アメリカ対日政策の転換
マーシャル=プランを実行した中心人物のアメリカ国務省の
ジョージ=ケナンは、1947年(昭和22年)半ばから極東の米ソ対立の鍵として、日本の経済復興がアメリカの国益にとって重要になると主張しました。また、アメリカ陸軍省の対日政策担当者ドレーパーは、過度経済力集中排除法の過程を調査し、民主化政策に行き過ぎがあると発表しました。更に国内でも、共和党が日本への援助の
ガリオア資金(米軍占領地域救済資金)や
エロア資金(占領地域経済復興援助資金)などがアメリカ納税者の負担により行われていると問題にし、アメリカ国内の一致した意見として、日本復興が進められることになりました。
1948年(昭和23年)10月、アメリカの国家安全保障委員会の決定として、「米国の対日政策に関する勧告」が採択されました。これは芦田内閣崩壊と第2次吉田内閣成立の時期と重なり、その内容は、占領軍の権限を徐々に日本政府に委譲し、日本を友好国として育成し、経済復興の妨げになる制約を排除して日本復興を急ぐというものでした。冷戦の開始により、アメリカは日本の占領政策の目的を「非軍事化」から「経済復興」へ転換し、経済政策を占領後期の市場経済化へ移行しました。
こうしたアメリカの対日政策転換に重要な影響を与えたものが、1948年(昭和23年)にワシントンで採択された
経済安定九原則でした。トルーマン大統領の特使として公使兼GHQ経済顧問となったデロイト銀行頭取の
ドッジがこの原則を占領下の日本に適用しました。
経済安定九原則のうち、総予算の均衡・徴税計画の促進強化・金融機関貸出し拡大の厳重な制限の3点は財政均衡と信用の制限を図るものとされ、残りの賃金の安定計画の立案・物価統制の強化・貿易と為替の強化・輸出向け資材配給制度の効率化・国産原料と国際製品の増産・食料集荷の効率化の6点は一種の統制強化とされました。この九原則に基づき緊縮財政を行い、インフレーションを一気に抑え、日本の国内経済を国際経済に結びつける単一為替相場が目指されるようになりました。
1949年(昭和24年)1月に総選挙が行われ、民主自由党が絶対多数の議席を獲得し、
第3次吉田内閣が成立しました。民主自由党を後ろ盾とした内閣は、保守結集を目指し民主党とも連立をはかりました。こうして、同年3月に来日したドッジが提唱した
ドッジ=ラインに基づいた超均衡予算が組まれるようになりました。
日本経済の復興・安定・自立のため、ドッジは以下の内容を日本政府に要求しました。
(1)国内総需要を抑制し輸出を拡大させる。
(2)単一為替レート設定・補助金廃止により市場メカニズムを回復させ合理化を促進する。
(3)政府貯蓄と対日援助で民間投資資金を供給し、生産を拡大させる。
これに基づき、1949年(昭和24年)4月に1ドル=360円の単一為替レートが設定されました。
続いて5月にコロンビア大学の財政学者
シャウプを団長とする税制の専門家が来日し、
シャウプ勧告という税制についての勧告書を作成しました。これは、ドッジ=ラインに基づく財政運営を税制面から裏付けるもので、直接税中心主義を採用し、所得税の累進性を高めるという内容でした。一方で、資本蓄積を目指すため、法人税は優遇されたものになりました。