聖徳太子の政策
推古朝の成立後、摂政となった
聖徳太子は、様々な政策を行いますが、その中でも重要なものが
冠位十二階の制と
憲法十七条の制定です。
冠位十二階の制は
603年に制定され、
大徳→小徳(紫)→大仁→小仁(青)→大礼→小礼(赤)→大信→小信(黄)→大義→小義(白)→大智→小智(黒)の十二階位に分けて冠位を授けるものでした。
これは氏姓制の門閥世襲を打破し、優秀な人材を登用する狙いがありました。
一方憲法十七条は
604年に制定され、天皇への服従や仏法僧の崇敬、衆議尊重、官僚の道徳的訓戒などがその内容でした。
また、620年には
『天皇記』・『国記』という歴史書が聖徳太子と蘇我馬子により編集されます。
602年に来日した
観勒という百済の僧が、中国の
元嘉暦という
暦法や
天文・地理・遁甲方術を伝えました。
この時期、遣隋使が600年と607年に派遣され、新羅への征討軍も600年と602年に編成されています。冠位十二階の制と憲法十七条の制定は、世界帝国となった隋と交際するための最低限の政治・儀礼制度だったのです。
遣隋使の派遣
隋の成立
北朝から興った隋は、
文帝の時代に南朝の
陳を滅ぼし、589年南北を統一し、統一王朝となりました。
一方倭国は、5世紀に倭の五王の遣使以来、中国との交渉が途絶え、
冊封体制から離脱していました。
しかし、隋が統一王朝となり外征を活発に行うようになり、朝鮮半島の状況も依然として抗争が続く中、倭国は遣隋使の派遣を決定します。
遣隋使の派遣
第1次遣隋使は600年に派遣されたとされていますが、この時の使節は皇帝文帝に倭国の政治や儀礼が「義理」のないものと指弾され虚しく帰国しました。
607年には第2次遣隋使が派遣され、
小野妹子が隋に渡りました。
この際、小野妹子が隋の皇帝煬帝に渡した親書の中には、次の一文が記されていました。
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々
これは、倭国の王が自ら天子と名乗り、中国との対等な立場を示そうとした文章でした。また、朝鮮諸国に対する優位性を確立しようとする意図もありました。
隋の煬帝はこの倭国の親書に激怒しました。しかし、当時隋は朝鮮の
高句麗と戦争中で、倭国と朝鮮が手を組むことを恐れた煬帝は、無礼な使節にもかかわらず、その帰国に際して、
裴世清という国使を遣わしました。
その後、遣隋使は、裴世清の帰国に小野妹子が付き添った第3次、
犬上御田鍬が派遣された第4次と続きました。
第3次遣隋使には、留学生の
高向玄理、留学僧の僧侶の
旻・
南淵請安なども同行し、隋の盛衰と唐の成立を経験したのち、帰国しさまざまな先進知識をもたらしました。
南淵請安は塾を開き、その生徒の中には中大兄皇子と中臣鎌足がいました。彼らは南淵請安の塾に通う途中に蘇我氏の打倒を謀ったとされ、のちの大化の改新に大きな影響を及ぼしました。