平家物語
額打論
さるほどに、永万元年の春の頃より、主上(しゅじょう)御不予(ごふよ)の御事と聞えさせ給ひしが、夏のはじめにもなりしかば、ことのほかに重らせ給ふ。これによつて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上一宮の二歳に成らせ給ふがましましけるを、太子に立てまゐらせ給ふべしと聞えしほどに、同じき六月廿五日、にはかに親王の宣旨下されて、やがてその夜受禅(じゅぜん)ありしかば、天下なにとなうあはてたる様なり。その時の有職の人々申し合はれけるは、本朝に童帝(どうたい)の例を尋ぬれば、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御禅(ゆづり)をうけさせ給ふ。これはかの周公旦の成王にかはり、南面にして、一日万機の政(まつりごと)をおさめ給ひしに准(なづら)へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。これぞ摂政のはじめなる。鳥羽院五歳、近衛院三歳にて、践祚(せんそ)あり。かれをこそ、いつしかなりと申ししに、これは二歳にならせ給ふ。先例なし。物さはがしともおろかなり
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