蘇我氏の台頭
蘇我稲目の登場
継体天皇の死後、大和政権では、
安閑天皇・宣化天皇を支持する
大伴金村と、
欽明天皇を支持する
蘇我稲目が抗争を続ける
二朝併立の状況となりました。
ここで登場した蘇我氏は、大和政権の大豪族で、財政を担当し三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)の管理者となり、大臣に任命されました。
また、大伴氏と並び、軍事を担当した大連の
物部氏も台頭してきます。
539年に妥協が成立し、欽明天皇の政権に一本化されますが、大伴金村は朝鮮半島における政策を
物部尾輿に弾劾され、失脚します。
物部氏との対立
大伴金村の失脚後、今度は蘇我稲目と物部尾輿の対立が激しくなり、538年に百済から伝来した仏教をめぐって
崇仏派の蘇我氏と
廃仏派の物部氏が争いました。
仏教の受容を巡る対立は、子の代まで持ち越され、最終的に尾輿の子の
物部守屋を稲目の子の
蘇我馬子が滅ぼしました。
推古朝の成立
推古天皇の即位
中国では、南北朝時代が終わり、北朝の
隋が統一王朝となっていました。
倭国も、この世界帝国へ対抗するため、集権化が急がれました。
この頃蘇我氏は隆盛となり、一族の女性を天皇家に嫁がせ、
外戚として勢力を拡大していました。
天皇家は
武烈天皇→継体天皇→安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇併立→欽明天皇→敏達天皇→用明天皇と変わっていましたが、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼした後
崇峻天皇を即位させました。
しかし、この崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたにも関わらず、馬子の専横を嫌っていたのでした。
そこで蘇我馬子は、自ら擁立した崇峻天皇を暗殺するという事件を起こします。
崇峻天皇の暗殺後、蘇我馬子は事態収拾のため欽明天皇の皇女で敏達天皇の后であった
額田部皇女を592年に女帝として即位させました。
これが
推古天皇で、翌年から甥の厩戸皇子(のちの聖徳太子)が摂政となり、推古・厩戸皇子・馬子により王権の権力集中が図られるようになります。
(天皇家系図)