占領初期の社会と政治
太平洋戦争により国土が荒廃し、軍需産業の崩壊により経済機能が麻痺していた時期に、軍人の復員と海外居留民の引揚げにより人口が急増し、さらに米の凶作も重なり、危機的状況が国内で起こるようになりました。また復員軍人や軍需産業の労働者、引揚者など失業者は
1400万人にもなりました。
生活物資が極端に不足する中、人々は農村に買い出しに出かけ、各地に
闇市が生まれ、インフレが進行しました。戦争終結とともに、臨時軍事費の支払い決済が起こり、預貯金引き出しが活発となり、市場への通貨発行量が急激に増え、1945年(昭和20年)11月から物価が急速に上昇しはじめました。エネルギー供給の面では、朝鮮半島や中国からの強制労働者たちが速やかに本国へ帰還したことで、石炭の生産が急激に減少しました。
幣原内閣は、インフレを抑えるため、国民の手持ち現金をすべて預金させる預金封鎖を行い、新円を発行して1世帯あたり500円だけを渡す
金融緊急措置例を1946年(昭和21年)2月に出しましたが、効果が長続きしませんでした。
吉田内閣に代わると、エコノミストの
石橋湛山が蔵相に就任し、1947年(昭和22年)1月、
復興金融金庫(復金)を創設し、石炭・電力・海運などの重要産業に資金を供給しました。
吉田茂首相の私的諮問機関「石炭小委員会」の有沢広巳・大来佐武郎らは、
傾斜生産方式という政策を進言しました。これは、復興金融金庫の資金を最優先でまわし、総司令部に許可された輸入重油を使って鉄鋼生産を行い、増産された鋼材を炭鉱に集中させ、増産された石炭を再度鉄鋼業にまわすというもので、3000万トンの石炭生産を目標としました。
1947年(昭和22年)に成立した
日本社会党の
片山哲内閣のもとで傾斜生産方式は実行され、翌年に成立した
芦田均内閣でも引き継がれました。こうして石炭産業は1947年(昭和22年)後半に目標生産数に達しました。しかし一方で、巨額の融資は
復金インフレを助長しました。
同時期、
労働組合による労働運動も激しさを増していきました。日本共産党と産別組織の指導で、1947年(昭和22年)2月1日0時に、全国一斉に鉄道・電気を中心に公務員を含めた
ゼネラルストライキが計画されました。この主体となったのは国鉄・全逓信従業員組合の二大単組を有した
全官公労共同闘争委員会(議長伊井弥四郎)でした。
共闘側は月収1800円を目指しましたが、政府は1200円を譲らず、調停も失敗し、ゼネストは不可避と思われましたが、GHQのマッカーサーの中止命令により、前日1月31日に
二・一ゼネストは中止されました。