制廃止・改憲規定が記されていました。
民主的改革が進む中、政党も新たに結成されていきました。1945年(昭和20年)10月から12月にかけて、投獄から釈放された徳田球一・志賀義雄らが中心となり、
日本共産党が合法的活動を開始しました。同年11月には、戦前の旧無産政党を結集し、片山潜を書記長とする
日本社会党が作られました。また、11月9日には、旧立憲政友会系で戦前の翼賛選挙における非推薦議員を中心に
日本自由党が結成され、総裁に
鳩山一郎が就任しました。また、戦前の旧立憲民政党系で、翼賛体制期に大日本政治会に属していた議員を中心に
日本進歩党が結成され、総裁に
町田忠治が就任しました。12月には戦前に産業組合運動を行っていた指導者らにより、資本主義の修正を目指す
日本協同党が結成され、党首に
千石興太郎が就任しました。
衆議院は12月8日に解散され、翌年1月に予定されていた総選挙(実際は4月10日)を目指し選挙活動を開始しました。総司令部は保守的と見られた日本進歩党や日本自由党をパージにより弱体化させるため、1月4日に
公職追放令を発し、この追放令は1942年(昭和17年)の東条内閣の推薦を受けて当選した者をすべて失格にするもので、政界は大きく混乱しました。
1945年(昭和20年)12月には
衆議院議員選挙法も改正され、婦人参政権が認められ、満20歳以上の男女に選挙権が与えられて、有権者は戦前の3倍近い全人口の約50%まで拡大しました。
翌年4月、改正選挙法による戦後初の総選挙が行われました。公職追放により戦前の大部分の代議士がいなくなり、新人代議士が8割を占め、社会主義政党の進出や女性議員が39人誕生するなど、新しい政界の幕開けとなりました。こうした議員により、新憲法が審議されました。
総選挙の結果、第一党となったのが日本自由党でした。しかし、党首の鳩山一郎は、選挙後の5月3日に総司令部から公職追放の覚書が出されたため、急遽前内閣で外相を務めていた
吉田茂(1878~1968)がこれに代わり、1946年(昭和21年)5月22日、日本自由党と日本進歩党の連立で吉田茂内閣が成立しました。
新しい憲法は、明治憲法を改正する形式が取られ、1946年(昭和21年)6月8日に憲法改正草案が枢密院で可決され、8月20日に第90回帝国議会に付議されました。議会制度の改正は、新憲法の制定語にされる必要があったので、戦前の制度の
帝国議会の衆議院と貴族院で審議され、憲法草案は新しい議員により8月24日に衆議院で修正可決、10月6日に貴族院で修正可決され、11月3日、日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。
この時、非公開だった衆議院憲法改正委員会小委員会の議事速記録が、のちの1995年(平成6年)9月に公開され、この委員会と小委員会の双方の委員長だった芦田均が、憲法9条に関して修正追加を行ったことが明らかになりました。この
芦田修正により、日本国憲法第9条2項の冒頭に、「前項の目的を達成するため」という字句が挿入されました。極東委員会のメンバー国の中には、この字句により自衛のための軍隊保有が可能となってしまうという懸念を抱く国もあり、これを受けて、日本国憲法第66条2項の文民(シビリアン)条項の追加が求められました。