新規登録 ログイン

17_80 原始・古代の社会・文化と東アジア / 飛鳥時代・奈良時代

【推古朝、聖徳太子の政策(冠位十二階の制・憲法十七条)、遣隋使】 受験日本史まとめ 7

著者名: Cogito
Text_level_2
マイリストに追加

蘇我氏の台頭

蘇我稲目の登場

継体天皇の死後、大和政権では、安閑天皇・宣化天皇を支持する大伴金村と、欽明天皇を支持する蘇我稲目が抗争を続ける二朝併立の状況となりました。

ここで登場した蘇我氏は、大和政権の大豪族で、財政を担当し三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)の管理者となり、大臣に任命されました。


また、大伴氏と並び、軍事を担当した大連の物部氏も台頭してきます。

539年に妥協が成立し、欽明天皇の政権に一本化されますが、大伴金村は朝鮮半島における政策を物部尾輿に弾劾され、失脚します。

物部氏との対立

大伴金村の失脚後、今度は蘇我稲目と物部尾輿の対立が激しくなり、538年に百済から伝来した仏教をめぐって崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争いました。

仏教の受容を巡る対立は、子の代まで持ち越され、最終的に尾輿の子の物部守屋を稲目の子の蘇我馬子が滅ぼしました。

推古朝の成立

推古天皇の即位

中国では、南北朝時代が終わり、北朝のが統一王朝となっていました。

倭国も、この世界帝国へ対抗するため、集権化が急がれました。

この頃蘇我氏は隆盛となり、一族の女性を天皇家に嫁がせ、外戚として勢力を拡大していました。

天皇家は武烈天皇→継体天皇→安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇併立→欽明天皇→敏達天皇→用明天皇と変わっていましたが、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼした後崇峻天皇を即位させました。

しかし、この崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたにも関わらず、馬子の専横を嫌っていたのでした。

そこで蘇我馬子は、自ら擁立した崇峻天皇を暗殺するという事件を起こします。

崇峻天皇の暗殺後、蘇我馬子は事態収拾のため欽明天皇の皇女で敏達天皇の后であった額田部皇女を592年に女帝として即位させました。

これが推古天皇で、翌年から甥の厩戸皇子(のちの聖徳太子)が摂政となり、推古・厩戸皇子・馬子により王権の権力集中が図られるようになります。

ALT

(天皇家系図)
1ページへ戻る
前のページを読む
2/3
次のページを読む

Tunagari_title
・【推古朝、聖徳太子の政策(冠位十二階の制・憲法十七条)、遣隋使】 受験日本史まとめ 7

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『日本史用語集』 山川出版社
『詳説日本史』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 30,985 pt 
 役に立った数 3 pt 
 う〜ん数 4 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。