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17_80 中世の社会・文化と東アジア / 鎌倉時代

【源平争乱、鎌倉幕府の成立、封建制度のはじまり】 受験日本史まとめ 21

著者名: Cogito
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鎌倉幕府の創設

源平争乱の最中、源頼朝は関東から動かず、鎌倉に新しい政権を作る準備をしていました。源氏の拠点鎌倉は東海道の要衝で、三方を丘陵に囲まれ、南は海に面した要害の地でした。また、源頼義が源氏の守り神である石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を建立するなど、古くから源氏のゆかりの土地でした。

源頼朝は、1180年(治承4年)の富士川の戦い後、侍所を設け、別当という長官に三浦一族の和田義盛を任命し、源頼朝と主従の関係を結んだ武士の御家人を統制させました。1184年(元暦元年)には公文所と問注所を開き、公文所は後に整理され政所となりました。その別当には朝廷の下級官吏だった大江広元を任じ、政務や財政事務を任せました。問注所の長官は執事と呼ばれ同じく朝廷の下級官吏だった三善康信を招いて裁判にあたらせました。

外征としては、常陸国の佐竹氏・大掾氏、下野国の足利氏(藤原姓)、上野国の新田氏を屈服させ、関東の荘園や公領を支配しました。1183年(寿永3年)には、義仲と対立した後白河法皇と交渉のすえ、東海・東山両道諸国の支配権を公式に承認されました。その後、後白河法皇が源義経に追討令を発すると、源頼朝はこれに強く抗議し、追討令の撤回、諸国に守護、荘園や公領に地頭を任命する権利、田1段あたり5升の兵糧米を徴収する権利、諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得しました。こうして、徐々に鎌倉幕府が確立していくことになります。

守護は、各国に1人づつ、主に東国出身の有力御家人が任命されました。その任務は大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕という大犯三カ条に限定されていましたが、実際には治安維持のために広範囲にわたって警察権を行使していました。また守護は、地方行政にも深く関与し、国司はいたものの、多くの武士出身の在庁官人が行政を行っていました。荘園や公領におかれた地頭は、御家人の中から任命されました。地頭の任務は、年貢徴収と荘園領主や国衙への納入、土地管理、治安維持などでした。

1186年(文治2年)、源頼朝は京都守護をおきました。京都守護は娘婿の一条能保が任じられ、京都の警備と御家人の取り締まりを行うようになりました。また、九州の大宰府には鎮西奉行、奥州には奥州総奉行をおき地方の御家人を統率させました。そのころ朝廷では九条兼実が源頼朝の後援をうけ摂政の地位につき、彼は貴族の合議制を重視し、後白河法皇の専制に対抗しました。1190年(建久元年)源頼朝は上洛し、近衛大将となり、1192年(建久3年)後白河法皇の死後に征夷大将軍に任じられました。

鎌倉幕府の成立は以下のように諸説あります。

1180年(治承4年)年末源頼朝が鎌倉に居を構え、侍所の設置や南関東・東海道東部の実質的支配に成功した時。
1183年(寿永2年)10月源頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けた時。
1184年(元暦元年)10月公文所(政所)・問注所を設けた時。
1185年(文治元年)11月守護・地頭の任命権などを獲得した時。
1190年(建久元年)11月源頼朝が右近衛大将に任命された時。
1192年(建久3年)7月源頼朝が征夷大将軍に任命された時。

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