リットン報告書と国際連盟脱退
満州事変に対し、中国は日本の侵略行動であると国際連盟に提訴し、「満州国」の独立を認めない方針を固めました。満州事変を局所的なものであると認識していた西欧列強も、日本政府の事変不拡大が不履行になっていることに気づき始め、不戦条約と九カ国条約に違反するとして対日不信感を強めました。1932年(昭和7年)1月、日本軍が張学良の仮政府が置かれた錦州を占領すると、アメリカが不承認宣言を発し日本を非難しました。国際連盟も満州問題調査のためにイギリスの政治家で元インド総督のリットンを代表とする
リットン調査団を派遣し、1932年(昭和7年)調査団は
リットン報告書を発表しました。この報告書では、「満州国」が自発的な民族独立運動の結果成立したとする日本の主張を否定していたものの、満州の中国主権を認めると同時に、日本の権益も保障した内容でした。
しかし、斎藤実内閣は軍部の既成事実を認め、リットン報告書の発表直前の1932年(昭和7年)9月に
日満議定書を取り交わし独立を承認し、翌年日本軍は熱河省にも軍事行動を拡大しました。
こうした日本の軍事行動に対し、国際連盟は1933年2月の連盟臨時総会でリットン報告書をもとにした中国の主権確認と満州における自治政府樹立と日本軍の撤退勧告の決議案を出し、
42対1(反対は日本のみ)で可決されました。日本全権の
松岡洋右は即座に退場し、3月12日、日本は国際連盟脱退を通告しました。こうして日本は、国際的に孤立していきました。
1933年(昭和8年)5月、日本軍は中国軍と塘沽停戦協定を結び、満州事変をひとまず収拾させ、「満州国」の経営をはじめました。「満州国」は東三省と熱河・興安など5省からなり、新京(長春)を首都としました。1934年(昭和9年)3月には溥儀が皇帝となり帝政がはじまり、関東軍が駐屯し日本人官吏が派遣され日本の傀儡政権として運営されるようになりました。
中国側の抗日ゲリラ活動も続きましたが、日本軍は厳しい報復を行いました。「満州国」を承認した日本政府は、
満蒙開拓団や
満蒙開拓青少年義勇軍などの移民を送り込み、その他朝鮮総督府により朝鮮人移民も送られました。こうした開拓民は、太平洋戦争末期のソ連参戦の大混乱で、その多くが死亡しました。また、親を失った子供の多くはその後
中国残留孤児となりました。
ジャーナリズムの軍部支持と国内世論
ジャーナリズムの発展にともない、1930年代には『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』の4大新聞は発行部数が一日100万〜150万部にも達し、国内世論形成に大きな影響力を持っていました。関東軍の自作自演で柳条湖事件がおこると、こうした大新聞は一斉に中国側の計画的行動と断定して報道し、日本軍の行動を賛美するキャンペーンを展開しました。若槻内閣が事変不拡大を発表すると、対中国の強硬方針を報道し、1932年(昭和7年)のリットン報告書の公表にあたっては国際連盟脱退の気運を高める論調を作り出しました。こうした新聞論調を元外相の幣原喜重郎は「偏狭なる排外思想」と非難しましたが、軍部礼賛の報道により政府の協調外交は世論の支持を失い、日本は世界大戦へ進んでいくことになりました。