アテネの隆盛
ペルシア戦争後、アテネはギリシアでも最も優れた民主制度を作り上げ、
デロス同盟の盟主として、ギリシア内での支配力を強めていきました。
一方、ギリシアには、
スパルタを中心とし、コリントスや他のポリスが加盟する
ペロポネソス同盟というものがありました。
ペロポネソス同盟の加盟国は、アテネを中心としたデロス同盟の拡大に危機感を覚えていました。
こうした緊張感のなかで、コリントスの植民市とアテネの小さな紛争がきっかけとなり、紀元前431年から紀元前404年にかけてデロス同盟とペロポネソス同盟の間に大規模な戦争が起こります。
ペロポネソス戦争の初期
最初、優勢だったアテネでしたが、スパルタを中心とした陸軍に押されたため、当時の指導者
ペリクレスは市民を城壁内に匿いながら籠城戦をするようになります。
(ペリクレス)
ところが、この籠城戦のさなか、アテネの街は当時地中海地方で猛威を振るっていた伝染病に冒され、全人口の三分の一の市民と、指導者ペリクレスも犠牲になりました。
危機に陥ったアテネですが、強力な海軍は顕在で、ペロポネソス同盟側と互角に渡り合います。
衆愚政治のはじまり
こうした状況のなか、アテネ内部では
デマゴーゴス(扇動政治家)とよばれる政治家たちが多数現れるようになります。
ペリクレスの死後、指導者となったクレオンは巧みな弁論術をつかい民衆を扇動し、ペロポネソス戦争における和平案をことごとく潰します。
また、その後のアルキビアデスは、無謀なシチリア遠征軍を組織し、この遠征によってギリシア軍は壊滅的な状況になりました。
このように、弁論術に長けたデマゴーゴスが民衆を扇動して行った政治を、衆愚政治と言います。
このデマゴーゴスは、のちに扇動的な詭弁や嘘などをあらわす「デマ」という言葉の語源になりました。
アテネは、民主制度を完成させましたが、度重なる改革の結果、将軍職を除くすべての役職は、市民からくじ引きで選ばれるようになりました。こうした状況では、職位について人々を指導できる知識や経験などをもたない人物が、国の要職に就く可能性があったわけです。このような制度上の問題も絡み、アテネの民主制度は衆愚政治に変容してしまいます。