新体制運動
1930年代後半から、軍部の政治的発言力が高まり、政党の影響力が弱くなりました。政党側からは、軍部と協力して影響力を取り戻そうとする動きが高まり、1940年(昭和16年)2月に衆議院で軍部批判の発言をした立憲民政党の斎藤隆夫が議員を除名されました(斎藤反軍演説事件)。ヨーロッパにおけるドイツ軍の優勢が伝わると、日本の国内体制の改革に大きな影響を及ぼすようになりました。
1940年(昭和15年)6月ころから、影響力を失った既成政党に代わり、近衛文麿を押し立て、ナチス=ドイツやソ連共産党などの一国一党の全体主義的国民組織を成立させようとする
新体制運動が活発になりました。陸軍はこの運動を積極的に支援し、米内内閣を退陣に追い込みました。同年7月に社会大衆党が解党し運動に加わり、立憲政友会各派、立憲民政党反主流派など既成政党や諸団体が解散し、はじめはこの運動に消極的姿勢を示した立憲民政党主流派も反対姿勢をとれず、同年8月に解党しました。
1940年(昭和15年)10月には、こうした諸勢力を集めて総理大臣の近衛文麿を総裁とする
大政翼賛会が発足しました。ところがこの大政翼賛会は、当初の構想のようなナチス流の一国一党的政治組織とはならず、上意下達のための官僚行政の補助組織として存在するにとどまり、強力な政治指導力をもつことはありませんでした。しかし、大政翼賛会はのちに産業報国会・大日本婦人会・町内会・部落会(隣組)などの諸団体を傘下におさめ、その後の太平洋戦争時に政府の意思を国民に伝達し、戦争遂行のために人々を動員するうえで大きな役割を果たしました。大政翼賛会成立により、複数政党制は崩壊し、
自由主義的議会制度は形骸化し、議会は無力なものとなりました。